苗字付き2
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「苗字付き?」
リゼは聞きなれない単語に首を傾げた。
ここは000系列機関の建物。つまり〈黄昏〉の本部。その建物内の地上に近い一室にリゼと白樹はいた。リゼは黒髪をポニーテールより低めの位置で、白樹はその長い銀髪を無造作に纏めていた。別に下ろしていても良いのだが、今日みたいに湿気が凄い日は何となくうざい。
ふかふかのソファに身を沈め、白樹は天窓から外の様子を眺めた。今日は雨と風が荒れ狂う天気だとニュースが口ずさんでいたのだが、本当にその通りだった。雨音は聞こえないが、きっと外に行けば痛いほどの雨が降っているのだろう。強い風も辺りを駆け回っているに違いない。
白樹は紅茶をティーカップに注ぎながら少し悩むと、リゼの疑問に答えた。
「〈黄昏〉に身を置いている人たちって大体が名前だけでしょう? 白樹、白夜、翡翠みたいにね」
果物の香りが強い今日の紅茶は、白樹が愛飲しているものだ。白樹は白夜にそれをミルクティーとしていつも渡している。リゼにも同じようにミルクティーとして渡すのが常だが、リゼはどうやら牛乳少なめのものが好きらしい。
リゼは白樹の言葉を聞くと、自分が知っている〈黄昏〉の人物の名前を思い出してみた。時雨、槻、雪斗……。確かに言われてみれば全員見事に苗字がなかった。
「確かに見事に全員名前だけね」
リゼは白樹の言葉にうんうんと頷いたが、次の瞬間には首を傾げていた。よく考えたら、例外が一人いるではないか。今、ローリエと共にお出かけ中で、この場には居ないのだが。リゼはミルクティーをこくりと飲むと白樹を見た。パチリ、と白樹のオッドアイと眼が合う。リゼは首を傾げたまま聞いた。
「でも白樹、蒼は違うわよね。最初に名前を聞いたときなんて言われたかは覚えてないのだけれど……吉野蒼って良く名乗っている気がするわ。吉野って苗字よね」
まさか吉野蒼で一つの名前なわけないだろうし、とリゼは言う。藍色の琥珀糖に手を伸ばすと、白樹はその通りだと肯定した。
「そうそう。蒼みたいに苗字もついている名前も持っている人のことを〝苗字付き〟っていうのよ。〈黄昏〉の外に出て仕事をしている人に多いわね。外だと苗字と名前がセットだし。むしろ無いと怪しまれるし」
藍色を食む。サクリとした食感と程よい甘さが脳に響き渡る。白樹はストレートの紅茶を飲む時、最近琥珀糖も一緒に食むことに嵌っていた。砂糖代わりにちょうど良いのだ。リゼにも幾つか渡すと白樹は薄紅色を次にとった。
リゼは色多くある琥珀糖と暫し睨めっこした後、露草色を口に入れた。その甘さを堪能するとリゼはまたまた首を傾げた。
「なるほどね。じゃあ蒼の本名は吉野蒼じゃないのかしら? 苗字付きは名前を二種類持っていて、蒼が普段使っているのは偽名? ってことよね」
リゼは分からないと眉を寄せた。白樹も同じく首を傾げた。それは本人達にしか分からない。正直なところ、一般社会と〈黄昏〉のどちらに重きを置いて生きているのか。名前の重要度は、それに依存すると白樹は思っている。白樹の場合、まず一般社会で名乗る機会がない為、苗字付きの名前は必要としない。もう一つ、白夢という戯れでつけた名前はあるが、あちらは白昼夢。真昼に見せる幻で良い。あって、ないようなものだ。
──蒼の場合はどうなのだろう?
不意に廊下から物音がした。
「私にとってはそっちが本名だけどね」
声と同時にドアが開いた。この嵐の中、買い物に出かけていた蒼とローリエが帰って来たのだ。二人とも両手に買い物袋を下げている。……そして、びちょ濡れ。傘はエントランスにでも置いてきたのだろうが、果たして傘を差す意味はあったのか。白樹はうわーという顔をしながら、真っ白いふわふわのタオルを差し出した。
「おかえりなさい、二人とも」
リゼは帰って来たローリエに抱き着こうとしたが、翡翠の持つ買い物袋が、モゾモゾと蠢いたことに気がつくと半歩下がった。リゼが逃げの体制を取りながら様子を眺めると、やがて小さな白い頭が姿を見せた。くるっぽと鳴くそれはリゼの前でぴょんと袋から出ると、つくつくと羽繕いを始めた。──鳩だ。どうやら道中ついて行っていたらしい。
蒼は髪を高く団子に纏めると、大きく伸びをした。朱色の琥珀糖を口に放り込むと、天窓を見ながら言う。
「ただいまぁ……いや、外すっごい雨だよ。風も強いし。出歩いている人なんて全くいなかったよ、もう。誰? お菓子ないから買いに行こうとか言った阿呆」
「そんな阿呆なこと言うの蒼しかいないでしょ。お菓子をきらした蒼が悪いのよ。ローリエはついていかなくてよかったのに」
白樹は呆れたように言った。お菓子をきらしたと言っても、琥珀糖のようにまだいくつか残ってはいたのだが。白樹が気付いて止めようとした時、蒼は既に傘を片手に雨の中に消えていったのだ。後を追うようにローリエも。
ローリエは蝶の姿になると、その身を震わせた。少しの鱗粉と共に大粒の雫が零れ落ちる。便利でいいなぁという蒼の視線に気が付かないふりをすると、ローリエは人間の姿に戻った。そして鳩を膝に呼ぶと、椅子に深く座り込んだ。鳩を撫でながらローリエは言う。
「今瑠雨がいないから、代わりに面倒見ないと可哀想かなって思ったのよ」
