賢者と白鼠 2
柔らかいステンドグラスの光を浴びながら、賢者様は淡々と紡いだ。その言葉の端々に刺があるのはきっと気の所為ではないだろう。さもありなんといった瞳は蒼を粋に見ていた。知らない事が罪というようなそれに蒼は思わず息を詰める。身を逃がす。目を逸らす。
「詳しいことは瑠雨のやつにでも聞くが良い。別に知らないからと言って罪になるような事ではさらさない。寧ろ知っておったら驚きだわ」
賢者様は紅茶を一口含みながら言う。藍色の髪がぱさりと揺れた。蒼は少し唇を噛み締めると言った。
「瑠雨は私が聞いてもそういう事は教えてくれないんです。本当に、何も」
「だろうな。あやつそういう奴だ。それでいいんだがの。何もかも答えすぎるのは良くない。……む? 違うか。瑠雨は答え無さすぎ、教え無さすぎなのか」
蒼はその賢者様の誰に聞いたのかわからぬ問いに、答え、大きく一回頷いた。蒼はそれに首がちぎれんばかりに頷きたかったが、瑠雨に知られたら殺されそうな気がした。
促された蒼が椅子に座るのを見計らって賢者様はもうひとつのティーカップを出した。緻密に葉が描かれているそれには一羽のカラスもいる。
賢者様は唐突に聞いた。
「紅茶とコーヒー、どっちが飲みたい」
それに対して蒼は反射的に答えた。紅茶は嗜まない。時折白樹が飲んでいるお零れを貰う程度だ。
「コーヒーをお願いします」
やがて蒼の目の前に出されたコーヒーにはミルクと砂糖が入っていた。砂糖は少なめで、ミルクは多め。子供が飲むようなそれ。
──何も言ってないのに。
蒼はその碧眼で思わず賢者様を見た。どうして好みが分かったのだろう。問われた本人はくくっと満足気に笑うと言った。
「別に。ただ兄弟ならここら辺は似てるかなと思っただけだ」
蒼は思わず硬直した。今、この人何て言った?
思わず瑠雨に助けを求めようとしたが生憎、彼はここに居ない。目の前に置かれたコーヒーの湯気が薄く揺れる。賢者様は空のティーカップを覗き込み少し不満げな顔をした。そしてティーバッグをひとつ繊手にとるとそのまま弄ぶ。そして背筋がピキリと凍った蒼をちらりと見やると、やっぱり淡々と言う。
「リゼの事だが、多分、まぁ何とかなるだろう。言うて私達は特に何もすることは無いが。ただ手伝えば良い。あとは──生きたいと思わせれば良い」
「え、それってどういう」
蒼は困惑を隠せなかった。さっきから目の前の賢者が何を言っているのか分からない。独り言は沢山漏らしてくれるものの、真髄が掴めない。はっきり言ってしまうと、気持ちが悪い。夕暮れ時の人影のように顔が見えない。──いや、人影すら見えないか。
「まぁ、あれだ。ようはリゼがこちらに戻ってくる手助けをするってこだ。それ以上でもそれ以外でもない」
「……むむむ」
無理矢理話を打ち切られた。蒼はただ胸中でぐるぐるとしている気持ち悪さをコーヒーで流した。是非とも賢者様を問いただ……質問攻めにしたいところだが、雰囲気がそうさせない。
何でリゼが、暁家とは、ここはどこ、あなたは誰、何が起こっているの────?
