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誰が為の黄昏  作者: あめ
【3章】 空を見上げ
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夜 1

 


 一口、コーヒーを飲んだ。少しの苦味と軽い甘さが脳を活性化させる。植物の模様が描かれたマグカップがカタリという音を立て、テーブルに戻された。甘い、苦いに頓着しない(あお)はその時の気分によって砂糖の量を変える。この日は甘すぎない、ブラックに近いもの。瑠雨(るう)曰く、牛乳とコーヒーの比率がおかしい蒼特性のコーヒーは、マグカップの中でとぷりと揺らいでいた。

 一人分の呼吸音しかしないその部屋で、空気はゆっくりとしか動かない。蒼が軽く身動きを取れば、それに従い微小な風が起こる。ため息を吐けば、空気が困ったようにどよめいた。そんな中、書類を静かに漁る音だけが辺りに響く。


 蒼はいつも通り白衣を着て、黒い髪を無造作にまとめていた。いつもと違うのは、蒼が自主的に書類仕事をこなしていること。蒼が駄々をこねずに淡々と仕事をすれば、山の様だった書類もあっという間に更地になる。普段からこうすれば良いものの、残念なことに肝心の蒼がやる気を出さないと意味が無い。計画的に行動するという行為は都合良く蒼の中で消されていた。

 蒼は時折頬杖をつき、憂鬱そうに書類を眺めていた。時折、困ったように書類を光に透かすものの特にそれに意味は無い。論文を読んだり、研究室の報告書の確認をしたり。

 ずっとずっとそんな作業をしている。


 何杯、コーヒーを飲んだのか。

 いくつ、ため息をついたのか。

 何周、時計の針は回ったのか。


 知れない。数えてないから、そんなこと。


 普段何だかんだ耳に痛いことを言いながら、蒼にくっついている瑠雨は少しの間不在。いつも半歩下がって、耳が痛む事を言ってくる瑠雨がいるはずの場所は、ぽっかりと空いていた。何回後ろを振り向いて、幾回瑠雨が居ないことを思い出したのか。

 瑠雨を呼べば直ぐに戻って来てくれる。そんな事は分かっている。正直に言えば寂しい。早く戻ってきて欲しい。そんな、心の隙間を忘れる為に蒼は書類を片付けていた。


 何杯目か分からないコーヒーを飲み干した。

 別に瑠雨は蒼のことが嫌いになって、傍を離れたわけではない。瑠雨には瑠雨の用事がある。確かこの日は食事に行くとか言っていた。日付が変わるころには戻るとも。食事なら蒼もついて行きたかったが、残念なことにその時は満腹だった。そんな状態でついて行っても仕方ないのでお留守番。こんな事になるなら着いていけば良かったと思うも後の祭り。


 現在の時刻は夜の九時を回った頃。普段の蒼なら布団の上でゴロゴロしている時間帯だ。少なくとも研究所の自分の部屋にはいない。

 朝からずっと闘っていた書類の群れをやっつけた蒼は大きく伸びをした。ゴソゴソとお菓子の缶を引っ張り出して、中の紅茶クッキーをご飯代わりに食べる。

 チラッとまた時計を見た。


「……まだかなぁ」


 瑠雨が戻ってくると言った時間までにはあと三時間もある。ゲーム、お昼寝や散策をしている時の三時間はあっという間で直ぐ駆け抜けて行く。だがしかし、大嫌いな書類仕事やつまらない会議を受けている時の三時間はカタツムリよりもゆっくりだ。もしかしたらやる気のない日のカタツムリより遅いかも知れない。

 こういう日に限って、いつも無茶振りを吹っかけてくる研究所の知り合いや博士は来ない。時間帯が原因かなとは思って、蒼は少し考えた。結論は直ぐ出る。


「いや、ないかな」


 瑠雨に見張られて丑三つ時までここで仕事をしていた時、脱走した博士が乱入して来た。遅れてやってきた捕獲用ネットを持った研究員(又の名を対博士精鋭隊)によってドアは蹴破られ、てんやわんやな事態になった事は記憶に新しい。

 真の騒がしさに時間帯なんて関係ないのだ。今日がやけに静かなだけである。


 ──静かな時って必ず博士がやるんだよなぁ。


 数日後や近い未来、研究所で飼われてる猫のみーちゃんが話し始めたとか、鉢植えの花がタップダンスを始めたとか言われても仕方ない。

 少なくとも隣接した研究室複数が、一夜で藤に絞め殺された時よりはマシだろう。なぜ藤が急成長したのか、その理由は博士のみぞ知る。あの時は季節外れの藤の花が満開ですごく綺麗だった。お弁当を皆で持ち寄って、寒空の下、花見をしたのだけは楽しかった。別名現実逃避と言う。


