七月七日 3
「あいつのことなんとかしてくれよ」
「良いじゃない。食われてないだけマシよ。命拾いしたわね」
雪斗と朱里は小石を蹴り合いながら、街灯照らす夜道を歩いていた。月は雲で隠れたまま姿を現していない。街灯照らすとは言うものの、それは辛うじて点滅するのみで十分とは言い難い。頼れるのは自分の目、そしてかつての相棒。いつかを思い出す互いの足音は、それを思い出すのを拒否するように小石を蹴り続けていた。
「基準がおかしすぎる。こっちは腕を取られかけたんだぞ」
こつんっと石を飛ばしながら雪斗はボヤいた。ずっと感覚が残っていた。冷たくて重い、闇に喰われようよな、あの感覚が。雪斗のそんな怯えを朱里は鼻で笑って一蹴した。
「バカね。あの子がそんなことするはずないじゃない。最後には返してくれるわよ」
「最期の時に返されても困るんだよな」
「それもそうね」
朱里は笑うと小石をどこか遠くへと蹴り飛ばした。少し跳ねた音がした後、コツンっという音が闇に響いた。小石を捨てても歩は止めない。雪斗は少し先を軽い足どりで進む朱里を見た。ゆらゆらと影が、髪が、朱里につられて動いている。不意に雪斗の目の前に飛び出た灰色のネズミはつぎの瞬間、骨になっていた。突然の出来事を咎めるように朱里をつつけば、ひらひらと手を振って返された。雪斗が次に見た時、骨は消えていた。
「腹の足しにもならないって」
「何も言ってないぞ」
「で、この時計なんて渡せばいいんだよ。あいつは変なもの受け取らないぞ」
雪斗はするりとポケットから時計を取り出した。律儀に時を刻むそれは今、藍色を反射していた。朱里はその場でくるりと振り向くと時計を見た。
「あぁ、別に盗聴器とかは入ってないわよ。ただのアナログな時計。良いでしょ? 私たちみたいなのはデジタル時計しか使わないけど」
「どうし……あぁ朱里達みたいなのは秒針の音でも気になるのか」
「当たり。殺る時にそれでバレたら大変でしょう」
朱里はいつの間にかに手にした凶器をくるりと弄びながら答えた。黒く、鈍く光を反射するそれは暗殺組織の証拠。槻が愛用するそれよりも非常に刃先が薄いナイフ。以前雪斗はなぜそんなに薄いのかと聞いたことがある。その返事は酷く簡単だった。
「感触が嫌いだから、だったか」
「えぇ、私は槻や叶みたいに楽しむことはしないの。獲物には紙で指を切るみたいにいつの間にかに死んでて欲しいから。それにはこの子が好都合。あとは解体しやすいから、とか?」
「……最後のは、冗談と信じておく。で?」
「で?」
朱里はきょとんとして雪斗を見た。歩が一瞬止まった。時計のことかと思ったが、恐らくそうではないだろう。前から思ってはいたが雪斗はこういうところがある。頭が良すぎて同時に色々なことを考えているが為に、相手にも同じことを求めてしまう。……今もそうだ。話の転換に朱里はついていけない。
「時雨を迎えに来たのは良く分かった。ただ朱里がわざわざ来る必要はないだろう。時雨を直接、機関の建物に呼べば良いだけの話だしな。……時雨誘拐の他に何を企んでやがる」
雪斗のその言葉を聞き、朱里は再びきょとんとした。そして次に笑った。楽しそうに。雪斗から送られてくる視線が冷たかったがそんな事は気にしない。
雲に隠れていた月は少しずつ姿を現し、しんとした夜に灯りをもたらし始めていた。このままいけば月明かりの下で誰もいない夜の街を散歩出来そうだったが、残念なことに家に着くのは時間の問題だ。少しもったいない気がして、朱里は雪斗への返事を焦らそうとした。だが雪斗を待っている人がいる。朱里は素直に教えることにした。
