若竹色の涙 1
──それはちょうど初夏の頃だった。鉄の塊は空を、地を支配しておらず、まだ庶民の空腹が当たり前の様だった時代。
一人の少女として生を受けた彼女は、その時代にしては幸せな人間だった。お腹が空いたからと泣いて喚いて盗みに走り、良く分からない偉い人に連れていかれて殺されるなんてことは無かったのだから。
彼女には妹が一人、そして親とよばれる人物がいた。優しかった。楽しかった。家もちゃんとあって、服もある。お腹が空けば近くの湖で魚を釣って、皆で焼いて食べた。白いお米は持ってかれたけれど、皆で囲む食卓はとても幸せで。
昼間は縹色の空を見上げ、夜になれば深縹に染められた空を見上げる。
浅葱と名付けられた少女はそれを甘んじて、何も考えないで受け入れていた。いつまでもこんな幸せで、平坦な日が続く。他の人から目を逸らして、現実から目を背け、己という狭い……けれど安定した世界を見つめ、彼女は生きていた。いつまでも続くと信じて。
だが、この醜い世界にはどんな物事にも〝永劫〟なんて存在しない。奇跡が起きない限り。
「……っ」
──家の床は真っ赤だったかしら? きっと結が獣の血を零したのね。全くそそっかしいんだから。父様と母様はまだ帰っていないのかしら? 早く片付けないと汚れが残っちゃうわ。結は──怒られたくなくて逃げたのね。
きっとそう。
きっと
きっと
きっと
キット
ハシッテ
ニゲタノ
ダカラダカラダカラ
この肉塊は違うの。
「い、いやぁああーー!」
今日は美味しいお野菜分けてもらったの。仕掛けてた罠の魚は盗まれちゃってた。でも見て。籠いっぱいにいっぱい色々取ってきたよ。キノコも多分大丈夫なやつ。お父さんに見て欲しくて。山葡萄の弦も見てきたよ。いい塩梅に成長してたから今年の冬はきっと素敵な籠が作れるね。いい値段で買ってもらえるよ。そしたら何食べようか?
あぁ、そうだ。帰ってくる途中でね、蓮の花見たよ。もうすぐしたら咲きそうだから見に行こうよ。湖のあさりも取りに行こうよ。ねぇ、返事してよ? やだなぁ、皆死んじゃったみたいに黙っちゃって。
どこか遠いところでガラガラと軽快で愉快で、痛快な楽しい音を立てながら思い出という積み木が崩壊していく。崩れてく。
「ねぇ、ねぇ、お願い……早くカエッテキテ?」
ぺたりと膝から崩れ落ちる。ザラっとした感覚。
自慢の白肌が破れ、血が滲もうとも目の前の光景に比べれば!
涙で顔がぐちゃぐちゃになった。
その時、
「娘は帰ってきたか?」
「呪われた色つきの目に、珍しい白肌だぞ。逃がすなよ。生かして捕らえるんだ」
「います! 中に!」
夢現の、虚妄の、幻想の世界から腕の痛みで無理やりに現実へと戻らされる。涙で霞む視界に幾人もの人影が見えた。
──皆、なんで私を置いていくの? 置いていかないでよ。寂しいじゃん。ねぇ、あなた達早く私を殺して? 一人でいるのは寂しいよ。辛いよ。悲しいよ。
"生かして捕らえる"
殺してくれないの?
少女は泣きながら哂い、嗤った。
──殺してくれないなら、
「コロシテヤル」
少女の──美しい瞳に宿ったのは、〈狂気〉
彼女の烏羽色の髪に宿ったのは、〈憎悪〉
そして彼女の雪肌を染め上げたのは、〈緋〉
「……これ、は」
そして、衣を朱殷に染めた少女を彼の人は見つ
ける。彼の人は紅柿色に染まっていた。
「なんということ……」
荷物すら捨てて駆ける。荒らされた家。倒れている少女。漂う血の香り。隠しきれていない死臭、腐敗臭。家の中に入れば、ここらで有名な荒くれ者の死体が転がっていた。
何があったというのだろう。
彼の人は少女を抱えあげ、帰路に着いた。
それは、とある一つの残酷な御伽話の始まりだった。
◆■◆
「──……っ……ん……」
暖かい陽の光を浴び、浅葱は目覚めた。
体の節々が痛い。痛い。痛い。
前触れなく、あの光景が蘇った。途端、吐き気に襲われる。息ができない。胸が苦しい。
──生きている……?