それらの疑問は言葉になることなくただ息として吐き出されるのみだった。隣に瑠雨がいれば質問攻めにしてやるのに、とまた悔やむ。
「────そんな目でこちらを見るでない。人の顔をジロジロ……チラチラ盗み見るな、馬鹿ものが」
ジャムクッキーを頬張りながらそう言う賢者様は、蒼に負けじ劣らずのため息(呆れてるだけ)をついた。そして頬杖をついて足を組み、堪忍したように言った。
「ひとつだけ。良いか? ひとつだけ主の質問に答えてやろう。ただし答えられない問の場合、今ははぐらかす」
「何でも良いんですか?」
ぱっと蒼は顔を上げた。その表情を見て賢者様は密かに後悔し、今の質問をカウントしてやろうかと思った。前言撤回したかったが、己の矜恃がそれを許さない。
「ぬ、主の前世は犬か。──まぁ、出血大サービスだ。なんでも答えてやろう」
賢者様は蒼がしっぽをちぎれんばかりに振っているのを目撃した。確実に気の所為だが、耳も見た気がした。そんなことは露知らず。蒼は先程までの疑問を全てゴミ箱に投げ捨て、一つだけ短く質問した。
「瑠雨の昔が知りたいです」
きりっという効果音が聞こえてきそうな蒼の表情。好奇心半分真面目半分の碧眼に賢者様は絶句した。
「教えてくれないんですよ! 瑠雨ってほんっと秘密主義すぎて」
賢者様は心の中で瑠雨に十字架を切った。哀れすぎる。
「後で殺されても知らんぞ……む?」
森閑としていた階下から何やら物音がした。どうやら人が外からやってきたらしい。賢者様はタイミングよく現れた待ち人に心から感謝した。──この場を逃げる口実ができた、と。蒼はタイミングの悪さにがっくり膝をついた。
螺旋階段を降りながら、賢者様は大声で彼女に声をかけた。そのよく通る声に今までぐっすり眠っていた白樹と翡翠は、反射的に身を起こした。
「白鼠! 良いタイミングだ! 遅かったことは不問にし、褒めてやろう!」
それに対抗するようにこれまた透き通る声が響く。
「遅いも何も……私におつかいに行かせていたのは貴方様ではないですか! それが無ければもっと早く来れました!」
「あぁ言えばこう言う……いつかお前のことを丸焼きにして食べてくれるわ」
ぶつくさと文句をいいながら髪を掻きむしる賢者様の奥に、蒼はひとつの影を見た。そしてその姿に思わず声を上げそうになる。白樹もまた、その姿に自分の頬をつねっている。まごうもなく現実。
翡翠はただぺこりと頭を下げていた。
「皆様初めまして。名前はない……ですが、今は白鼠と呼ばれています」
真っ白な肌と髪、各所に何かの毛皮がついた真っ白いコートを羽織っている。
「え、白樹が二人……?」
真っ赤な眼をした小柄な少女は静かに首を横に振った。
「──どうだ白鼠。何とか出来そうか」
「出来そうも何も……お察しのとおり、私にはこの子がこちら側に戻ってくる手伝いしかできません」
白鼠と名乗った少女は、真っ直ぐリゼの元へ向かうと適当に寝かされているその姿を見て嘆息した。そして賢者様を無言で睨む。白鼠は屈むと、小さい手をそっとリゼの額に触れさせた。そのまま何か確認するかのように目を閉じたあと、よしよしとリゼを撫でる。
キラキラとステンドグラス色の陽光を浴びた埃は、小さな息でまたさらに煌めき始める。
「────暁家の術を受けたと聞きましたが、具体的には"術"ではありません。それこそあなた方が扱う御伽とも違う」
蒼達は最初こそ、リゼとそう変わらない年端に見える少女から滲み出る違和感に、声に、言葉に混乱した。頭の片隅で本当に頼れるのだろうか?、とも思った。
──が、一瞬前と今は違う。見た目こそあどけなさが残る少女だが、中身は長い時を生きているらしい女性。そして経験を糧としている医者。それを理解した今、縋るしか無い存在だ。
彼女がダメなら……くっと蒼は思わず喉を鳴らした。
そんな未来、あってたまるか。
静かに紡がれ始めた診察結果にほぼ全員息を止め、聞き逃すまいと神経を注ぐ。賢者様はふと何かを思い出したように消えた。
「魂。普段は安定していますが、時々何かをきっかけにぐらりと揺れて不安定になります。思い出とか、声とか、味覚とか……いわゆるショック状態でしょうか。翡翠、あなたなら分かるはずです」
不意に名前を呼ばれた翡翠は肩をびくりとさせた。そしてこくりと頷く。
つい最近まで翡翠は、新鮮な人の魂を取り込んで己を保っていた。死んだ人間はダメ。なるべく生きている人間の魂が良い気がする。何となく、気持ちの問題だ。
翡翠とか〈蝶〉は言ってしまえば〈人喰い蝶〉。その意思を持って獲物に触れれば、あっという間に生身の人間を魂だけに出来てしまう。……でも、身体と魂を分離させるのは普通、ちょっぴり難しい。魂と身体はピッタリくっついているから。だからそんな仲良しこよしさんを離れ離れにさせる必要がある。
