賢者と白鼠 1
◆あらすじ■
暁家との戦闘の際に暁家の術を受けたリゼは、こんこんと眠り続けていた。目覚めさせようと四苦八苦する蒼、白樹、翡翠も策が尽きたと嘆いていた。
そんな時、ふらりと姿を現したのは賢者様たる人物。彼女を頼るため、3人はリゼを連れ、賢者様の住処へと移動していた────
「こっちに来い」
賢者様は短く、再びそう言うとすたすたと歩き始めた。
太陽が頭上にある時間帯のはずなのに、辺りは紗をかけられたように薄暗い。
どうしてだろうか、と蒼はリゼを抱き直しながら辺りを見渡した。言うなら灰色に染められた世界。コンクリートの壁が間近までそびえ立ち、何かの配管が何本も頭上を通っている。物干し竿のようなものが空を覆っているかと思えば、それを足場にネズミが何匹も駆けている。蜘蛛の巣は埃を纏って魅力を更に増していた。
足元には割れた瓶のガラス破片が散らばっている。塵芥が舞っているかと思えば、その間には凛とした花がどこか誇り高く咲いていた。
不思議な世界。まるで異国だ、とかぼんやり思いながら蒼は歩き、ふと壁に触れた。ボロっと前触れなく壁は崩れ落ちた。蒼は思わず、壁を凝視した。綺麗な角形を描いて、そこだけ剥がれ落ちた後がある。
碧眼を凝らしてさらに見てみると、その周りに幾つも規則的な亀裂が入っていた。
"パズル"
直感的にそう思う。まるで誰かが精緻なパズルをした、その後みたいな。
蒼が表面を撫でるようにして壁に手を置いた時、
「何してんのよ」
後ろから白樹が呆れたような声をかけてきた。蒼は何事も無かったかのように振り向くと言った。
「別に何もしてないよ。ただ、触ったら崩れただけ。思った以上にここは脆い」
それに……と蒼は続けた。ここに来てから気になったことはいくつかあるが、特に目を向けたものがある。白樹は小さな瓦礫を容赦なく踏み締めて、大きな瓦礫は避けて通りながらやって来た。時折前方の翡翠と賢者様との距離を確認している。
「ネズミが異常に多いよ、ここ」
また蒼の視界をネズミが掠る。ネズミが視界に入っていない時の方が少ないというのに、それでいてしっかりと姿は確認できない。ちょろりちょろりと尻尾だけを見せて、直ぐに隠れる。どこかへ行く。生意気なネズミだ。
白樹もそれは思っていたのか、こくりと一回頷くとくるりと辺りを見渡した。
「本当にここは人間よりもネズミが多いわ。白夜が一緒に居なくてよかったって心底思った。白夜ネズミが嫌いだから」
「苦手じゃなくて嫌いなんだ」
別に大した違いは無いように思える。そして蒼と白樹はゆっくりと、足元を確認しながら再び歩き始めた。前二人が歩いた道を通れば、特に罠とかにも引っかからないだろう。
──罠?
蒼は自分の思考に少し笑った。特に考えてはいなかったが、警戒心は健在らしい。
「えぇ、前にいろいろあったみたいでね。最近では落ち着いているみたいだけど、昔はもっと酷かったみたい。今でもまぁ、特定の日になると鬱みたいになってるけど。ネズミいなくてもね」
「へぇ、私にとっての雨みたいなもんかな」
ぼんやりと蒼は言った。特に何も考えずに。
「良くわからない例えね、それ。蒼、あなた雨嫌いだったの? 全くそんな素振り見せてないじゃない」
失言だった。白樹が少し心配そうな声音で言ってきた。心配させてしまった。これは蒼の謎ポリシーに反する。
「……ごめん。物凄い出まかせだから気にしないで」
白樹にそう謝ったあと、蒼はまた無言で歩き始めた。人一人抱え、歩きなれない、しかも舗装されていない道を通ることは思った以上に体力を必要とする。例え毒草狩りだとか言って嫌がる瑠雨を引きずりまわし、獣がうろつく程の荒れた山を駆け回る蒼でも、だ。それでも翡翠と賢者様との距離は着実に狭まっていた。歩きづらいであろうドレスで、そして高いハイヒールでつかつか歩く賢者様は疲れを知らないようだ。時折、その藍色の瞳で賢者様が蒼達を見ているのを本人達は知らない。
行く手を阻む大きな樽や瓦礫を避けることを幾度も繰り返した後、蒼はふと気がついた。そしてそれを確認するべく、歩きながら視線をあちらこちらに飛ばす。
──異様なくらいに歩きづらい場所だとは思ったけれど、もしかしなくても……。
頭上の配線をネズミが通った。
瓦礫のトンネルをネズミがくぐった。
有刺鉄線のアトラクションで、雫に濡れた鉄格子で、ネズミが遊んでいる。
────ここは、鼠の為に作られた場所。だとしたら、わざと人が来れない様にしているんじゃ。
なぜ?
