苗字付き 1
その日の天気予報は、雨予報。そして風も強いという。朱里は時雨にこれからの仕事を説明する為、雪斗達の住処に訪れていた。
(サブタイトルは変わりましたが、前話の続きです)
次の日の朝にもならない時間帯。少しじめじめとした空気の中、コーヒーの香りが静かに漂っていた。移色のマグカップに入っているそれは、薄暗闇の中、静かに光を反射していた。
外は雨が降っている。そんな静かな雨音に惹かれ、時雨はこんな時間帯に起床したのだ。雪斗も槻もまださすがに起きては来ない。客人も恐らくは寝ているだろう。時雨は、静かに一口飲んだ。
時計の秒針が進む音、葉にあたる雨の音と己の呼吸音。ぼんやりと物事を考えるにはちょうど良かった。時雨は寝ている者たちを起こさないように静かに窓辺に椅子を移動した。コーヒーを片手に座り、静かに雨を見た。
一通の手紙と蝙蝠。この次世代に珍しい手紙。まぁ郵便受けに入れられていた訳では無いのだが。この間アイスを買いに行った時、イタズラと同時に降ってきたものだ。渡しに来たのは、イタズラをしに来たのは誰なのか。時雨も知らない。ただ昔からこういう事はちょくちょくあった。いつも顔を見せないで、気配だけを残して去るイタズラ好きな人。何となく顔見知りの気分だ。
手紙に書かれていたのは一言だけ。時雨を心配するような言葉だった。恐らく意味は無いのだろう。ただ、どこか気に触る。蝙蝠も蝙蝠だ。昨夜は姿を見なかったが、情報機関からやって来たのであろうそいつは、なぜこんな所に迷い込んできたのか。
──誰か連れてきたとしか思えないけれど。
誰が? ある程度可能性があるのはイタズラ好きな人。蝙蝠が時雨に姿を見せたのも確かその後だ。客人のことも昨夜ちらりと疑ったが、そんな事する意味が分からない。
風が、吹き始めてきた。
昨日来た朱里という客人は、時雨を迎えに来たと言う。そこまでもまだよかった。問題はその少女が諜報組織と言うこと。てっきり情報機関の関係者が説明をしに来ると思っていた時雨には、少々どころか、かなり予想外であった。いったい、お上は何をしたいのか。
窓ガラスが静かに光を反射して、鏡のように時雨の顔をうつす。じっと鏡を見れば、見事なまでの青眼が見返してきた。コーヒーを飲み干す。時刻は四時半をまわり、雲の奥で太陽が顔を出す時間帯となった。不意に膝を抱え、空を見つめる時雨の脇にぴょっこりと人影が現れた。時雨はちらりと視線をやると、またぼんやり外を見る。
「おはようございます、時雨さん」
それから何分経ったのだろう。声を掛けられた。言うまでもなく、朱里だ。ちらりと視線を向けると、朱里は人懐っこい笑顔を時雨に向けていた。
「……おはようございます」
それだけ言うと時雨はまた、空を見始めた。正直、何を話せばいいのか分からなかった。あまり知り合い以外の人と会わないのがこういう時裏目に出る。何を話すのが良いのか……正解が分からない。
朱里はそんな時雨を見ると困ったようにその場を去った。
朝七時。強かった風はだいぶ静かになってきていた。
雪斗が欠伸をしながら起きてきた。まだ寝足りないのか、時折階段で足を止め、目を瞑っている。時雨はその頃になるとソファでいつもの様に横になりながら、二杯目のコーヒーを飲んでいた。
「おはよう、雪斗。今日はいつもより早起きなのね」
雪斗はいつも八時くらいに起きる。
「早起き、と言うよりは……気持ち的には一晩中起きてた方に近いな」
時雨は珍しいという表情をしながら雪斗を見た。フラフラとした足取りで自分用のコーヒーを入れ始めた雪斗の顔は、確かにどこか疲れている。
「確かに途中から雨音や風の音がし始めてたけど……雪斗はそんな事で眠れなくなるような柄じゃあないわよね。なにかあったの?」
「まぁ俺も繊細だからな。特に何も無いから気にしなくていいぞ」
「雪斗が繊細? そんなことある訳ないでしょう」
時雨はありえない、と首を振った。どちらかと言うと時雨から見た雪斗は、繊細から離れたところにいる。恐らくだが繊細な人は上司との約束をわざとすっぽ抜かす真似はしないだろうし、何より喜んで危険な火の中に突っ込んでいったりはしない。雪斗の無茶無理無謀と危険思考に付き合わされる時雨の身になって欲しいものだ。
