再会 2
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そよ風が吹いた。それは頬をかすり、髪を軽く巻き上げていった。一見気が付かないが、ガラスの様に透明な天井がドームのようにそこを覆っている。気候が常にコントロールされているここでは外の天気を見ることは出来るが、感じることは無い。……いや、それだと語弊がある。最低限の四季を感じることが出来る程度の暑さ寒さはあるが、それを極端に知ることは出来ないのだ。
──それは、〝箱庭〟と呼ばれる由縁の一つである。
今日の空調は、外の天気と合わせて晴れ。湿った地を乾かすように強い日が照りつける。人々は帽子を被ったり、日陰に避難したりして午後の空気を満喫していた。
そんな中、人が賑わうテラスの片隅に二人はいた。屋根の影があるため、帽子は必要ない。丸い小さなテーブルを挟んで、時折思い出したように手元のジュースを飲んでいる。赤い飾り紐をつけた少女は薄い色のメロンソーダを。もう一人の少女はオレンジジュースを。
そっくりの長い黒髪をまとめた二人は、ぼんやりと往来する人々を眺めていた。その双眸は揃って同じ木賊色。光の加減によって若竹色に見える瞳達は、とても透明だった。
「──ねぇ、私に会わせたい人って誰?」
唐突にそう紡いだ少女は、軽く首を傾げた。ぱさりと黒髪が肩から滑り落ちた。
「あぁ、まだ言ってなかったわね。会ってからのお楽しみってことにしておきましょう」
「翡翠!」
プンスカと怒る少女を見て、翡翠もといローリエはクスリと笑った。
〝翡翠〟
ローリエというあだ名で呼ばずに、そう呼ぶ人物は親しい者の中でもかなり限られる。今、ローリエの目の前にいるのはその一人。その人物は、ローリエの新たな主であるリゼである。快活で、理知的な少女はその言動と不釣り合いにまだ幼い。
「怒らないでリゼ、せっかくの楽しみが台無しになるわ」
最近、ローリエは何かある度にそういう笑い方をした。リゼは別にそれが不愉快という訳では無いのだが、どこか隠し事をされている気分になって少し寂しい気分になる。否、ローリエは実際に隠し事をしているのだろう。それくらいリゼには分かる。
まだ一ヶ月も共に過ごしていないが、リゼは目を覚ましてからローリエと共にずっと行動しているのだ。時間が止まるあの場所に御伽の練習をしに行く時も、お出かけをする時も常に一緒だ。時間だけで見たら、共に過ごして半年は経っているのでないだろうか。
リゼはもちもちしているほっぺを更に膨らませた。その様子にローリエの頬はまた緩む。
「ローリエ! 最近隠し事が多いわよ、教えてよ」
「あら、嫌って言ったらふて腐れるのかしら?」
またローリエは酷く楽しそうに言った。緑色の目がキラリと悪戯に光っている。その目を見てリゼは問うことを諦めた。リゼは知っている。こういう時のローリエは、手に負えない……と言うよりも答えてはくれない。リゼの反応をみるために、からかうためにわざとやっているのだから。
──瑠雨兄様なら翡翠に対抗出来るのだろうけれど……。
白樹と白夜からこう言う状況で翡翠に対抗出来るのは瑠雨くらいだ、とリゼは聞いていた。対抗出来ると言っただけで、勝てると言わなかったのは白樹達の良心が傷んだからである。白夜はともかく白樹はまだ何も知らない無垢な子に嘘に近しいことを教える事に抵抗があった。
リゼは素直に折れることにした。実際リゼもローリエにいつも勝てない。
「不貞腐れはしないけれど……」
少し恥ずかしいのか、リゼの頬が少し赤く染まった。それでもローリエの視線を感じながら呟く。
「寂しいわ」
ぽつりとしたその言葉は風に流される前にローリエの耳にちゃんと届いた。素直に白状したリゼの頭をポンポンと軽く撫でる。頬を、耳を真っ赤にしたリゼは顔を隠すように下を向いた。
沢山リゼを甘やかそうとは思うものの、ついつい意地悪をしてしまいたくなる。ローリエは自分の幼稚さに呆れた。これではまるで好きな子をいじめてしまう思春期の男子だ。何も変わらない。
「ごめんなさい、リゼ。ただ会うまで秘密にしておきたいのよ。……そろそろ来てもいいと思うのだけれど」
