若竹色の涙2
不意に声をかけられた宗伝は顔を少し上げ、笑った。懐かしい友との再会だ。ざっざっと地面を鳴らしながら、彼は近づいてきた。思わず頬を緩ませながら、宗伝は懐かしの友に言った。
「久しぶりだなぁ。もう来ないかと思ったよ」
「何を言う。ここの家主は私だぞ? 帰らないでどうする」
彼は口角を釣り上げて、楽しそうに言う。宗伝が飲んでいたお茶を勝手に飲み干すと、そのまま縁側に上り、ごろりと大きな体躯を横にする。
「文でも出してくれたらちっとは歓迎が出来たものを」
ふんと鼻で彼は笑う。そんな事出来るはずが無かろう、と。そして彼は家の中を見、ふと気が付いた様に言う。
「子でもなしたのか?」
「いや、まさか。夏の初めに拾ったのさ」
「ふ〜ん、して何処に?」
彼は興味を持った。宗伝は、俗世から出来る限り離れ、人との関わりあいを絶った生活をしている。まぁ、だからこそ貴重な、宮中にバレたら笑い事じゃ済まない書物を任せることが出来るのだが。
そんな人嫌いとも呼べる宗伝が人に興味を持ったという。
「会ったからと言って別に話が出来る訳じゃ無かろうに。第一、あの子は君に会ったら全力で逃げると思うぞ?」
「はっ失礼だな宗伝よ。遠目から眺めるだけでも良かろう。……にしてもここにはまだ手は延ばされていないのか」
最後の方だけ小声で言う。安心したように。怯えているように。噛みしめるように。
「あぁ、でももし何かあったら君が教えてくれるから大丈夫さ」
穏やかに笑いながら宗伝は言った。風が竹薮を静かに揺らす。俗世から切り離された世界。虫の鳴き声は元気良く響き渡り、水は波を立てた。それらの音に混じって、子供が駆けて来る音がした。一度スッ転んだような音がしのは気のせいなのか。
「ちょっと君、早く隠れてくれないか? あの子が怖がるといけない」
宗伝は少しおどけた口調で言った。彼の体をぐいぐいとどこかへやろうとする。それを簡単にあしらうと彼は大きく伸びをして言う。
「ふっこれは余程溺愛していると見た。私の目で確かめてやろう」
「そーーでんさまーー! 見て! かえ、る……?」
げこっと一つ鳴いて蛙は硬直している浅葱の手から逃げた。浅葱が慌てて捕まえようとしてももう遅い。
「え」
「水遊びは蛙としていた様だねぇ、浅葱」
「宗伝様?」
「紹介しよう友人だ。名は教えてくれないんだけどね」
硬直した浅葱に彼はぺこりとお辞儀をした。
「ほら、言わんこっちゃ無いだろう。君、浅葱が怖がってる」
「え、宗伝様人間のお友達居ないの……?」
「え」
浅葱は少し哀みを含んだ目で宗伝を見た。
そして彼の隣に座っている一匹の大きな狼を見た。毛並みは耳から尻尾の先まで漆黒で、その体躯は小さい浅葱よりも少し大きめであろうか。大きい。今までこんなに大きな狼に遭遇したことが無かった浅葱は暫く固まった。
「ふはっふははははは。のぅ? 宗伝。この小娘に人間の友達居ないと言われた気分はどうだ?」
その狼は笑った。余りにも愉快に笑うその狼に、怖いもの知らずなお転婆嬢も流石に一歩下がった。
「喋った」
浅葱は緑色の目をまん丸にしながら言う。狼は縁側から降りると、硬直している浅葱の元へ行った。
「ふんっ緑色の目とはこれまた滑稽な小娘だな。おい宗伝、こいつをどうするつもりだ。食べるにはちと小さすぎるぞ」
狼はその牙をむき出しにしながら言った。
「どうするもこうするも無いよ。拾ったからには育てるさ。食うなよ」
「まだ食わぬ。肉がないからな。おい、緑の小娘。少しは動かぬか。少しは私を楽しませろ」
狼は未だに硬直している浅葱を鼻でぐいと押しやった。見れば気絶している。立ったまま寝るとは何と器用な。
「おい、宗伝。何とかしろ。こやつ寝ておるぞ」
「君が気絶させたんだろう。布団に連れていくか。……で、今回はどのくらいここに居るの」
宗伝は浅葱を抱え上げると、黒い狼に問うた。狼はぴょいこらと身軽な動作でまた、縁側に登りながら言う。
「その小娘が食べごろになるまで」
宗伝は狼がニヤリと笑ったのを確かに見た。
◆■◆
一年が経った。宗伝が娘を拾ってきてから一年。浅葱は喋る黒い狼を〝黒〟と名付けた。冬は黒を毛布にして寝た。浅葱の遊び相手として優秀な黒は、しょっちゅう宗伝にからかわれていた。
「宗伝様ーー! 黒どこにいるか分かる?」
浅葱の朝は逃げる黒を追うところから始まる。そして、日課として毎朝草に水を撒く宗伝は、黒を呼ぶところから始まる。
「ふんっ何でこの私が小娘なんぞに構わなくては行けない」
「黒ー遊ぼ〜今日は湖に行こ〜」
自分のより大きい黒に浅葱はよじ登る。最初はその固い毛並みに慣れなかったが、今ではそんなの気にしない。
昼は黒と野山を駆け回り、夜は宗伝に文字と歴史を習う。文字は一年で大方すらすら読めるようになっていたし、まだ下手くそだが文字の書き方も習い始めた。板に入れた砂にひたすら書く。時折黒が邪魔をするかのように手を出してくる。そんな時は黒の手の上に砂をたっぷりとかけてやるのだ。