「まずはね、時雨ちゃんに組織に来てもらった後、暫くその場に慣れてもらう予定なの。まぁ……ご存知の通りあそこものすごーく忙しいと思うから、習うより慣れろ精神は暗黙の了解、必需品ね。そしたら、彼女の社会勉強。〈黄昏〉っていう特殊な箱庭育ちのあの子は、世間でいう学校に行ったことがないでしょう?」
「まぁ、な」
雪斗は何か察したように空を仰いだ。
〈黄昏〉に住まう人と普通を営む人の間には、幾つもの大きな壁がある。
「社会勉強をしないのは論外。これは〈黄昏〉に住む人たちの必須事項よ。学校という現場に一瞬触れるだけでいいの。時雨ちゃんの場合は秋の間だけ」
学校もその一つ。
「……」
この先の展開を完璧に察してしまった雪斗は、小さく舌打ちをした。朱里は満足気ににっこりと笑う。雪斗が手を伸ばした扉の奥では、ドタバタと似合わない音がした。朱里の唇が小さく動く。
「外での名前が、必要よね?」
「性悪悪魔め」
雪斗は悪態をつきながら、ため息をついた。扉を開けた先の玄関では目を丸くした槻がいた。雪斗の顔とひらひらと手を振る朱里を交互に見ている。時雨はその場にいなかった。恐らくリビングのソファでごろごろしているのだろう。
「ただいま」
「おかえりなさい、雪斗。え、なんで朱里も一緒にいるの? 迷子? 何か二人の話し声がしたからそんな気はしたけど……そもそも二人とも顔見知りだったの?」
雪斗が辛うじて言葉を絞り出せば、その数倍の言葉が疑問となって返って来た。まぁそれも仕方がないだろう。ふらっと買い物に出かけた雪斗がこんな遅くに帰って来て、そのうえ槻の知人まで連れ帰るとは普通思わない。どんな言い訳をしようかと雪斗が口を開くよりも先に朱里は言った。
「はぁい、槻。この間ぶりね。後で時雨さんも交えて全部話すから、まずはシャワーを借りてもいいかしら? さすがに一日歩いてたから疲れたのよ」
「後でって言うか明日にしてくれないかなぁ。別にいいけど……泊まっていく気なんだね。ひとまず中入んなよ」
「りょうかーい。じゃ、借りてるわね」
朱里がここは我が家だという顔をして直ぐに消えた。その後、槻は雪斗のことを引きずりながら、時雨の元へ持って行った。案の定時雨はソファに生息していたが、ムクリと体を起こしてお風呂の方を見ていた。ズルズルと引きずられる雪斗に目をやると、時雨は言った。心なしかその碧眼は冷たい。
「……あ、おかえりなさい。雪斗、ひとまず今お風呂に直行したのは誰なのか教えてほしいわ」
槻に引きずられている雪斗について、時雨はノータッチであった。懸命な判断ではある。
「今お風呂に入っているのは、朱里っていう私の知り合いだよ。なんか雪斗が拾ってきたの。何でか分かんないけどー」
「ふぅん。槻の知り合いってことは暗殺組織関係の人? 雪斗がこんな時間に帰って来たのもその人が関係しているのかしら?」
どちらかというと雪斗が朱里に捕まったのだが、苦しい言い訳は女子二人にスルーされた。
「まぁそんなとこ。悪いけど、あの様子だと暫く居座ると思うよ。朱里から何っっにも聞かされてないけどね! 雪斗は朱里から何か聞いてる?」
「ん、んー……本人から詳しい説明があると思うが、ひとまず時雨関係で来たらしいぞ」
雪斗は冷凍庫から苺のアイスを取り出すと、その冷たさを味わった。
「時雨関係? じゃあ、あれしかないじゃん。超絶ブラックな組織に暫く時雨が隔離されるあれ。……なぁるほど。だから朱里なのかーー」