 こういう時、甘いもの片手にたまに会いに来てくれる白樹や白夜も来ない。ふらっと遊びにと言うのは建前で、涙目の蒼を見に来た千里はもう居ない。

 蒼はそろそろ壁とお話を始めそうだった。


「────!」


 時計をぼんやりと眺めていたら、蒼の背後の空気が滑った。虫、ではない。もう少し大きいもの。

 何となく、その雰囲気に心覚えはあった。碧眼を時計から逸らさず、意識だけを向ける。少しして動きが止まった。蒼はぽつりと呟いた。


「……白鼠(しろねずみ)さん」


 いつものような元気さは、ただいま現在進行形で行方不明だ。蒼の視界の外で、端っこで、さっきよりも大きめにかさかさと音がした。蒼は視線を音の方向に向けた。視界にするりと一匹の純白のネズミが飛び込んできた。真っ赤なスグリに似た瞳で、ネズミは蒼のことを見返してきた。


「どうも」


 蒼はそう言うと机に突っ伏した。ようやく人語を話せる人が来てくれた。実はお昼頃、一人寂しく作業している蒼の血をわざわざ吸いに蚊が来てくれた。瞬殺したが。

 そんな蒼を慰める様に白鼠は蒼を撫でた。動かなくなった蒼に静かに慈愛の目を向ける。


「起きてください、蒼さん」

「……瑠雨がいないの」


 白鼠が優しくそう言うと、少し不貞腐れ気味な声が返ってきた。白鼠は知っていた。言わないが気がついた。この不貞腐れ気味な、少しぶっきらぼうな態度を人がするのは単に照れ隠しだと言うことを。恐らく白鼠が会いに来てくれたのが嬉しいのだろう。

 ちなみに賢者様の場合、半ギレも照れ隠しに含まれる。


「知ってます。そうじゃなければ私は姿を現しません」

「そうなの?」


 蒼はもそもそと動いて白鼠の体に触れた。触り心地良い毛皮が幾らで売れるかなんて考えてなどいない。

 白鼠は長いしっぽをゆらゆらさせながら教えた。


「えぇ。余程のことがない限り、私は物陰から静観するのみです」

「……つまり?」

「あなたが一人でしゅんとしていたのが可哀想過ぎて、仕方なく姿を現しました」


 蒼はまた少し動いた。そろそろと手を伸ばし、小瓶に入っていたチョコレートを鷲掴みする。


「そう言われると恥ずかしいね。……てっきり瑠雨を避けているのかと思ったよ」

「それは違いますね。単に今は彼が居ない方が都合良かっただけです」


 蒼の核心をついた質問をサラリと誤魔化す。避けているか避けていないかで言われたら、白鼠は避けている。それは瑠雨に限った話だけではない。一部例外はいるのだが、人と〈蝶〉問わず、この世に足を置いているものは避ける対象だ。

 まぁ強いて言うなら、


 ──彼は〝視線〟が強すぎます。


 白鼠は瑠雨が非常に苦手である。狭いところで潜り込み、密かに行動して人々が紡ぐ物語を見る役目を賢者様から白鼠は受けている。だが最近良く視線を感じていた。どこから見られているのか分からない。害はない。それは誰のものだろう。微かな香りだけを感じた。

 蒼と関わって気がついた。あれは蒼を主とする〈蝶〉のものだと。すなわちそれは瑠雨。以来、白鼠は故意に瑠雨の周りを避けるようにしていた。


 蒼はようやく起き上がるとぼんやりとした脳を叩き起すべく、チョコレートの包みを開けた。食めば、甘さが直ぐ全身に伝わる。白鼠は蒼がそうしているうちにしっぽを器用に使いながらコーヒーを入れ直してあげていた。


「ところで……白鼠さん、何でここにいるの?」


 コーヒーをありがたく貰いながら、蒼は聞いた。その碧眼はきらりと輝いている。別に何の理由もなく蒼の周りをうろついていた訳では無いだろう。今この時、白鼠が見に行くべき人は他にたくさんいる。