「おい、小娘やめんか」
「黒〜手〜避けて〜」
横で罠の為の縄を編みながら、浅葱の文字を見ていた宗伝は笑って言った。どうやら彼は小娘呼ばわりしながら浅葱の事をいたく気に入ったらしい。
「浅葱、黒はどうやら構って欲しいらしい。あとの時間は黒から歴史を習いなさい」
「そうなの? 黒ったらかまってちゃんね」
「違う」
浅葱は黒に牙を向けられても動じなくなった。鋭い牙を向けられても、肉球をぷにぷにしようとする精神をこの一年で身に着けていた。もとより浅葱はどんなに黒が脅してこようが、本当に浅葱を傷つけることはしないと知っているのである。
それは信頼。
「黒、教えてくれないの?」
ぷいっと浅葱と宗伝に背を向けた黒。悲しげな声色で浅葱は声をかける。黒の尻尾がピクリと動いた。それを浅葱は見逃さない。
「教えてくれない、の?」
黒の無意識のうちに尻尾が左右に揺れ始める。浅葱がそのまま黒の背中によじ登り、頭をカリカリとしてやれば、
「教えてやる! 教えてやるから離さんか!」
身をよじる様にして……それでも浅葱を傷つけない様に注意して言う。
「何持って来ればいいの?」
するりと器用に降りると浅葱は聞いた。
黒にも考えはあるのだろうが、日によって浅葱が教わる史の内容は変わる。史と言っても、別に歴史だけを教わるわけではない。今の一般的な民の生活、お偉い人たちを始めとした宮中の人々の生活。古今東西に少しずつ現れ始めた物語や伝記。言わば雑学を教わっているのに近かった。黒は物知りだった。その一言に尽きる。浅葱が日常生活でも分からないことがあればすぐに教えてくれる。
「ふんっ好きなものを持ってこい」
今日の黒はどうやら機嫌が良いらしい。
◆■◆
「黒~これ~?」
天気の良い夏至の日、浅葱は黒と一緒に山に薬草狩りに来ていた。何かの赤い血を滴らせながら黒は浅葱の方へ振り向いた。器用に前足で口のあたりを綺麗にすると言う。
「言っただろう小娘。この時期に咲き始める紫色の花には注意しろと」
「あ、やっぱりこれなんだ」
茂みを掻き分けながら黒は浅葱の元へと向かう。儚げに、こぢんまりと申し訳なさそうに咲いている花があった。見つけるのは中々に大変なのに良くもまぁ見つけたものだと感心しながら、その大きい前足でぺしりと浅葱の頭を叩く。
附子。日本に古くから存在している東洋の矢毒だ。矢毒と言っても大きく二種に分かれる。人を殺すものと食糧としての獣を狩る二種に分かれる。この場合は前者だ。そして附子の毒の強さは個体差によって大きく変わる。面白い毒草だ。
「触っておらぬな?」
「うん、触ってないよ。ちゃんと黒のお話聞いてたから」
手をパーにして見せてくる浅葱。少しだけほっとしながら、黒はもうそれと関わらぬなよと注意をしておく。触っただけでも、手に炎症の様なものを起こす。注意が必要な植物だ。
「ついてこい。宗伝が昼飯を用意している頃だ。帰るぞ」
尻尾をゆらりと揺らしながら黒はそう唸った。
「乗っていい? 籠は落とさないようにするから」
聞きながらよじ登る浅葱。
「ふんっ勝手にしろ」
そう言いながら、浅葱がしっかり毛皮に捕まったことを確認すると黒は山を駆けた。浅葱はこの黒の背中に乗って風を切るのが好きだった。足が速くなった気がするのだ。そして黒の背は高い。何時も浅葱が立って見る景色とは全く違う。
一度だけ──去年の冬だっただろうか怪我をして歩けなくなり、浅葱は黒に咥えられて家に帰ったことがある。あれはもう、堪忍願いたかった。眼がひたすら回って仕方がないとは言えど、気持ちが悪かった。
ふと、黒が止まった。そして唸る。
「小娘、目を瞑れ。駆け抜けるぞ」
「うん……?」
黒は浅葱がしっかりと掴まったのを感じ取ると一気に跳躍した。浅葱の頬を、体を今までとは比べようにもならないくらいの風が襲い掛かる。長い時間に思えたけれども跳躍時間は一瞬で。黒に目を開けてもいいぞと言われた時には、いつの間にか家の前にいた。突然の帰宅に驚いたように宗伝が駆けてくる。
「黒、何かあったのかい」
「ふんっ昼飯がそろそろだったから帰って来ただけだ。詳しくは昼飯を食べながら、だ。宗伝、出来ているんだろうなぁ」
そうだね、と頷いた宗伝だったが視線を黒の前足にやった時に少し厳しい表情に変えた。
「浅葱、黒はもしかして先におやつでも食べていたかい?」
「ううん。食べてないと思うよ。私見てないから」
薬草の入った籠を渡しながら浅葱は正直に言う。正直に。
「おい宗伝。早く飯を用意せんか」
前足を水で洗いながら、急かすように黒は言った。何か隠すように。察しの良い……つまり嘘を見破るのが上手な宗伝は勿論、黒がそそくさと逃げの体制をとっているのに気が付く。逃げる黒の尻尾を捕まえ、そっという。
「黒、後でお話しようか」




