after story5
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「無理なもんは無理かぁ……」
「さすがにお手上げね」
ふんわりと柔らかい畳の香りがするその部屋。外は晴れていて、風が気持ち良い。今日に限って、梅雨という言葉は姿を隠していた。時折湿った空気を風が運んでは来るものの、雨が降るには至らない。
この家で、彼女と苺サンドイッチを食べたことは記憶に新しい。手抜きの記憶処理を施したことも記憶に新しい。いっぱい飲んで、食べて、話して。──でももう、帰ってこない過去。
吉野蒼は、布団で気持ちよさそうに寝ている少女を見た。瞼を閉じ、楽しい夢でも見ているのか、気持ち良さそうに眠っている。風の悪戯で舞い上がった前髪を優しく押さえた時、どこかスッキリしたようなため息が聞こえてきた。白樹はどこか宙を見つめ、ローリエは唇を噛み締めながら言う。
ちりん、と鈴が悲しげに鳴いた。
「お手上げ、お手上げよ。情けないけどお手上げよ。紅には秒で治せないって言われたし、兄様方には眠り姫を優しく起こすなんて芸当が出来るはずないし。肝心な私は今役立たず」
思い浮かべているのは、目覚めたあの時のことだろう。あの時の瑠雨と白夜のやっちまったなぁと言う表情はなかなかに見物だった。眠っている少女の顔を覗き見ながら、白樹は目を逸らしながら言う。さらりとした銀髪は、今日もひとつに括られていた。
「いや、ローリエ。あれは事故よ、事故」
ごろりと行儀悪く転がり続けながら、ローリエは反論した。
「叩き起こされたのには変わりないわ。あれ以来、兄様両方静かになったのも事実じゃない」
「……確かに」
何とも言えない空気が場に広がった。元を辿れば、ローリエをうっかり叩き起こした原因は白樹である。蝶二人が止めなかったことが悪いとはいえ(そもそもそんな事は思いもしなかっただろう)、二人は白樹の身代わりになった様なものだろう。しかし、まぁそこは気付かないふりだ。怒られた本人達も何も言ってこないし。
蒼は立ち上がり、窓を閉めた。気のせいか。少々風が強くなってきた気がする。お空は相変わらず青に輝いてはいるものの、通り雨がひとつ来てもおかしくない空気の湿りように一気に変わった。
「で、お手上げってことはどうするの? まさかこのまま職業眠り姫にさせるわけに行かないよね」
蒼はちらりと横目でローリエを見遣りながら付け加えた。
「ローリエもそれ以上無理したらダメだよ」
恐らく瑠雨がこの場にいたら、言ったであろう言葉だ。
「だからお手上げって言ってるのよ」
ローリエは素直に認めた。否定しようがないし、何より自覚できる程度には体に無理が溜まっている。
いつもつやつやと輝いている髪の毛はどこか鈍く輝くのみで、真っ白なはずの肌はどこか灰を被っている。本来なら翡翠色に、強気に輝いている瞳もそうだ。完全に無くなっている訳では無いが、かなり光がない。
はぁっとローリエはため息をついた。リゼが眠ってから数日。付きっきりで手当り次第のことを行ったが、全て徒労。更にため息ばっかりついているから幸せ逃げまくりときた。ここに来て己の力不足、知恵不足が祟るとは思わなかった。嫌でも、お手上げ、降参、白旗をぶん回したくなる。
「で、どうするの? ローリエ。このままだと堪えが効かなくなった白夜達が文字通り飛んでくるわよ」
こちらは呑気にオレンジジュースを飲んでいる白樹は、いつの間にかに優雅にソファで足を組んでいた。どこかオッドアイで少女ことリゼを見ているが、何か特別に考えていると言った風ではない。白樹も白樹で疲れているのだ。三人は交代交代で結界をキープし、時間軸を狂わせながら眠り姫を起こそうとした。
王子様からのキスはない。起こす方法なんてわからない中で、永遠と思われる時間闘った。
──もう、限界だ。
蒼が比較的この中で余裕そうな表情をしているのは、単に慣れているから、耐性があるからである。
「仕方ないけれど外部に頼るしかないわね。最終手段として取っておきたかったのだけれど、このままだと……」
ふと、何かの気配を感じ、蒼と白樹は構えた。いつの間にかに青空は灰色に染められていた。丁寧に扉が開き、カツッ カツッというヒール音が辺りに突如響いた。皮肉なことに逆光でその姿は見えない。敵か味方か……そんなことを考える二人の脇で、ただローリエは立ち上がり、頭を垂れた。
長い黒髪が横顔を隠す。