「賢者様からの使いです。あんなに落ち込んでいるとは思いませんでしたが」


 白鼠はさっと机の上を見渡した。ついでにその前足を書類の一箇所にポテッと置き、ここ間違ってますとも教えた。毒ゼリと毒ニンジン、二つの学名の翻訳ミスだ。


「いつもはしない書類仕事もしていたみたいですし、瑠雨さんが見たら卒倒しますね」


 蒼は何も言えなかった。まるで普段仕事してない言い方だったが、それは違う。やる事は最低限やっている。そう言い返したかったが、十中八九墓穴を掘る気がした。


「……賢者様からの使いって?」

「今回は伝言です。あなた方が賢者様の住処に来たとき、あなたは賢者様に言ったそうですね。彼の過去が知りたいと」


 そう言えばそんな質問をした覚えがある。早めに目が覚めて、賢者様と一対一の会話をした時、質問を許されて、真っ先に思い浮かんだのがそれだった。今考えれば、賢者様とは何者なのか、紫晶庭とは何だったのかとか他に質問のしようがあったと思う。だが、後悔はしていない。


「教えて貰えるの?」


 瑠雨の過去を少しでいいから。本人にもちょっぴり教えて貰ってはいるがそれは断片的なもの。


「賢者様が質問に答えるとか言ったそうですからね。……どんな気紛れを起こしたのか分かりませんが、その言葉だけは本当です」


 白鼠はチョコを抱えると齧り始めた。やがて蒼の前でゆっくり食べ終えると、白鼠は唐突に言った。


「瑠雨は元々〝生贄〟でした」


 その言葉を蒼はゆっくりと咀嚼した。蒼がその単語を聞いて最初に思い浮かべたのは、生贄にされたくない瑠雨が大暴れするという映像。

 白鼠は静かに続けた。


「言い換えると〈蝶〉となったキッカケが、贄にされたことらしいです」

「……死因が生贄?」


 蒼は少し困惑した。過去こそは知らないが、あの瑠雨がみすみすそんな事を受け入れたとは思えない。過去の瑠雨こそ知らないが、今の瑠雨のことならよく知っているつもりだ。性格に革命が起こっていない限り、恐らく蒼の予想の通りだろう。


 ──〈蝶〉になる為に生贄になったのかな?


 白鼠は蒼の勘違いを訂正した。


「死んでは無いです。〈蝶〉は厳密にはまだ死んでいません」

「ふぅん……」


 蒼は白鼠から視線を外すとぼんやりと遠くを見た。

 何の贄にされたのか、なぜその道を選んだのか。疑問が増えた。白鼠に聞いても恐らく答えてはくれないだろう。白鼠がそこまで知っているとは思えないし、何より深く他人に聞きすぎるのは瑠雨にとって嫌なことだろう。聞くなら直接本人にだ。

 蒼は静かに赤色を食む。


「賢者様からの伝言は以上です。蒼、話は少し変わりますが、よろしいですか?」

「いや良くない」


 即答。

 蒼の嫌な予感センサーがピッと鳴ったのだ。透き通った白鼠の声が嫌に蒼の耳に残る。白鼠は逃げを選択した蒼の目を真っ直ぐ睨めた。蒼は瑠雨の帰還をかつて無いほどに願った。ついでに博士が乱入してきてくれないかな、とも願う。


 白鼠は容赦なく紡いだ。


「あなたは、」


 正体不明のあの毒すら扱ったのですか?


「──────っ」


 その意味を察した蒼は何も言わずに黙り込んだ。沈黙は肯定である。白鼠は次を選ぼうとした蒼の手に乗ると、そこで丸まった。


「私は医者です。既にあなたに起きている異変くらい、とうの昔に察知してます。あなたが過去、行ったことについて……それについて否定も肯定も出来ません。ただ、もしも一つだけじゃなく、もう一つ分扱おうとしているのなら……」


 白鼠は少し怒ったように言った。


「その時は全力で止めます」

「──そっちは大丈夫。一人分だけで正直手一杯……です」


 少し項垂れながら蒼は言った。途中から白鼠の迫力に気圧されて怯えながら。


「そっちはと限定されたのが気になりますけどね。まぁ、良いでしょう。何か異変あれば呼んでください。手伝う事くらいは私達にもできるでしょう」


 その言葉を残して白鼠は消えていった。また部屋に一人、蒼はゆっくり目を閉じた。









 遠い微睡みの中、足音がした。瑠雨の足音ではない。時刻は夜の二時を示していた。


 ──誰?


 扉が開く音と同時に蒼は目を覚ました。隣に人影の気配を感じる。蒼がゆっくりそちらを向くと、人影は椅子に腰かけて蒼のことを見ていた。


「何でここにいるの、蒼。うさぎ穴においでって瑠雨が言ってたけど、来る?」


 暗闇の中、薄赤い瞳を輝かせ、蒼の隣にいたのは白夜だった。



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