いちごミルクと抹茶ラテ 3
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時は少し遡る。
お出かけ三人組もとい雪斗、時雨と朱里がそれぞれの買い物を満喫している頃、槻は一人すよすよと寝ていた。昨夜はお風呂に入ったあと、夜十時という非常に健康的な時間帯に気絶した。槻の朧気な記憶が言うには、昨日は一日、定期的に提出する諜報組織の報告書を書いていたはずだ。何か変わったことがあったか、何か楽しい出来事はあったか、ご飯は何を食べたのか。
一応諜報組織の一人として〈黄昏〉に所属している槻は何も疑っていないが、詰まるところ日記である。同じく諜報組織の白樹や白夜からは、諜報組織リーダーの真由美が愛しい養子の様子を知りたいが為のものにしか見えない。
書類仕事が嫌いな槻は、報告書に精神を使い果たし、疲れたのである。
槻は睡眠中、遠い意識の中、時雨に声を掛けられたことは知っていた。朱里が時雨の腕を引いた衣擦れ音も控えめな呼気も感じ取っていた。時雨がいつものベルを耳元で鳴らしながら起こしに来ないと言う事は、まだ寝ていても良いという事であろう。槻はその時、都合の良い解釈をし、再びとぷりと微睡みに身を任せた。
尚、それから暫くして耳元で唐突に鳴り響いた目覚まし時計は電池を抜いて封印した。
大きな雨粒が空から降り続けている。カタツムリは二つの目玉を大きく前に出して、紫陽花の葉を堪能するようにゆっくり這っている。雨音の隙間を縫って、鳩の鳴き声が響いている。近くの電柱で烏がへたくそに鳴いている。燕は低空を気持ち良さそう駆けていた。
目覚まし時計を封印してから、だいたい小一時間くらい経った頃である。枕元に置かれていた槻の端末が、うるさく振動し始めた。そのしつこさの余り、根負けした槻は仕方ないとばかりに手を伸ばした。閉じそうになる瞼を必死にこじ開け、画面を見る。
そんな気はしていたが、通知主は雪斗からだった。そして暫く前に時雨からの通知が大量に来ていたが、槻は気が付かずに寝ていたらしい。
──ん……。
槻はごしごしと目をこすると、雪斗からの通知を開いた。何とか脳みそを叩き起こして日本語を読むと、突然停電した旨が書かれていた。
槻は一瞬状況を理解出来なかった。いや、正確に言えば雪斗達が何かの事件に巻き込まれたのだろうとまでは、さすがに予想した。だが、正直そんな事よりも寝たかった。何せあの三人が揃っているのである。槻の出る幕はないだろう。
そう信じた。
──よし二度寝。
槻は無言でお布団を頭から被った。この幸せタイムを邪魔するやつは許さない。今来た連絡は見なかったことにしよう。
タイミングを見計らったように、今度は着信音が響いた。勿論雪斗からである。こういう時連絡を寄越すのは雪斗の役目だ。少し拳を握りつつ槻は素直に出た。
雪斗がこんな風にしつこく連絡を寄越すのは、十中八九ろくでもない事が起こった時だ。
「おはよう、雪斗。寝てたんだけど」
睡眠の邪魔をされまくったから、思わず言葉に棘がついてしまう。
『おはようじゃないだろ。目を覚ませ、ニュースを付けろ。後方支援を頼む。身代金の要求と爆破予告だ』
真剣に言う雪斗はかなりの小声である。それこそ雪斗の背景から聞こえる雑音共で掻き消されてしまいそうなくらいの。
槻は思わず眉をひそめた。後方支援を頼まれるとは余程のこととらしい。現場には支援に罠管理に視力の良い万能な後衛の時雨が居るはずである。別に構わないが、もしかして、
「人質いる感じですかね」
非常に面倒そうに槻は聞いた。どうせ聞いたところで答えは分かりきっている。槻は端末をスピーカーにすると着替え始めた。
「恐らく」
槻はうんざりとした顔をした。現場にいなくてよかった。普段のお仕事でも相手が人質をとることもあるが、大抵先手必勝な槻達にとって極稀に起きるイベントである。
槻は大きくため息を吐き出すと雪斗の周りの音を確認した。時雨と朱里の呼吸音はない。別に行動していたのだろう。槻は仕方なしとばかりに言った。
「ちっ、厄介ごとじゃん。分かった。五分以内に時雨たちともコンタクトとる。合流して」
「了解」
軽い音を立てて通話は終了した。槻は大きく伸びをすると部屋の扉を開け、階段を一気に駆け下りた。髪をとかし、顔を洗う。そしてマイクを装着し、時間を確認した。時刻は午後十二時を示している。ニュースはつけなかったが、遠くでヘリの音がする。確実に実況している頃であろう。悪いがそのようなニュースを見る暇はない。
槻は既に待機しているであろう朱里と時雨に連絡を取った。
「もしもし皆さん、おはようございまーす。清々しい朝だよほんと」
欠伸を何とかかみ殺しながら言う。目を覚ますべく、槻はお湯を沸かし、コーヒーを入れた。勿論それは甘い砂糖やミルクの入っていないブラック。槻はまだ幼い頃、仕事先で出された砂糖やミルクのたっぷりと入れられたコーヒーがトラウマだった。甘ったるくて、脳みそが溶けてしまう気がした。
トプりとした黒茶の液体が、槻のオレンジのマグカップで揺れた。こくりと一口飲み、槻は楽しそうに続けた。その足は冷蔵庫に向かっている。
『いやぁ、雪斗からの連絡が煩くて。ごめん、今起きたよ。凄いよ~、爆発?身代金要求?そしてその真っただ中には三人いると来た。仕掛けた人たち可哀想すぎる。厄日待ったなし。あ、ご飯見っけた。頂くね』