「あら? 待ち合わせ時間とか決めてないの?」
「本人たちに直接伝えた訳じゃないのよ。ここに呼び出……げふっ、来るって聞いたのも偶然だし。ここで待ってるって伝えてもらっただけなのよね」
ローリエは中央の時計を見た。四時を教えているその時計の影は昼に比べだいぶ長くなっていた。
「翡翠がそこまで杜撰なのも珍しいわね」
リゼは少し不思議そうな表情で言った。リゼのここ暫く見ていたローリエは、時間管理やその日の予定を容赦なく決めて実行していた。それに比べて今日はどこか……緩い。
「あーそれは予定がギッチリ詰まっていたからよ。あぁいうのは片っ端から処理しないと気がついた時には時既に遅しなのよ」
「ふ〜ん、じゃあ普段の翡翠はこんな感じなの?」
「まぁ……そうね。時間にとらわれることは好きじゃないわ。時間はたっぷりとあるもの、急ぐことはないわ」
リゼは良く分からないとでもいう様に首を軽く傾げた。ローリエは微笑んでただ誤魔化した。ローリエとリゼとでは生きている年数が桁違いだから、分からなくても仕方がない。いつか、少しでも理解してくれればそれでいい。
ふと、夕焼け小焼けの烏が舞った。つられて顔を上げると、わちゃわちゃしながら、そしてきょろきょろしながら向かってくる一行があった。迷うような足取りで、だが確かにこちらにつま先は向いている。ローリエは取り出した飴色を口にそっと含んだ。
──来た。
待ち人が来た。
とくり、と心臓が鳴る。
リゼは遅れてその姿を視認した。ジュースを飲み干しながら、その瞳に信じられないと言う光を浮かべて真っすぐ人影を見つめている。黄昏と言うにはまだ早く、夕方とも昼とも言えない不思議な時間帯。ゆっくりと近づいてくる人影が誰なのか隠すものはない。リゼの翠眼が一瞬、迷う様にローリエに向いた。ローリエは頷く代わりにゆっくりと瞬きした。
待ち人は、もう目の前だ。
リゼは駆けだした。迷いなく、一直線に。
遠い記憶の彼方、ずっと会いたかった。
「時雨姉様!」
「わっ!」
リゼは駆けだした勢いのまま、時雨に抱きついた。時雨はその衝撃で尻餅をつく。時雨は少し涙目になりながら、抱きついて来たのは誰なのかを見た。
「いてて……え? 何でここに」
予想外、だった。ぎゅっと懸命に抱き着いてくるリゼを振り払うことは躊躇われた。時雨はそのままばたりと芝生の上に寝転がった。視界が空いっぱいになる。
ぴょいと時雨のことを見下ろすように槻の顔が視界を支配した。逆反射であまり見えないその顔は、きっと楽しそうに笑っているのだろう。だって声が笑っている。
「あ、やっぱりリゼちゃんだ。ね、雪斗。言ったでしょ? 私も視力結構いい方なんだよ」
「別に悪いとは言ってないし、軽く疑っただけだろ」
「それが許せなかったんだって」
時雨の視野から外れた槻は、雪斗を蹴り飛ばした。つま先で軽く。蹴られた箇所を摩る雪斗を視野の片隅に置き、槻はその先を見た。頬杖をつき、どこか嬉しそうな、安心した様な表情をしたローリエ。
目が合った。心臓が少しキュッとしたが気が付かないふりをして、っては誤魔化すように明るい声を出した。
「ローリエさん! 数週間ぶりです」
「こんにちは、槻。元気そうで何よりよ」
ローリエは槻の知っている表情で笑った。それに槻は酷く安心した。静かに手が伸びて来て、槻の頭を優しく撫でた。
「ちゃんと言えてなかったわね。お疲れさま」
「ありがとうございます。ローリエさんも……」
元気そうで、無事で良かったです。
そう言おうとしたのに、言葉は途中で途絶えた。顔を伏せ、槻は静かに唇を噛んだ。
本当は合わせる顔すらないのだ。朱里や氷に何度も何度も何度も気にしなくて良いと声を掛けられた。あの白夜も少しぶっきらぼうに気にしなくて良いと言っていた。犠牲はつきものだ、と。槻が気にする問題ではないと。
それでも一度心に刺さった棘はなかなか抜けない。ずっと気にしていた。これからもずっと、血塗れの、あのボロボロになったローリエの姿は槻を苦しめるだろう。
「槻の知り合いか?」
雪斗の声。後ろからゆっくり近づいて来た雪斗は、槻の思考を断ち切るように言った。ローリエの視線がゆっくりと雪斗を向く。その視線から逃れる様に雪斗はついと槻を見た。
