いちごみるくと抹茶ラテ 2
十二時少し前、布団や枕、その他諸々の郵送手続きを終わらせた時雨たちは、一仕事終えたと言わんばかりにベンチで休んでいた。外は相も変わらず雨が降り続いているらしく、人々は傘を持ち歩いていた。
お昼時とあってか、店の中はかなり賑わっていた。お腹を空かせた子供はショーウィンドウに張り付き、大人達は楽しそうに話しながら店へと足を踏み入れて行く。四方にあるフード店からは、美味しそうな香りが漂い、人々の食欲を刺激していた。途中、ふらふらとパン屋さんに吸い込まれていった朱里は、バッグの中にしっかりとクロワッサンを加えて時雨のもとへと戻って来た。
お腹空いたなぁと思いつつ、スマホを取り出し、朱里は雪斗からの連絡を確認した。知ってはいたが、何も来ていない。槻からの連絡も期待したが、槻はまだ爆睡しているらしい。こちらもやはり連絡は来ていなかった。同じ事を時雨もしていたようで、二人は顔を見合わせるとため息を大きくついた。
ちなみに槻はその頃、雪斗が設定していた目覚まし時計の電池を抜き、二度寝を満喫していた。
近くの自販機で買ったアイスをぱくりと食べながら、時雨は言った。
「雪斗からの連絡はなかったわ、ここの五階に大きな本屋さんがあるから、大方そこで夢中になっているんだと思う。……もちろん槻からの連絡もなし。そろそろあの子、十四時間睡眠になるんじゃないかしら」
「あんの本の虫め……仕方ないけれど、連絡来ているかくらいは確認してほしいものね。槻はその気になれば一日爆睡してるから。雪斗が目覚ましかけてったと思うんだけど、さては電池抜いたわね」
二人は雪斗のことを待ち合わせ場所で、かれこれ二十分待っていた。時雨の買い出しは意外とすぐに終わり、寄り道も済ませていた。
朱里は少しイラついたように指先でリズムを刻むと、聞いた。
「時雨さんにあいつを迎えに行くっていう選択肢はある? やつの居場所なら大体想像がつくけれども」
時雨は朱里のその申し出に小さく首を振った。
「いや、そこまでしなくてもいいと思うわ。というより面倒だもの」
「あんにゃろ、後で会ったら絞め上げてやるわ」
朱里が八重歯を剥き出しにして、そう言った瞬間であった。二人は同時に何かを感じ、呼吸する事を止めた。呼吸音すら邪魔になる。ふと覚えた違和感を探し、神経を集中させる。二人は目配せをすると、同時にそっと息を吐き出した。
吐息に舞った埃がキラキラと反射する。
カチリと微かな音が、喧騒の中、確かに響いた。
明るかった店内の照明が全て落ちた。突然の暗闇の中、更に増した喧騒が場に溢れる。バタバタと駆ける音が辺りに響き、パニックになった人々の声がそれを掻き消す。急な夜の訪れに泣き叫ぶ子供、何事かと店員に詰め寄る人。
そんな中、非常灯だけが不気味に爛々と赤くそこにいる。停電直後から、あちらこちらで舞い始めた白い光は時が経つにつれて暗闇に溶け込んでいった。スマホを開き、何が起こっているのかと調べる人々の灯りであった。何て無意味な。
彼方此方からガラガラという音が響いてきた。店の窓をカーテンが、シャッターが自動的に覆い始めたのだ。こうして外の光は遮られ、中は人工的な明かりで満たされる。まるで閉店の時間だとでも言うように戸締りを終えたそれらは再び静かになった。
怒号が聞こえる。泣き喚く音が反響する。親しい者を呼ぶ声がする。暗闇の中、手探りし、壁に身を寄せる人影は己の心臓の音にすら怯えていた。
「…………」
暗闇になった直後、二人はすぐに夜目に切り替えていた。目を閉じ、そしてぱちりと目を開ける。〈黄昏〉で訓練されている二人は突然の暗所でも活動ができるよう、すぐに夜目になることが出来る。
茶の瞳と青い瞳が交差する。朱里は喧騒の中、小ばかにしたように言った。
「この店って真昼間に閉店するの? 客を閉じ込めたまま? すごく変わった店ね」
「私も初めて知ったわ」
突然、キーーーンという音が響いてきた。二人は反射的に耳を塞いだが、放送を聞くことに何の支障もない。再び動揺が伝染した中、朱里は音を立てずに非常用階段へ続く扉を開けた。時雨が細く開けられた隙間に潜り込む。遅れて潜り込んだ朱里が重たい扉を閉めると、喧騒はパタリと聞こえなくなった。
そっと息を吐き出したのはどちらだろうか。緑色の灯りが充満しているその場所は、突然な出来事への驚きを消すには十分だった。
電源は全てが落とされたのだろうか。つい先ほどまで、施設を冷やしていた冷房が稼働している気配が無い。朱里が確認する様にそっとスマホの電源を入れると、案の定圏外をそれは教えていた。時雨はそれを見ると、非常に面倒そうな表情をした。
厄介ごとに巻き込まれた、と。
スピーカーから何かごそごそと物音が聞こえてきた。だが、それはまだ声を発していなかった。
二人はそっと壁際によると、バッグからそれぞれ小さなイヤホンを取り出した。目を瞑り、慣れた手つきで装着する。そのイヤホンは〈黄昏〉から渡されている通信機器。任務の際などに後方支援の仲間と連絡したり、お互いの位置を確認したりするために使われる。
「雪斗はやっぱり上で本の虫になってたみたいね」
雪斗の位置を確認すると、朱里はため息をついた。時雨は槻を叩き起こすべく、通知を大量に送り始めた。