「衰弱死、か? ここでは一番馬鹿らしい死に方だな。馬鹿者めが。もうちっと早く決断すれば飛んできてやったものを」
凛とした声はローリエのセリフを引き継ぎ、淡々とした声のままローリエを叱った。ローリエは何も何も言い返せず、目を逸らすだけ。その様子を見た白樹と蒼は少々驚愕しながら、構えを解いた。──少なくとも敵では無さそうだ。
ローリエを叱った少女はつまらなさそうに二人を見たあと、虚空を手で裂いた。ぱっと風景が、場所が変わる。
暖かい風が通り抜ける家の中にいた蒼達は、自分らがコンクリートに囲まれた路地裏にいることに気がつくのに暫し時間を要した。ゾッとする程の冷たい、湿った風が肌を掠っていく。突然のことに疑問符だらけの蒼達のことなんてお構い無しの少女は、一人ヒール音を響かせ、歩き始めた。
「ほら、何をぼうっとしておる。眠り姫をとっとと叩き起こしたいのだろう? 翡翠と蝶使いよ。とっとと移動するぞ」
状況が飲み込めない蒼と白樹の代わりに、ローリエは辛うじて聞いた。
「け、賢者様……どうしてここに」
「白鼠が教えてくれての」
瓦礫の隅を白い鼠が駆けた。
◆■◆
「それで、脱出方法とかは思い浮かんだのかしら?」
『リゼ』は少し悪戯そうな顔をすると、巨大キノコの足元で微動だにしないリゼを見た。怪しく光る紫のキノコは程よい大きさだった。
『リゼ』は反応を返さないリゼをつまらなく思った。暇で、暇でたまらない。ようやく暇つぶしになりそうな子が降って来たと思ったら、面白かったのは最初だけ。
最初は泣いて、泣いて、泣いて、ずっと泣いていた。それこそ涙の泉が出来たくらいに。そしてからかってやれば、直ぐに強気な言葉が返って来た。でも、今は違う。隅っこで小さくなって、動かない。
まるで死に絶えかけている虫みたいな。
つまらない。
『リゼ』は近くに咲いていた緑色の花を握り締めた。シャラン、と綺麗な音を立て、それは砕ける。パッと宙に拡がったその欠片を、慣れた手つきで回収する。ふとした時から始めたおかげで、お手製の革袋の半分まで欠片は溜まった。一回で得られる量は小指に乗る程度。
今までの成果を眺めていたら、リゼが小さく話しかけてきた。いや、呟いただけなのか。いや、そんなことはどっちでもいい。空気が動いたことには変わりないのだから。『リゼ』は白髪を翻しながら、リゼの元へと駆けた。そしてその隣に、座った。きのこの傘の下に二人の少女。
ぽつりとリゼは紡ぎ始めた。
「不思議の国のアリスはウサギを追って穴の中に落ちたわ。人魚姫は王子様を追って地上に。ラップンツェルは外の世界を知りたくて塔を抜け出した」
「ヘンゼルとグレーテルはお菓子の家を追って、ね。それがどうしたっていうのよ」
リゼは久しぶりに顔を上げた。疲れきった紫の瞳は、ただ虚空を見つめる。真っ白な頬には涙の跡があった。冷たい空気が肺を出入りするのを心地よく思いながら、頭の中に浮かんだ言ノ葉を声に出す。
「私が知っているお話の子たちはみんな、何かを追い求めて知らない世界に飛び込んだ」
「……そうね」
「でも私は違うわ。何も追い求めていないのに、知らない世界にぶっこまれた。すっごく理不尽」
「えぇ」
髪をクルクルと弄びながら、ただ相槌を打つ『リゼ』。それを心地よく思いながら、リゼはぽつりと聞いた。
「あなたは?」
「えぇ、え?」
『リゼ』は少し拍子突かれた声を出すと、間を置いて答えた。
「……記憶処理に、あなたに『私』の人格を殺されて、誰にも見つけてもらえずに魂状態で彷徨って。気が付いたらここにいて、そして目が覚めたわ。まぁ、夢を見てるような感じね。長い夢を見てる感じ」
事もなげに語る自分を見て、リゼは満足げに笑った。リゼの黒髪がさらりと揺れる。
──求めていた答えが、今。
目を瞑りながら、リゼは隣にいる自分に寄りかかり、聞いた。同じなのに、全く似ていない過去の己。姉妹とか、親戚感とか、そういう感情を一瞬抱いたのは決して嘘ではない。
「ねぇ、私。かぐや姫の物語に蜘蛛の糸を垂らす魔法の言葉知ってる?」
リゼの脳内、どこか遠くで雨の音がした。それに交じって聞こえるのは、静かに読み聞かせをする声。遠くない、ロゼと一緒に聞いたかぐや姫の物語。
「…………」
『リゼ』は静かに首を振った。
「兄様も、アリス嬢も死んだ。それはあなたに散々教えられたから、見せられたから、否定しようがないわ。でもね、でもね、『また会いましょう』って言ってないの! 言えてないの!」
