悪夢 1
守りたいものがあって
「………………は?」
確かに、当たったはずだ。槻が完璧な仕草で投げた投擲ナイフは、確かに千里アリスの脊髄を破壊したはずだ。
高所からのサポートをしていた氷は思わず声を上げた。ありえない、おかしい、どうして。たった今、確かに槻と氷の眼前で、一人の女性が姿を消した。霧のように幽霊のように、その存在を否定するかのように。目標を失ったナイフは悲しく宙を彷徨った後、コンクリートの壁にぶつかった。
「どういう、こと」
槻は小さく呟いた。そして次の瞬間、屋根の上から飛び降り、その勘でそれを避けた。飛び降りるとは言っても、路地裏に足をつけるのではない。目下の別な屋根へと移動するだけ。氷との距離をある程度保ちつつ、槻は飛来してくるそれから軽やかに、それでいて必死な足取りで逃げる。
幾つかの屋根を、物置の上を跳んだとき、とっぷりとした何かに突っ込んだ気がした。でも無視。
カンッコンッとトタン屋根に何か石のようなものが当たる音。軽やかな仕草で槻は素直に逃げながら、それが止むのを待つ。足跡を振り返りはしない。いや、する余裕はなかった。その音は確実に一瞬前まで槻がいた場所を追随している。
「あーあ、簡単に当たると思ったんですけどねぇ。腕が落ちましたね」
その声と同時に音が途絶えた。コンクリートの壁に身を預けながら、槻はくるりと振り向いた。
────いた!
白布をつけた何かがいる。人の姿をしたそれは男の声を発していた。それとは別にちらりと槻が音の正体を見やると、それは白い何か。骨だった。多分、人の骨。視線を男に戻し、ほぼ感覚とも言える思考で槻は答えを導き出した。
「──噂になってた暁闇?」
「巷ではそう呼ばれていましたね。最近では情報統制が進んで食卓にすら上がらなくなってますけど」
男はにっこりと槻に笑いかけた。ゾッとするような、冷笑。冥土の土産や墓には持っていきたくないと思わせる、笑顔。
槻は体制を整え直すと、躊躇うことなくナイフに手をかけた。
抜かない。手を掛けるだけ。
次の瞬間、どこか遠くでたーんと聞き慣れた音が響いた。氷だ。氷が千里アリスを捉え、殺したのだろう。見なくても分かる。
──あぁ、そういうことか。
ローリエに槻が鍛えられまくった本当の理由。
同族殺しにしてはやけに緻密に作られた舞台。
白樹と白夜が異常に心配していた理由。
全ては今、目の前にいる存在を闇に葬り去るため。隠密に消し去る為。千里アリスはただのカモフラージュ。実はもう一つ、理由があるのだが槻にはまだ知る由もない。
────これらは全て、ローリエが仕組んだもの。
『情ハ無用 今回ノ仕事ハ槻指名 他ノ二人ハサポート』
春先のしそこなった任務内容。情は無用。暁闇に対する情は無用!
槻はするりと腰から一本抜き取ると、爛々とした目で獲物を捉えた。暁闇を殺したら雪斗が喜ぶかな、とか時雨が褒めてくれるかな、とか思いながら。
楽しそう、と笑った槻は突如目を見開き、街に繋がる細い道を見た。そこから笑い声が聞こえてくる。聞き覚えのある声がどこか遠くから近づいてくる。
唸るように槻は呟いた。
「何でリゼとロゼがここにいるの……!?」
千里アリスがいるなら、この辺に居ても可笑しくは無いだろう。でも、それでもありえない。
「うちの女主人が会いたがっていましてね。お菓子を撒いて、こちらに呼び寄せました。────貴方達みたいに」
「くそやろう! 氷!」
無線機に叫んでも返事がない。連絡がつかない。初めて槻の背中に冷汗が流れた。
リゼとロゼの声が、話し声が、少しずつ、段々と近づいてくる。来ないで、という槻の気持ちは伝わるはずが無い。槻一人の身だったら、何も恐れずに闘うことが出来る。でも、そこに子供──しかも二人──がいるとなると話は別だ。守りながら、怪我をさせないように闘わなくてはいけない。そもそもの前提として、槻は誰かを守りながら戦ったことがない。そもそもそんなことは想定されていない。そんなのは護衛関連の組織に丸投げだ。
控えめに言って槻は詰んだ。氷と連絡がつかないのも辛い。
白布の下で男がカラカラと笑う。
「先にあちらに行ってもいいですよ。ただし私もあちらに加勢しますが」
「行かない。あなたは私が……僕が今、殺す」
迷いを断ち切る様に仮面をつけた槻はぎゅっとナイフを握りしめ、次の瞬間力を抜いた。ゆらり、と立つ。
────今やること。アイツの首を掻っ切る。心臓をズッタズタにする。それだけ。
とんっと屋根から飛び下りた。
体勢を整え、キッと敵を睨む。息を吸い、距離を詰めると手鳴らしに蹴りを放った。避けられ、槻に向かって次の瞬間降ってくるのは、細く、長い針。千枚通しとか、目打ちみたいな。
手の甲を使い、それをあしらう。黒いグローブに切り傷がついた。
カウンターでナイフを白布に切り刻むと、槻はくるりと倒れ込み、次を避けた。
────あっぶない!