そこまで蒼が思考を飛ばした時、ふっと目の前に小さな背中があった。どうやら目的の場所に着いたらしく、蒼達のことを待っていたらしい。
ふわりふわりとした賢者様のドレスは、強く吹いた風に暴れた。ばさりと旗のように宙を覆った布は直ぐに元の位置に戻る。
その隣にちょこんと居た翡翠は器用に黒髪を束ねていた。
「こんなに歩かせて悪かったの。しかし主たちだけの今、ここまで直接飛んでくる気にはならなかった。詫びは言う。ひとまず中に入れ」
賢者様がそう言うとタイミングを見計らっていたかのように、一匹の白鼠が鍵を加えて現れた。この灰色を意に返さない白。その白鼠は瓦礫の階段を駆け上がると、鈍い金に輝くそれで器用に錠を開けた。
それだけで、行き止まりだったただの壁が扉になった。細く開いた扉の隙間に順に身を滑らせ、最後に白鼠が入った。静かに閉められた扉は錠の音を響かせ、再びただの壁となった。
「そっちの娘はソファに転がしておくと良い。後で医者が来る」
「ソファ……?」
蒼達はその言葉を聞いてその部屋を見渡した。
本が沢山、乱雑に放置されている。どれもこれも図鑑と呼ばれる分厚い本。世を謳った馬鹿らしい論文や小説、その類は一切置かれていない。
全ての本が矜恃高そうだった。
「そこじゃ、そこ」
クッションに身を委ねた賢者様は気だるそうに手で場を示した。本に埋もれたそこを見れば、確かにそこにソファがあった。
「すまぬの、そいつらは我儘だからそこに置いたままにしてやってくれ。そやつ一人横たわれる程度の場はあろ」
蒼は言葉通りに"そいつら"の隙間にリゼを寝かせた。ひょっこりと翡翠が脇から顔を出して、リゼの様子を確認する。そして、小さくため息。
「起こすのがもったいないくらい気持ち良さそうに寝てるわね」
「正直、白夜にもそれ見習って欲しいくらいなんだけど」
まだ入口で佇んでいる白樹はリゼの様子を見ようと、足を一歩前に出す。が、途中腕を掴まれて歩を止められる。白樹が驚いていると、更にもう一本手が伸びてきた。
「いてっ」
その手にデコピンされた。白樹は少し恨めしげに手の主──賢者様を見た。それに何事かと蒼達も振り返る。
翡翠だけが賢者様のその表情に肩を強ばらせた。
────怒ってる。自分が構ってもらえなかったから怒ってる。
「バカ者共が。人の心配をする暇があるならまずは休まぬか。ここまで歩いてきて疲れぬはずがなかろう。まずは座れ。あと翡翠、私はそんなちんけな理由で怒ってはおらぬ。いじけてると言え。……幸い鼠はまだ戻って来ぬ。少し寝る暇もあろ」
かたり、と耳元で物音がした。賢者様に言われた通り目を閉じ、うつらうつらと休んでいた蒼は思わず飛び起きた。それに驚いたようにホコリが舞う。
夢現から現実に無理矢理意識を動かすのは、決して心地よいものでは無い。ずきりとした痛みを頭に感じる。体が重い。視界がぼやけている。
「────っ」
頭が痛くて開いた目をぎゅっと閉じた。波打つような痛みが引くのをじっと堪えて待つ。ぐらんぐらんとした感覚もおさまるのを待つ。そんな時、ひとつの暖かい手が蒼の額に触れた。どこかつっけんどんで柔らかい声が降ってくる。
「だから寝ておれと言うたのに」
「うたた寝は……しました」
賢者様だ。少々、というかかなり不満気な顔をしながら蒼の事を見下ろしている。物音の犯人であろうティーカップは、少し離れたところで湯気をゆらゆら立てていた。それは時間の流れなど知らないというように、ゆらゆら ゆらゆら ひたすらに宙をたゆたう。
ふと蒼は、白樹達はどこだろうと思い、辺りに視線を走らせようとした。が、その目を賢者様は黙って塞いだ。蒼は黙って塞がれた。
「────ふんっまぁ良い。白夜よりは寝てるだろうしな。頭痛も暫くしたら引くであろ。ここに最初に来るやつは必ず体調をおかしくする」
少しして賢者様は渋々といったように蒼の目を解放し、そう言った。そのまま蒼に背を向けると、藍色のドレスに空気を孕ませながらお茶の元へと帰った。暫く放心したようにしていた蒼だが、慌てて床に足をつけるとその後を追う。ぱさりと一枚の毛布が後ろで落ちた。
「リゼは、どうなるんですか」
躊躇いがちに発されたそれに、賢者様は呆れた表情を隠さない。隠せないのではなく隠さない。それでも蒼は思わず口をついでた言葉をもう一度繰り返そうとした……が制される。ポツリと漏らされた言葉によって。
「紫晶庭という所に閉じ込められた人間は、なかなか帰ってこない。最初こそ辛くて泣き狂う……がいつしか何でも願いが叶うあの場所の虜になる。ある意味人生がやり直せるようなものかの」
「…………は?」
────急に何を言い出したのだろうか。
「リゼという少女は今そこに閉じこめられておる。死にたいと思えば死に、消えたいと思えば直ぐに消えられるその場所にの。そこで死ねば……消えればこちらでも死ぬ。そういう面では楽園ではなく単なる処刑場だ」