「うん、この間お世話になったの」
「ふぅん」
興味なさそうに雪斗は言った。そしてその直後、ローリエと雪斗の眼が静かに交差した。が、それは一瞬のこと。何か確認する様に交差した瞳たちは、すぐに別な方向を向いた。
ローリエは夜空色を食べ、雪斗は息を吐き出した。
刻々と、ゆっくり、だが確実に日は沈み始める。槻と雪斗は芝に大の字に転がっている時雨を見た。ちらりと時雨の双眸が何かを訴えてきたが、二人は素知らぬ振りをした。面白がって助けようとしない二人の代わりに動いたのは、ローリエだった。
「こら、リゼ。時雨さんが困っているでしょう。離れなさいな」
とんとん、とリゼの肩を叩いて言う。リゼはそれでも動かない。ローリエは目を細めて一歩下がった。交代するように槻が近づいてリゼを抱き上げる。リゼはすーすーと幸せそうな寝息を立てて眠っていた。
「これは仕方ないね」
槻はそっと抱えなおすと近くの椅子に腰かけた。時雨は雪斗に手を引かれ、よろよろと立ち上がった。そしてそのまま時雨は辺りを見渡して、本来いるはずのもう一人を探した。
──あの子が居てもいいはずなんだけ、ど……。
槻と雪斗は時雨が誰を探しているのかにすぐ気が付いたが、何も言えなかった。いずれ言わなくてはならないとは思っていたが、覚悟がつかない。不自然な間に時雨は気づかず無表情になっていた。
沈黙の後、口を開いたのはやっぱりローリエだった。
「始めまして、時雨さん。ロゼは──」
緑眼と碧眼が互いを写した。時雨がその時、少し驚いた様な表情をした理由をローリエは知らない。真っ直ぐな瞳に耐えきれず、先に目を逸らしたのはローリエだった。後を追うように時雨はぽつんと呟く。
「──そんな気は……しました」
時雨は目を伏せた。いつも一緒にいた二人が共にいない、雪斗と槻の表情から何となくそんな気はしていた。想像が現実となった。
──死んじゃったか。
正直、そんな感想しか思い浮かばない。
夜空の花火、駆ける彗星、砂浜に寄せる波。
道端の花、空を知った蜉蝣、海を忘れた海月。
人間の命もそれらと何ら変わりはしない。悠久を紡ぐ時の中では、短長どちらも星の瞬きと同じなのだ。
そんな風には思っていても、時雨は違う感情を覚えていた。
悔しい。
少し手を離しただけで消えてしまうのなら、ずっと、ずっと一緒にいてやればよかった。手を離さず、そっと抱きしめておけば良かった。そうしていれば、ロゼに触れた時の温もりが遠いものとなる事はなかったかもしれない。
ローリエは無言となった時雨を見て、空を見た。ロゼが現世の者じゃ無くなった時から、一時的に世話をしていたという時雨に言うか言うまいか悩んでいた。最終的に関係者であったのだから知る権利はあるだろうと結論付けた。ガッツリ当事者だった槻から知らされることはない、そう踏んでいた。槻はわざわざ言わないだろうという確信があったから。事実当たっていた。
「ねぇ、氷が何か言ったみたいだね」
唐突な声。お通夜モードの空気を蹴飛ばした声の主は槻。伸びた腕の先は、雪斗の肩にあった。雪斗の肩に爪がくい込んでいる。雪斗はチラッと時雨を見た。
「さっきしたこと覚えてる?」
「ぐっ、」
助けてくれなかったのに助ける訳がないでしょ、と時雨は意地悪に微笑んだ。何が起こっているのかはさっぱりだが、これから面白い事が起こるのは間違いない。
「ねー、雪斗。氷からだよねー? 聞いたの」
ロゼがもう現世にいないことを知っているのは、当事者くらいだ。その〝当事者〟の中に少なくとも雪斗は入っていない。のに雪斗はそのマル秘データを知っていた。そんなの態度を見ればわかる。漏らしたのは氷しか考えられない。
いずれ班のリーダーの雪斗に伝わる情報だから、正直知っていようがいまいが大差ないのだが、問題はそこではない。
──気に食わないなぁ。
黙り込んで全力で逃げようとしているのが答えだった。
「ローリエさん!」
「分かったわ。あとで氷は絞め直しておくから大丈夫よ」
「お願いします」
瑠雨に怒られ済みだということをローリエは知っていたが、槻の頼みだ。もう一回怒られてもらおう。次は白夜辺りにでも頼もうか。
──すまん氷……。
雪斗は全力で氷の今後を願った。