リゼは思わず立ち上がり、大きな声で叫んだ。性懲りなく、また頬を涙が伝い始める。紫の瞳はまた、涙に滲んだ。
────『でもさ、リゼ。かぐや姫が衣着せられて何もかも忘れる前、こう言っていたら別じゃない? “また会いましょう”って言っていたら、きっと。この物語は素敵なお話になるよ。…………残酷な物語に蜘蛛の糸が垂らされる』────
電撃のように脳を駆け抜けたその言ノ葉達は、いつか時雨がリゼに教えてくれたもの。残酷な物語すぎる、とショックを受けたリゼを膝に乗せて言ってくれた台詞。
慌てて紡いだ言葉かもしれない。だけど、ずっとリゼの胸に残っていた。
単なる希望論かもしれない。でも、ifストーリーを考えることが出来る魔法の言葉。
“また会いましょう”
「現実に、戻りたい。兄様とアリス嬢に言いたい、の……」
久しぶりに立ち上がって、叫んで疲れたのか、へなへなと膝から崩れ落ちる。
「死者は蘇らないわ。戻っても言うすべはない」
そんなリゼを『リゼ』は躊躇い無くばっさり切り捨てた。
何か言うかと思ったら。そんな夢空言。
だが、リゼはきっと力を込めて顔を上げた。
呆れられたという事は知っていると言わんばかりに。それでも、聞けと言葉を紡ぐ。
「『殺されて、誰にも見つけてもらえずに魂状態でさまよって』」
先ほどの台詞を反復された『リゼ』は思わず瞠目した。そしてリゼが何に希望を寄せているのかを、何を企んでいるのかを悟った。悟るまでに時間なんか要らない。
「もし、アリス嬢と兄様の魂を捕まえる……保護することが出来れば、きっと、きっと、」
「ありえない! そんな戯言……魂を保護できる人なんているはずない!」
『リゼ』は反射的に否定した。
死んでも魂は直ぐには消えない。それは『リゼ』という存在が証明している。なら、誰かに保護してもらって別な器に入れてもらえれば────。
私もまだ、生きることができるかもしれない。
気がついた時、希望で胸が詰まった。でも、諦めた。魂を保護出来る人なんて、『リゼ』は知らない。
「私、そんなありえないこと、行っちゃえる人に心当たりがあるの」
────『私はね、未来あなたに従う者よ』────
その少女が、緑色の瞳の少女が、ここに来てからずっとリゼの頭を離れなかった。誰だろう、と考えていた。記憶の姿に手を伸ばしても掻き消えるばかりのその少女。
でも、助けてくれるという確信がなぜかある。どんなことでも手伝ってくれる、助けてくれるとかいう都合の良い確信が強くある。
だって一度、助けられた。
自分達の代わりに、血塗れになっていた。
自分の身を盾にして、自分達を護ってくれた。
他にも、記憶が途切れるまで庇ってくれた。隠してくれた。
だから──
あの人なら信じてもいい。そうでしょう?
「都合良すぎな、甘々な考えね。嫌い、では無いけど。で? ここからの脱出方法は思い浮かんだのかしら? 分かったのかしら? あなたの、その脳みそは答えを叩き出せた?」
『リゼ』は口角を上げながら、もう一度聞いた。例え未来、その夢戯言が叶うとしても、"今"を見なくては意味がない。そう込めた冷たい視線を送る。でも、そんな質問や視線は無意味なことくらい『リゼ』も察していた。
その紫の瞳をリゼは見返した。
恐ろしい程に澄んだ翡翠色の双眸で。
そしてなぜか悲しそうに泣きながら、聞き返した。
「ねえ、『私』。脱出方法は思い浮かんだのかしら? あなたのその脳みそは答えを叩き出せた?」
『リゼ』は自分が求めていた台詞が、発せられたのを確かに聞いた。ようやく、ようやく、ようやく、だ。
「えぇ、あなたの脳みそとは出来が違うの。教えてあげるわ」
リゼの手をそっと掴み、引き寄せ、自分の胸元に当てた。久しぶりに触れるその温もりに一瞬驚いたが、それを隠すように笑顔を見せると、『リゼ』は答えを教えた。
「私をね、殺せばいいの。首を跳ね飛ばすの。魔法で私を殺すの!」
「────っ!」
「私はね、ここから出たって出なくたって死んでる事には変わりないのよ。だったら、」
私を殺して、私の分まで生きなさいよ。
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「こやつをあそこの部屋から脱出させるには、方法はただ一つ。御伽で殺し合いをさせるしかない」
藍色の髪をした賢者様と翡翠が呼ぶ少女は、蒼を指さした。
「前に、あそこでお主が自分の分身──〈譲葉〉を殺した時のようにの」
チリン、と力強い鈴の音があたりに響いた。