「酷い」
雪斗はコーヒーに砂糖をたっぷり入れながら言う。確かに無茶無理無謀と危険思考は持っているかもしれないが、危険はいつも確実に回避している。牛乳を入れ、雪斗は出来上がったコーヒーを一口飲んだ。糖分が脳に染み渡る。だんだんクリアになる思考、雪斗は忘れていたことを思い出した。
「時計」
「時計がどうしたのよ」
時雨は首を捻った。唐突にどうしたのだろうか。時雨の目の前で、雪斗はパタパタと部屋に戻った。次に戻ってきた時、雪斗の手には一つの懐中時計があった。
「情報機関からの賄賂だそうだ」
「賄賂って……でも何で時計なのよ?」
細い鎖を絡ませないように受け取ると、時雨は目を細めた。ちょうど愛用していた腕時計が壊れたばかりだったのだ。腕に付けることは出来ないが、首にでも掛けておけば良いだろう。銀色のシンプルでいて、それなのに凝っているデザインは時雨好みだった。
「忙しすぎて時計を見る暇すら無いんじゃないか?」
「なるほどね。さすがブラック」
朝九時。雨音が辺りに響いている。
時雨にたたき起こされ、ようやく槻も起きてきた。朱里も二度寝から起きてきたらしい。大きな欠伸をして、槻と一緒に壁にぶつかっている。
顔を洗って少し目が覚めた槻は、ブラックコーヒーに手を伸ばしながら文句を言った。ちなみに朱里はチョコチップスが入っているクロワッサンを見つけ、雪斗にこれ食べたいとアピールしている。
「まだお昼前じゃん……まだ寝てたいんだけど。今日何かそんな急ぎの用事とかあったけ? 傷癒えてないから私あと半日くらい寝てたいよ」
「なぁにホラ吹いてんのよ、槻。槻はいつも傷治ってないのに動き回って怒られるのが日常でしょ」
味噌汁をしっかりと別に食べることを条件としてクロワッサンを得た朱里は、幸せそうにもぐもぐ食べていた。
「槻、身体は大事にしないとダメよ」
時雨は呆れたように言った。その脇で雪斗は、自分より槻の方が無茶無理無謀なことをしているとアピールしている。そんな雪斗に時雨は静かに拳骨を食らわせておいた。
朝九時半頃。雨音がだんだん強くなってきた。
「てかそもそも朱里はどのくらいここに居座るつもりなの? それによって私の睡眠時間も変わるんだけど」
ナスと豆腐の味噌汁を飲みながら、槻は朱里に聞いた。別にいてもいいのだが、気になる。
「んー、寂しがり屋の槻と雪斗の為に出来るだけ長く居てあげたいんだけど。残念なことに時雨さんにこれからを説明したら、ひとまず消えるわ」
「だーれーが寂しがり屋だよ、朱里。ということは今夜消えるのか? 時雨も一緒に?」
しっかりと文句を言った雪斗は聞いた。今夜消えるのだとしたら急な話だ。だが、そんな雪斗の心配を察したように朱里は首を振って否定した。朱里は時雨をちらっと見ながら言う。
「いいえ、さすがにそんな急な話ではないわ。急ぎたいのはやまやまなんだけど、時雨さんも理解する時間が欲しいでしょうし。何より私が消えるのは仕事関係ではなくて、個人的なことよ。気にしなくて大丈夫。時雨さんのことは後日、また迎えに来るわ」
「ふぅん、そっか。それならそうで良いけれど……朱里」
「ん、何?」
槻は非常に心配そうな顔をしながら朱里に言った。
「その個人的なことが何かは知らないけど、白夜さんに怒られないようにね?」
「ぜ、善処するわ」
「善処なんだ」
そんな様子を眺めていた時雨は、気になっていたことを朱里に聞いた。
「朱里さん、一つ聞きたいことがあるんですけど」
「あら? 何かしら」
雪斗と槻は、時雨に話しかけられて喜んでいる朱里にほろりと涙した。気のせいだとは思うのだが、二人には朱里が犬のように尻尾をちぎれんばかりに振っているように見えた。時雨はそんなことなど露知らず、ポケットから先程の懐中時計を出して聞いた。
「これ、情報機関からの賄賂なんですか?」
「ん、んんーんー、そうね、賄賂だと思うわ」
朱里の視線がどこか泳いでいるのは気のせいだろうか。いや、気のせいではない。朱里も詳しくは知らないし、聞かされていないのだ。朱里は一応追記した。
「記念品? でもあるんじゃないかしら」