純粋な称賛であった。前衛として動ける優秀な二人、現場での援護も可能な時雨。個々の能力が秀でている三人だけでの解決は可能だ。雪斗と時雨の二人なら、さすがにバランスが悪くて心配になるが、今回は槻の代わりに偶然朱里がいる。神の采配とでも言うのだろうか。
二人いるなら、時雨を護りながら動く事は容易いだろう。元々朱里と雪斗は知り合いだったらしいし、相性もまぁ大丈夫だろう。 何かあっても時雨は非常にすばしっこいし。
電話越し、はるか遠くで混乱している人々の声が聞こえる。槻は冷蔵庫から朝ごはんを見つけると、その扉をぱたりと閉めた。
時雨の声が反響して聞こえる。
『私達に同情はしてくれないわけね。どうしろって指示来てる? 司令部はさすがに把握してるでしょ』
────〈黄昏〉のメンバーたちの一部は、班というものに配属されている。そしてその班は至る場所に振り分けられ、事件の解決への貢献や情報収集を行っている。雪斗をリーダーとする槻や時雨の三人組も班のひとつである。おおよそ二年ほど前、何の前触れもなく振り分けられた。その時からメンバーは変わっていない。
時々誰かが組織に呼び出され、不在になることはあってもその程度だ。ちなみに誰か班員がいない間は司令が来ない。普段多忙な班もその時だけは休暇となる。
そしていくつもある班を統括し、仕事を与え、指示をするのが司令部である。司令部は〈黄昏〉内の組織や機関とは別枠に設置されており、頭番号もないが、れっきとした〈黄昏〉の機関のひとつである。────
槻は時雨のその問いに迷わず、躊躇わずに答えた。まだ司令部からの連絡を確認してはいないが、あいつらのことだ。言うことは分かりきっている。
「聞くまでもないよ。どうせGOって言うに決まってる。強いて言うなら、私と時雨のポジションを交換したいけど。私後方支援苦手だし」
レンジがチーンとなった。朝ごはんとして用意されていたカレーが温まったのだ。中辛のそれは昨夜、朱里が作ったものの残り。
『おい、本職諜報組織』
静かに話を聞いていた雪斗の第一声はそれだった。ご最もな一言に少しグサリとしつつ、誤魔化すようにカレーとご飯を盛る。丁寧に切られた野菜たちがごろりと転がる。
槻はここ暫くの己の仕事を反芻した。千里アリスの手伝い、リゼの護衛、組織に呼び戻され殺人複数。
──あれ?
槻は自分の仕事に首を傾げた。暗殺組織の仕事しかしてないな? と。諜報組織も仕事柄何だかんだで体を動かすこともあるが、少なくともナイフは持たないはずである。ここ暫くの仕事はナイフしか握っていない。諜報組織のお仕事のひとつで報告書を作成してはいるが果たしてそれは含まれるのだろうか。
含まれなさそう。それが槻の結論であった。本職暗殺組織になりつつある槻は、ひとつ咳払いをしたあと言った。
「もうあっちでの活動よりも暗殺組織の方の活動が多いんだよ、雪斗。てかあれ後方支援じゃなくて乗り込むのがあれだし。朱里なら分かってくれるよね」
『分からないわ』
これ以上ないという速さで、そう即答された槻が嘘泣きをしたのは無理もないだろう。朱里なら分かってくれる、そう思った槻の淡い期待は見事に四散した。少し冷めたコーヒーをゴクリ飲み、発された槻のその声は少し落ち込んでいる。
「時雨、暗闇得意でしょ。しかも雪斗に聞いたけど、そっち電源落とされてるって……クーラー効いてないってことじゃん。絶対行きたくない。時雨は現場での支援を頼むよ」
時雨と朱里の関係が少し進展するといいな、と槻はこっそり思っていた。大抵のことをソツなくこなす癖に本当に仲良くなりたい人との人間関係が下手くそな所が朱里の可愛いところだ。これでもそこそこ長い付き合いだ。朱里が時雨と仲良くなりたくて今か今かと機会を伺っているのは知っていた。
人と距離を置きたがる時雨には槻や雪斗も初期の頃だいぶ苦戦した覚えがある。朱里がそれをどう乗り越えるのか。今回のキッカケを朱里が逃すはずがないのは確かだった。
雪斗と朱里が軽く喧嘩、とはいっても一方的な喧嘩をしている間に槻は時雨の部屋へ向かった。時雨の机の上にひっそりと置かれているノートパソコンを抱える。
通話の奥の三人とも吐息程度の声量で話しているが、〈黄昏〉の優秀なマイクはしっかりと音を拾ってくれるため何の問題がない。
時雨のパソコンのロックを慣れた手つきで解除する。
久しぶりの後方支援に槻は密かにワクワクしていた。
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後日、呼び出された。
何を隠そう司令部から。
目の前にはこめかみを揉みながら、手元の資料をガン見する司令部の長がいる。年々薄くなっていくことを心配し、丁寧に手入れされているその髪は残念なことにまだ大丈夫そうであった。
「なぁ雪斗。まだまともな君なら言いたいことは分かるよな」
「なーんも分からないです」
雪斗は思いっきり目を逸らした。同じく呼び出された槻は笑いを堪えており、時雨は心当たりがあるのか永遠にコーヒーを飲んでいる。朱里は都合の良い用事が出来たらしく、逃げた。
「相手を行動不能な状態にし、更に人質達の保護もしたことは君たちの今回良かった点だ。姿を確認させなかったことも良い。だがな? いつも言っている通り、君たちはやりすぎる癖があるんだよ」
長はヒラリと数日前の新聞を広げた。あの時の記事がでかでかと載っている。
"住民A 未確認生命体が人間を救出した時の全てを語る"