槻は少しいぶかしげな表情をしたが、すぐに納得したように言った。だが槻が一人納得しても、時雨と雪斗は何が何なのか分からない。雪斗はどこか拗ねたように聞いた。
「どういうことだよ、槻」
槻は冷凍庫からチョコレートをいくつか取り出した。
「ん、時雨と雪斗は知らないだろうけど、朱里はいろんな組織の経験があるの。それで──」
「人手不足だから、お前ちょっとブラック機関に行ってきなさいっていう訳分からないご指名頂いたのよ。ついでに槻のところにいる時雨さんと言う人も、連れて来てっていう言葉もいただいてね。槻、一個貰うわね」
槻の服を着て、お風呂上がり立てほやほや感満載の朱里は美味しそうにチョコレートを頬張った。いつもふわふわの朱里の茶髪は湿り気を帯びて大人しくしている。だが、朱里のその大きな瞳は大人しくすることなく、真っ直ぐに時雨を見た。その瞳が爛々としているのはきっと気のせいではないだろう。時雨も時雨で、その瞳を真っ直ぐに見返す。
「こんにちは、時雨さん。暗殺組織の朱里と言います。雪斗とは昔少しあって、槻とは同期です」
にこっと人懐っこい笑みを浮かべて朱里は言った。凶暴なふわふわの猫は今、爪と牙を隠している。雪斗にはそう感じられた。
「……こんにちは、朱里さん。援護組織の時雨と申します」
「ねぇ、挨拶しはじまったとこ悪いけどさ。朱里と雪斗、昔何があったの? 二人が顔見知りなんて初めて知ったよ」
「昔色んな組織タライ回しにされてた時、指示組織にも行かされたのよ。その時に雪斗と色々あったのよ、ねぇ? 雪斗」
急に話を振られた雪斗は思わず、うげぇっとでもいうような表情をした。あんまり思い出したくない過去である。がっちりとした箱に入れて大きな鍵をかけ、封印したい思い出である。雪斗は一言だけ呟いた。
「あぁ、本当に色々あったよ」
「ふーん……大変なんだね。で、朱里。もうすぐで私の睡眠時間なんだけど。時雨も眠いらしいし」
「ちょっと槻、何私まで巻き込んでるのよ」
テーブルに置いてあった眼鏡をかけると、時雨は大きな伸びをした。そして碧眼をついと朱里に向けると言った。
「朱里さん、来てもらって早々あれなんですけど……槻が眠いらしいのでお話は明日にしてもらっても宜しいでしょうか? 布団は槻のを貸すので」
どこか壁を挟んだ時雨の言葉に朱里は少しショックを受けた。そう言う性格の子だとは元々聞いていたが、実際にされるとどこか傷つくものがある。
「そうね。私も一日歩き回ってヘトヘトだし、お話しは明日することにしましょう。槻、布団借りるわよ」
「え、時雨も朱里も私の布団のことなんだと思ってるの? 私どこで寝ればいいの! ねぇ、雪斗! どう思う? ……いや雪斗もう居ないし」
雪斗は一人静かに部屋に逃げていた。今日はもう振り回されてたまるかという根性からである。
「槻はソファで寝たら良いと思うわ」
そう言うのは時雨。
「槻は床で寝ればいいと思うわ。じゃ」
始めて来た家のはずなのに、真っ直ぐ槻の部屋に向かう朱里は普通に酷い言葉を残した。
──そしてその日の真夜中、日付が変わる一瞬前。月が爛々と天の川を照らしていたはずなのに、辺り一面真っ暗闇に包まれた。とぷんという音を立てて、まるで黒に染められたみたいに。
その原因を見てしまった不幸な人は、幸いなことに一人だけ。真っ赤な瞳で空を見上げていた少女は、冷たい目をしてその人を喰らった。飛び交った朱殷も、大気に逃げた空気も全部纏めて糧とした。