「記念品……?」
槻は何だそれ、と聞き返した。どこかの工場見学に行ったとき、貰える記念品なはずがないと。槻に同意するように雪斗も頷く。朱里は二人のそんな様子に困ったように息を吐いた。
「情報機関へようこそ、的なニュアンスの記念品? 変わった組織ね」
時雨も時雨で、朱里の説明に首を捻りながら納得してしまった。尚、朱里と雪斗はその記念品を渡された際の伝言のことなど、忘れてしまっていた。
「ひ、ひとまず返品するのもあれだから、受け取っておいてもらえると助かるわ。多分、盗聴器とか入ってないだろうし。……多分」
「朱里さん、今多分って言いましたか? ……まぁひとまず受け取っておきます」
時雨は訝しげな顔をして時計を見ると、再びポケットにしまった。
朝十時半ごろ。雨はザーザー降っていて、風も再び強くなってきた。
四人全員が一つのテーブルを囲み、雪斗達は朱里の言葉を待っていた。当の朱里な腕組みをしながら、ソファ一つを占拠している。
「顔見知りしかいないのに自己紹介とかしたくないわね……。改めて、時雨さん、こんにちは。戦闘機関諜報組織の朱里と言います。んでもって……今日は時雨さんにこれからのことを説明すべく、やって来ました」
こくりと一つ時雨は頷くと、伊達の眼鏡をはずした。完全に仕事モードとなった時雨は、その青眼を鋭く尖らせている。槻と雪斗はポテトチップス(塩)をパリポリつまみながら、寛いだ姿勢で話を聞いている。
「言うて、私もどこから説明すればいいのか分からないのよね〜。こんな事なら、機関の人の首根っこ捕まえて連れてくれば良かったわね。時雨さんは何かお上から聞いてたりするの? と言うよりどこまで説明されてる?」
「いや、私は特に何も聞いてないです。機関の人が説明しに来てくれると楽観視していたのもありますけど」
ふむ……と困ったように朱里はポテトチップスを食べた。一枚、二枚……恐らく十枚目に手を伸ばそうとした辺りで、雪斗に手を叩かれた。朱里は何事も無かったかのように指を拭くと、それっぽく足を組んだ。
「ふぅむ、もうこれは今すぐ時雨さんを組織に連行した方が早い気がしてきたわね。私も説明する側じゃなくて、される側に行きたいわ。……何よ、雪斗。そもそも何で槻も雪斗もここにいるのよ。この場には時雨さんだけ居ればいいのよ」
「説明責任。てか昨夜俺に話したのと同じような説明すれば良いだろ」
「良いじゃん、朱里。どーせ後で私達も時雨から聞くんだし。手間省けるよ」
雪斗は早くも空になったポテトチップスの袋を捨てながら言った。槻は立ち上がり、次のおやつを取りに向かう。
「まったくもう、別にいいんだけど。じゃあ何も知らないと言う事で重要な事から説明していくわね」
「はーい」
なぜか槻が代わりに返事をした。
「いち、時雨さんにはまず機関に来てもらって、場に慣れてもらいます」
「はーい」
また槻が返事をした。袋詰めの一口チョコレートをその手に持っている。朱里はその袋からチョコを三つ程取り出すと、続けた。
「そのに。時雨さんには学校に通ってもらいます」
ガサッと音を立て、辺りにチョコレートが散らばった。槻が袋を落としたのだ。
「え?! 何で今のタイミングなの?!」
時雨よりも先に槻が反応した。雪斗は何知らぬ顔で外を見ている。時雨は眉をぴくりと動かし、朱里の次の言葉を待った。朱里は驚きを隠さない槻に呆れたような視線を送った。
「何でってそりゃ……時雨さんは学校に通ったことが無いらしいし、箱庭育ちなんでしょう? ちょうどいいから今、社会経験詰ませとこうとでも思ったんじゃないの?」
「え、でも、別に今のタイミングじゃなくてよくない? そもそも人手不足だから、時雨が向こうに駆り出されるのに……」
雪斗も言われてみれば、確かにおかしいと気がついたようだ。朱里に厳しい目線を送り、口を開こうとした。雨は風に流され、窓ガラスに強くあたっている。
「時斗雨」
朱里は雪斗の言葉を聞きたくないと拒否するように、唐突に吐いた。時雨のその青い眼をしっかりと見据えながら。
「え?」
「時雨さんの外での名前よ。命名は誰か分からないけれど。今、ここで渡しておくわね」