「これってテロなのかしら。施設側の不具合ならすぐに放送で知らされるはずよね」
耳から手を離し、時雨は付け加えた。扉の向こう側の音がかすかに聞こえる。
「──店の人もお客さんも全員混乱してるみたいだし」
「まーまー、いざとなったら外部の槻にでも応援頼みましょう。寝てるでしょうけど」
『も、もしもし』
ようやくスピーカーが声を発した。怯えた男性の声が伝えたのは、身代金の要求の件と爆弾が設置されている件について。時折短い悲鳴を上げながら、伝えきった男性の声は何かがぐしゃりと倒れる音とともに聞こえなくなった。
時雨の顔が嫌悪に歪む。
朱里は仕掛けてきた相手側の声を感じようとしたが、それを許さない様にスピーカーはぶつりと音を切った。思わず朱里は舌打ちをした。声を認識出来たのなら、まだ楽だった。声、即ち呼吸音。椿を頼り、音を辿れば仕掛けた側の位置はおおよそ割り出すことができた。
朱里は時雨と同じようにすっと気配を消した。人が駆ける気配が近づき、時雨たちが利用した非常用階段への扉が大きな音を立てて開かれた。身を潜め、二人は目を凝らす。
軽装備の男達は誰もいないことを確認したのか、すぐに扉を閉めた。それからわずかな沈黙を待たずに各所から悲鳴が上がり始めた。
警備はどうなっているのか、警察は動き始めたのだろうか。そんな疑問を払拭する様に時雨は朱里に問いかけた。
「……どうする?」
「どうしようかしら。爆発が本当だとしたらかなり慎重に動かないといけないし、何より人質もいるみたいね。下手に動けない」
不満そうに朱里が言った。仕掛けた奴らが複数人、それぞれの階にいるとなると、時雨と朱里だけではどうにもできない。そんな時、イヤホンから小さな音がした。間を入れず、眠そうな声が聞こえてくる。
『もしもし皆さん、おはようございまーす。清々しい朝だよほんと』
大きな欠伸をかみ殺している声だ。槻は恐らく寝起きなのだろう。時折、冷蔵庫を漁る音やコップに水を注ぐ音が聞こえてくる。
呆れて黙った時雨と朱里に気が付かない槻は呑気に続ける。
『いやぁ、雪斗からの連絡が煩くて。ごめん、今起きたよ。凄いよ~、爆発? 身代金要求? そしてその真っただ中には三人いると来た。仕掛けた人たち可哀想すぎる。厄日待ったなし。あ、ご飯見っけた。頂くね』
「私達に同情はしてくれないわけね。どうしろって指示来てる? 司令部はさすがに把握してるでしょ」
時雨は指示を仰いだ。別に時雨たちが介入しなくても穏便にことが収まるなら、ここで全てが終わるのを待つだけだ。変に介入してことを荒立てようものなら、更に面倒なこと待ったなし。
槻は時雨のその問いに迷わず答えた。
『聞くまでもないよ。どうせGOって言うに決まってる。強いて言うなら、私と時雨のポジションを交換したいけど。私後方支援苦手だし。あ、ダメか。これからご飯食べなきゃ』
通信機器の向こう側で、レンジが温め終わったよと槻に知らせる音が響いた。時雨はその言葉を聞くと静かに伊達メガネを外し、ケースにしまった。
「おい、本職諜報組織」
今まで静かだった雪斗の声。その突っ込みに時雨はうんうんと頷いている。
『もうあっちでの活動よりも暗殺組織の方の活動が多いんだよ、雪斗。てかあれ後方支援じゃなくて乗り込むのがあれだし。朱里なら分かってくれるよね』
「分からないわ」
助けを求めてきた槻を朱里は容赦なく切り捨てた。嘘泣きをした後、槻は言った。
『時雨、暗闇得意でしょ。しかも雪斗に聞いたけど、そっち電源落とされてるって……クーラー効いてないってことじゃん。絶対行きたくない。時雨は現場での支援を頼むよ』
『じゃあ俺は喜んで人質の一人となるとするか』
雪斗の声はすごく嬉しそうである。
「ふざけんな雪斗、今すぐ来い」
朱里は握りこぶしを作りながら言った。
『嫌だ』
「駄々こねんなボケナス、姉さん達に言うわよ」
『五分後には向かうから許せ』
槻と時雨はその短い会話でどちらが上なのかを悟った。衣擦れ音がし、それきり雪斗は静かになった。その間に槻は時雨の部屋からパソコンを引っ張ってきて、立ち上げを完了させていた。
『時雨、朱里と初めてだと思うけど……何だろう、容赦しなくていいから』
朱里はバッグからクロワッサンを取り出すと、呑気に食べ始めた。それを食べ終えた朱里は、槻のその言葉を肯定するように胸をとんと叩き、時雨を見て言う。
「任せて。私も一応は戦闘機関よ。援護組織のことは守るから」
援護組織は戦闘には向いていない。完全に後方支援の組織である。そのため現場にいる場合、誰かに守ってもらわないと真っ先に餌食となる。
それなら、居なくても良いのではないか。安全な場所で静かに援護していれば良いのではないか。
そうはいかない事もある。
例えば──トラップの解除。
それは援護組織の専門分野。
時雨の揺らいでいた碧眼はそれを聞くと、迷いなく朱里を見据えた。朱里の茶眼と時雨の碧眼がぶつかり合う。自信たっぷりのその眼は、揺らいでいた信頼を完全にするには充分だった。
──私は援護組織。あなた達が守ってくれるなら、その身を粉にして働くまで。
「えぇ、朱里さん。守ってください」
軽く風が吹いて、雪斗が合流した。完全に信頼してくれた時雨に歓喜しながら、朱里は赤い瞳で鋭く相棒を見た。
「雪斗、やるわよ」