今の白鼠の言葉がそれだ。魂をびっくりさせてやれば良い。そして、飛び跳ねた魂を捕まえて食べる。
思わず今までの食事を思い出した翡翠は、小さな空腹を覚えた。食事自体はいろんな色を持つ"鉱物"で代用出来ている。でもたまには──
白鼠は淡々と、でも確実に言葉を選びながら言う。
「そうなったリゼの魂に狙いを定めて、捕まえた。ただ、それだけの事ならリゼは単なる傀儡になるだけで、動いたり、喋ったりします。その場合なら解決方法は簡単。魂を取り戻せば良い。……ですが、今回は違います。捕まえて、閉じ込められた。紫晶庭に。まぁそこは簡単に言えば魂の仮の保管庫……結界みたいな空間です。結構ゆるゆるなつくりなので、リゼの魂をこちらが保護することは造作ありません」
戻ってきた賢者様は飲みかけの紅茶が入ったカップとティーポットを持っていた。温かな香り良い湯気が辺りに広がる。そして白鼠達がいる場所と離れたクッションに身を預けた。
「ただその場合、魂が元の場所に戻ることを拒否し、紫晶庭に戻りたいと暴れます。その最期は魂の崩壊。自我の崩壊。いわゆる、本物の人形。言い方を悪くすれば……植物状態。紫晶庭という空間がそうさせるのですが、今は説明を省きます」
「……つまりリゼを元に戻すには、やっぱり自分の意思で帰ってきたいって思わせなきゃいけないわけだ」
蒼がようやく腑に落ちたと言った表情で呟いた。
白鼠は立ち上がり、赤い目で蒼の方をちらりと見るとコクリと一回頷いた。そして纏っている白い毛皮を手で忙しなさそうに触ると、一人くつろいでいる賢者様を見た。
「そうです。で、問題なのがそう思わせることで……」
その紅瞳が微かに伏せられたのは気の所為なのか。
僅かな沈黙。
カチャリ、と満ちたティーカップが置かれる音がした。
カチリ、とどこかで針が大きく時を刻んだ音がした。
白鼠はやがて賢者様から視線を外した。視線を手前に持ってきて、翡翠達を瞳に映す。
「──では、誰を連れていきましょうか」
「連れて……? えっ、紫晶庭に?」
沈黙を決めていた白樹は思わず後ずさった。白鼠はそれにニッコリと微笑む。そしてその場にいる人をもう一度見渡した。
「私と翡翠は確定として、あと一人……関係のありそうな人は──」
「白鼠。そいつだ。そいつが良い。何と今なら後からおまけで瑠雨の怒号が飛んでくる。今が選び時だ」
賢者様は蒼のことを行儀悪く指さしながら、ケラケラと笑った。蒼は思わず白樹の影に身を隠した。嫌な予感しかない。そしてこの場合、瑠雨の怒号を受けるのは確実に蒼である。
白鼠はちらりと蒼に同情するような視線を送った。尚、蒼は必死に空気になろうと遅い努力をしていた。
「そんなこと言って、自分が行きたくないだけでしょう。それに瑠雨の怒りを買うならどうしてわざわざ選ぶのです」
賢者様は茶菓子に手を伸ばしながら、またからかうように言った。
「なら白夜の方が良かったのか? ん?」
「…………それじゃ賢者様、こちらはお願いしますね」
「物分かりが良いな。初めからそうすれば良いものを」
ケラケラとまたその賢者はわらった。
◆■◆
「ひとぉつ、ふたぁつ、みぃっつ……」
少し前ならそれに呼応する声が戻ってきたかもしれない。リゼは淡々と花を摘んでいた手を掲げた。きらりきらりと輝く白い花達は、その爪の汚れをありありと見せつける。
赤が鈍って汚い黒。でも光に透かすと綺麗な赤黒。
それはリゼの勝利の証だった。あの時、氷槍が何なのか分からなかったし、首と胴はバラバラにする事が難しいって瞬間的に悟った。だから心臓をナイフで抉りとった。
願ったら出てきたナイフ。肋骨をいとも簡単に破壊したそれを使えば、首をとばすことも簡単だったかもしれない。でもそれに気がついたのは『リゼ』の心臓を抉りとった後。実行してみようにも時すでに遅し、後の祭りだった。だってぐちゃぐちゃだったから、そんな事出来なかった。
「何よ、何がここから出れるよ」
何も起こらなかった。
手が真っ赤に染まっただけだった。
涙がなくなっただけだった。
あれから何日が経ったのか分からない。ひとまず『リゼ』は湖の畔に埋めた。心臓はきのこの下に埋めた。そして今、『リゼ』がいた頃の後ろ向きな気分は綺麗さっぱり消えてなくなっていた。『リゼ』を埋めた場所にはそれぞれ小さな可憐な花が咲き始めた。
花を摘んで、集めて、袋に入れて。
お腹が空いたら食べ物が現れる。
暇だと思えば辺りを探検すれば良い。
──そんな日々を過ごしていたら、そう思うのに時間はかからなかった。
「ずっとここに居ても良いかもしれない」
黄昏裏話(何回目か忘れた)
◆翡翠とローリエの地の文の使い分け◆
普通→ローリエ
結界とか特殊ゾーン→翡翠