力量で言えば、圧倒的に槻の方が上だ。でもほぼ互角。槻が押しているとはいえ、互角。
────理由は簡単だ。リゼとロゼが近付いているから。
槻の良すぎる耳が不幸して、戦闘中だというのにリゼとロゼの声を拾ってしまう。集中力が掻き乱されている。
それでも、何とか応戦。
ナイフを握る槻の手が力み、段々と血が滲んできた。
頬と腕には擦過傷。
息が荒くなり、蹴りを飛ばしていた足が上がらなくなってきた。
針を握る男の手は槻にやられてズタズタだ。
時折とんでくる槻の体術で、体中打撲痕。
顔を守るかのようだった白布は、もうすぐでただの布切れと化す。
順手で握られている槻のナイフは、主人の言う通りに敵を切り刻む。しとしとと雨が降ってきた。黄昏空に雨が降る。小さな二人の影が、ついに槻の前に姿を現した。リゼとロゼの眼が槻を捕らえたかと思うと真ん丸に開かれた。
「「槻姉様?!」」
「お願い! 逃げて!」
槻の悲痛な声は届いたのか分からない。
でも確かにリゼとロゼは後退した。
だが、
「逃がしません」
男がシュッと手を振った。
建物が崩れ、リゼとロゼが来た道を潰す。
「────っ!」
その手を槻はガッツリ切り刻んだ。骨を切り刻むには力が足りない。紅く、とろりとした血が沢山溢れ出る。赤いフードに飛び散った血が槻の頬も汚した。
────守るしか、ないんだ!
槻が次を決めようとした瞬間、男が小さく何かを呟いた。ゾッと何か恐ろしいものを感じ取り、槻は大きく距離をとった。屋根の上で、ふわりと何か浮遊していた。それは槻に向かって投げられた、骨。それは槻では無く、離れた場所にいるリゼとロゼに真っ直ぐ向かう。男の口が三日月にゆがんだことを槻は確かに感じた。
「殺すつもりはないから大丈夫です。あくまで捕らえる、だけ」
「──────っ! ダメ!」
走ろうとした。守るために。守り方なんて分からない。息は荒いし、体も重い。でも槻の身についた本能、訓練、性はそんな事は知らないという。槻の意志とは関係なく、敵を殺すために次を繰り出す。
守りたいのに、守れない。
息を吸って吐く前に、血飛沫が舞った。
「────くぅっ、」
槻の代わりに身を呈したのは、双子の代わりに地に、血に塗れたのは、翡翠色の少女だった。
血塗れの、少女。
リゼとロゼは驚いたように、固まっている。──無事。
その二点を確認した槻はぐっと歯を噛み締め、また距離を詰めた。勢いのまま半身を過ぎり、男の脇腹にナイフを突き刺す。
──よくも、仲間を傷つけたな! 許さない 殺す 絶対に!