無意味に空を掴もうとした手は力が入らず、突如プツリと糸が切れた。コン……という音は鼓膜を叩き、挨拶をした。
その音とは別にどこかで、何か落とす音を浅葱は感じた。そして慌ててこちらに駆けてくる音も全身で感じ取る。
──あぁ、そうか。私、ダメだったんだ……生きてるんだ。
死に損ねたんだと、少しだけ口元が自嘲気味に歪んだ。
浅葱は重たい瞼をうっすら開け、身体を揺らしている人を見る。誰だか分からない人。
「あ、生きてる……良かった……良かった……」
ふと誰かは揺さぶるのをやめ、浅葱に布団をかけ直した。
──布団?
「もうちょっと寝ててもらえるかな? まだ仕事が終わっていないから」
「そ……どう……う……」
言葉が、出てこなかった。喉が渇いているのすら、浅葱は自分で気が付かなかった。気がつけなかった。浅葱は状況を把握しようと必死に起き上がろうとしたが、出来ない。それもそうだ。腕すらまともに上がらないのだから。ひとまず今、浅葱は己が布団という凄く素敵なものに包まれていることを知った。通りで体が温かいと思った。
瞬きをゆっくりとする。どうやら殺されたり、売られたり酷い扱いをされる訳ではなさそうだ。
──寧ろその逆──?
「おはよう。私は宗伝。それが私の名前だよ。村から帰る途中で君を拾ったんだ。安心して。悪いようにはしないから」
宗伝と名乗った男はそう言い、拾ってきた少女を見た。
少し荒れてこそいるが綺麗な黒髪を持ち、稀有な──どこか異国を感じさせる翡翠の様な瞳。見つけて直ぐに連れ帰り、手当したものの人が余り通らないあの場所で、もし自分が見つけなかったらと思うと今でもゾッとする。宗伝が見つけたときですらギリギリだったのだ。
幸いな事に命を、魂をこちらの世界に引き止められた。そこには仏の情もあったのだろう。生かしてやろう、と。助かっても目を覚まし、意識を取り戻すかは五分の賭けだった。彼女はそれに勝ったのだ。
◆■◆
何やかんやで浅葱が誘拐こと救われて数日。彼女は起き上がれるようになり、身支度は自分で行えるくらいにまで回復していた。
「ほら、お食べ」
「……いただきます」
胃がストレスによる食物の拒絶をしなかったのが大きいだろう。元気を失っていた翡翠色の瞳は輝きを取り戻し、肌の血色も良くなってきていた。
宗伝が作ったご飯には何か見知らぬ植物が入っていて、それは生活の糧を山に頼ってきた浅葱も知らないものだった。
「薬草だよ」
「薬草……?」
ある時宗伝はそう言った。その頃には浅葱は縁側と呼ばれるような所まで壁伝いに歩けるようになり、外を見ることが多くなっていた。時折姿を見せる動物たちは浅葱が知らないくらい、生き生きとしていた。
宗伝はひっそりと驚愕していた。あんな事があったのに、精神の病を一生負いかねない事を経験したのに、何事も無かったかのように前に進もうと生きている。
見ず知らずの自分をすぐに信じ、甘え、頼っている。
お陰で彼女の回復は目まぐるしい。
でも……どうして? どうして見ず知らずの自分を頼るのだろう?