ここで女子会をするから男子はどこかに行けと、白夜と瑠雨を追い出したのはローリエである。泣く泣く追い出された二人は今、行方知らずである。
「でも、ローリエも来てくれたおかげで助かったよ。私一人だったら今も悩んでいたと思う」
蒼はそう言うと、疲れたとでもいう様にテーブルに突っ伏した。蒼のその言葉に白樹は怪訝そうな顔を隠さなかった。恐らく蒼はお菓子どれ買おうかなとか、何とか悩んだのだと思うが、このお菓子の山は明らかに、悩んだお菓子を全部買ってきましたと報告している。何日分のお菓子を買ってきたのか。ローリエも悪ノリしたに違いない。
「で、何の話してたわけ?」
蒼は起き上がるとリゼに何余計なこと話してんだ、と白樹を見た。その視線を受け、白樹は若草色を一粒手に取った。口にポイっと入れると、蒼を見て言う。
「苗字付きについてリゼに説明してたのよ。ほら、蒼もそれじゃない」
白樹のその言葉を聞いた蒼は一瞬、面倒くさそうな表情をした。だが、今まで言わなかっただけで、特別隠す必要も無い。言う必要もなかったし。
「……なるほど、ね。私の場合は外の研究機関に行く機会が多くて、名乗ることが多いんだよねぇ。厄介なことに」
「でも本名ではないのでしょう? 〈黄昏〉にいる間くらい本名を名乗ればいいのに」
リゼは分からない、とキョトンとした顔をしながら言った。
「それもそうなんだけどね。何となくこっちに愛着わいちゃって。それにあっちの名前で長らく呼ばれてないから、なんていうか……気味が悪い」
バリッとクッキーの袋を開けながら蒼は言う。半分事実で半分は嘘。もうひとつの名前は蒼の中で既に無いものとなっている。今となっては他人の名前だ。
白樹は繊手をクッキーに伸ばしながら蒼の言葉に同意した。
「そういえば私も蒼のこと、あっちの名前で呼んでいないわね」
「今のままでいいよ、白樹。今の私にとっての本名はこっちなんだから。何ならあっちは消し去ってもいいくらい」
「私にとって蒼は蒼だから、わざわざ消し去らなくても大丈夫よ」
蒼からクッキーを袋ごと奪いながら、白樹はサラッと言った。そのセリフを聞いた蒼は、白樹のことが一瞬女神に見えた。
「……白に後光が見えた。これあげるよ」
「ありがと。でも要らない」
蒼はせめてものお礼に……とローリエの膝上から鳩を白樹の膝に移動しようとした。くるくると鳴く鳩は小さい頭を傾げながら、いらないと即答した白樹に訴えている。蒼はそんな鳩を白樹の目線まで持っていった。
「でもどうして急に苗字付きの話になってたわけ?」
やがて諦めた蒼は次のお菓子を漁りながら聞いた。白樹に捨てられた鳩は大人しくローリエの膝に戻り、撫で撫でされていた。白樹は藍色の琥珀糖を食むと答えた。
「朱里が苗字付きになるかどうか悩んでいたのよ。そのことを思い出してね」
その言葉に蒼は納得したような表情をした。そう言えばそんな話を最近、瑠雨とした覚えがある。
「あぁ、朱里ブラック機関に駆り出されるんだっけ。学校に通うんだよね。付き添いで」
「えぇ、でも朱里が行かなくても機関から一人、付き添いが出ると思うから、大丈夫だとは思うのだけど」
白樹は心配そうに眉を寄せた。ローリエは薄赤色を口に投げると、白樹の頬に鳩の胸を押し付けた。むぐうっと呻いたあと、白樹は仕方ないと言わんばかりに鳩を受け取った。私の時は受け取らなかったのに……と不満気な蒼を綺麗に無視し、ローリエは言う。
「あの様子だと朱里は行かないわよ。白夜も止めてるんでしょ?」
「えぇ、口には出てないんだけど。白夜はほんと朱里に対して過保護だから。そもそも今回の件についても良い顔はしてなかったし」
困ったものだ、と白樹はため息をついた。そして気がついたように立ち上がると、戸棚からティーカップを二つ取り出した。蒼とローリエの分を入れ忘れていたのである。白樹が注ぐお茶を見ながら蒼はぼんやりと言った。
「でも、今回の付き添いは紅と朱里が良いと思う。私と瑠雨もめちゃくちゃ見張ってるけど、万が一のこともあるし」
「そうらしいのよね、白夜も言ってた。でも学校までついていく必要はないと思うのよね」
「それは同意。白、お茶ありがとね」
蒼はお茶を一口飲むとちろりと唇を舐めた。まだ、何事も起こらないと思うが。その前に、白樹には一通り説明しておかなければならない。
──リゼにはまだ聞かせたくないなぁ。
ローリエと瑠雨達を混じえ、出来ればうさぎ穴で説明したい。リゼが疲れて寝入った頃を見計らい、蒼は話題を切り出した。
「ねぇ、白。どこかで時間取れるとこないかな? あとローリエも」
白樹はそれだけで何か察したらしい。小さくこくりと頷くと、いつでも大丈夫と返事した。ローリエも頷いたが、一つ疑問を言う。
「あの話でしょう? どこで話しましょうか」
「場所なら賢者様の住処を使っていいとの伝言です」
声と同時に、部屋の入口に一人の少女が現れた。真っ白い髪に、真っ白いドレス。銀色の毛皮に顔をうずめた少女は、最近知り合ったばかりの医者──白鼠だ。白鼠は真っ赤な瞳で各面を見たあと、すよすよと眠っているリゼに優しい視線を向け、ぺこりとお辞儀をした。
「皆さん、こんにちは」
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