聞けない。思い出させたくないから。
◆■◆
「何してる、の……?」
またとある時、浅葱は恩人の宗伝が木の板に向かって必死に何かしているのを見つけた。何か──本当に薄くて白いヒラヒラした何かに、竹の先になにかの毛を纏めたものを使って何かしている。
腕を黒い水で染め上げながら、それはもう無我夢中で。浅葱にとって、その行為は怪しいことこの上なかった。
「……いった……い……」
床に座って彼が何をしているかを浅葱はこっそり見ようとした。だがしかし、
「ん? どうしたんだい?」
初めて浅葱は動かぬ体を祟った。
気がついた宗伝が慌ててかけてくる。これじゃあコソコソしていた意味が無い。水の泡だ。堪忍した浅葱は言う。
「何……してるのか、気になって。そんな黒くなって」
「あぁ、なるほど」
宗伝は筆を持ったまま手をぽんっと打った。墨がまた肌の、服のあちこちに飛び散る。
──この子は文字を知らないのか。
良く考えてみれば宗伝の周りの人間が特別なだけで、庶民的に言ったら〝文字〟なんて物は凄く貴重な物なのだろう。存在すら知らないのかもしれない。文字が読めなければ書物も何も読めない。ということは知識を身につけることが出来ない。
「ふむ……」
腕を組みしばし思考する宗伝の目の前で、また治らない体を引きずろうとしている影がある。恐らく暇なのだろう。最近は命令を聞くようになったらしい体を懸命に動かし、家中をはい回っている。最近は縁側がお気に入りのようで良くそこに居る。回復したという証でもあるため、とても喜ばしいことなのだが……。無茶し過ぎないか宗伝は心配であった。
──ちょうどいいかも知れない。
「君、文字を覚えてみないかい?」
「文字……?」
少し掠れた声が帰ってくる。喉が乾いたのだろうか。そう考えながら宗伝は半紙と筆、硯を持ってきた。
「ちょうどいい暇つぶしになるだろう」
宗伝は書き物を持ってきて、渡してから気がつく。まずは読むことから始めるべきなのでは? と。幼い頃の我が身を思い出しても最初は読むことからだった気がする。
「……順番間違えた」
薬草と毒草は間違えないのに。
◆■◆
浅葱がやって来てから二週間が経った。時の進みは意外とゆっくりに感じられる。その頃の浅葱は、いろはにほへとを覚えた。
「色は匂へど散りぬるを 我がよ誰そ 常ならむ 有為の奥山 けふ越えて 浅き夢見し 酔ひもせず」
浅葱は覚えるのが早かった。宗伝が教え始めた薬草も、文字の読み方も全て吸収した。浅葱は書物を読むのが好きで、その家に置いてある大量の書物を毎日毎日読んでいた。面白かったから、宗伝がそれを望んでいたから、そして何よりもまだ子供な浅葱の脳は知識に飢えすぎていた。
前の家では知らなかった事が沢山ある。宮中の生活や、過去の帝様達のお話。政治のお話が纏められた巻物もあれば、民の貧しい生活がありありと書かれたものもあった。白いお米を持っていく偉い人はお役人という事もそれで知った。外の世界についてもほんのちょっぴり書いてあった。
世の中の、残酷な話がそのまま書いてある書物や巻物。浅葱は、何故そんな物が存在しているかも考えずにただ、知識を吸収した。欲のままに。
◆■◆
更に数週間が過ぎると、浅葱は走り回れるようになっていた。恐ろしい程の回復力。宗伝に拾われた当時に濁っていた翠の双眸には光が宿り、豊かな黒髪は艶を取り戻していた。
そして、元の、年相応にお転婆な性格も取り戻していた。それ故に、宗伝は浅葱を他の子どもたちと触れ合わせてやれないことを悔やんだ。でも、いつか浅葱が大きくなったら最寄りの村へ連れて行ってやろうとは思っていた
「宗伝様! 見て! 蛇よ」
「ふむ、まだ子供の蛇だな」
その頃の浅葱がどのくらいのお転婆娘かと聞かれれば、宗伝は蛙や蛇を素手で捕まえて遊ぶくらいだと答えるだろう。他の子ども……特に女子のことは分からないが、少なくとも素手で蛇や蛙を捕まえることはしないだろうとは、宗伝でも容易く想像がついた。動かしていた筆を止めると浅葱から蛇を受け取る。その頃、宗伝は前まで書いていた話を書くのを止め、新しい物語を綴り始めていた。一人の娘の物語。
蛇はぐったりとしていて、浅葱に沢山弄ばれたことを宗伝は察した。外は日が強く照りつけ、浅葱は水遊びをしに裏へ消えた。
「……蛇って美味しいのかね」
じゅるりと涎を垂らしかけながら宗伝は蛇に言う。蛇は言葉が分かったのか、くるりと体を起こすと懸命に威嚇し始めた。
「太らせて食べた方が美味しいと思うぞ? 宗伝」