ぐちゃぐちゃな感情のまま体勢を立て直し、もう一回、距離を詰めた。変な方向に曲げられた足首が嫌な音を立てる。痛みで、反応が遅れた。首元目掛けて降ってくる針を腕で払う。つうっと血が流れるのを感じながら、腹部に強烈な膝蹴りを放った。
敵が倒れていくのをゆっくり感じながら、槻は腰から二本目を抜き取った。荒い息を整えながら息を吸った瞬間、槻は足裏で敵を叩き倒した。ゴンっという鈍い音が響く。点々とした血が、転々と飛び散った。
槻はその上に飛び乗ると、動けないように頭を抑えた。白布は辛うじて男の素顔をまだ隠している。
槻はナイフを宙で握り直した。
吐息とともに吐き捨てる。
「死んで」
そのまま敵の首筋に、横にナイフを突き刺した。返しが肌に引っかかるまで深部と突き刺す。ゴリっとした音は、刃が骨に当たった音なのだろうか。吹き出すように溢れ出る血はトロリとしていて、生暖かい。
顔に、手に、服に沢山の血が付こうとも、今は無視だ。
やがて槻はふらりと立ち上がった。辺りに血溜まりが出来ている。雨が小さくつくった水たまりは、赤に侵食されていた。
──赤いポンチョから朱殷がいくつも滴った。
あっけなく絶命。白布はどっぷりとした黒に塗れ、顔にべったりついていた。
肩で呼吸をしながら、絶命を確認した槻は痛む全身に発破をかけ、リゼとロゼのところへ駆けた。そんなに遠く離れているわけではないはずなのに、酷く遠く感じる。
赤いポンチョを翻し、焦点の合わない槻の双眸はようやく少女を捕らえた。
「ローリエ、さん!」
真っ白なシャツははだけ、そこから見える白い肌は全て彼女の絵の具で染められていた。さっきの骨は爆弾、だったのだろうか。腕、わき腹、足、他数か所の肉がえぐられている。辺りの壁を見れば、彼女のものであろう破片がこびり付いていた。真っ黒。
生きて、呼吸をして、笑っているのが不思議な状況。
翡翠はそんな状態でも落ち着いていた。何をすればいいのか分からず、混乱してただ泣いているリゼとロゼのことを慰めている。翡翠の血は止まることを知らない。辛うじて、自分で止血を行った跡はあれども焼け石に水だろう。恐らくと言わずもがな。
黄昏空に振っていた雨は、ただの通り雨だったらしい。ただ地を濡らし、いつの間にかに去っていた。ジメジメとした空気を残して。
真っ青な顔で隣に座った槻を見ると、翡翠はそっと微笑んだ。良かった、と小さくその口が動いたのを槻は知らない。
「お疲れさま、槻」
翡翠は槻の頬に手を這わせようとして、諦めた。自分の血で槻の事を汚すなんて、したくない。それに槻の頬も傷だらけで、触ってしまったら痛いだろう。思わず翡翠は厳しい顔をした。
でも槻が負っている傷は殆どが擦過傷で、致命的な怪我は無いと気がつくとほっと力を抜いた。──さすがだ。
「待ってください! 今誰か呼びますから!」
槻は翡翠の心臓がとくとくと言う度、溢れ出る血を何とかしようと、必死だった。
止まらない止まらない止まらない──お願い。止まって!
震える手で何とかしようとする槻に翡翠は思わず瞠目した。成長したなぁ、と思いつつ声を掛ける。
──今行っていることは全て無駄だと伝えるために。
「大丈夫だから。早くここからリゼとロゼを連れ出しなさい。氷の援護を」
嫌だ、と目で槻は訴える。そもそも治療が必要なのは槻の方だ。そんなに擦過傷を負って。血の香りを漂わせて。鮫が集ってくるではないか。
「躊躇いは、死よ」
それでも唇を噛み続けたままの槻に痺れを覚えたのか、翡翠は弱々しく、けど確かに指を鳴らした。パチリ、と見えない波が立った。槻は足元を冷たい何かが張っていく気配を、辛うじて感じ取る。
槻がぶるりと身を震わせると、タイミングを計ったようにすぐ近くで足音がした。足音は何かに気がついた様に、こちらに向かって来た。
ローリエははっきりと言った。
「行きなさい」
槻は嘆く体に鞭打って、ローリエの元を離れた。
ローリエの霞んだ目は、槻が居なくなるのをずっと捉えていた。
────死なないで。
ゴボリ、ともう残り少なくなった血を吐き出した。
「翡翠!」
直ぐに白夜が視界に姿を現した。遅れて白樹が姿を見せる。
「白夜! 張りなさい!」
「分かってる!」
白夜はパンっと手を合わせた。そこを中心として小さく波が広がる。波は翡翠だけを薄く飲み込み、止まった。──結界だ。
翡翠の余りに酷すぎるその姿を見て、二人はぎゅっと目を瞑る。意識を失いそうになりながらも、翡翠は言葉を滑らかにつなぐ。
「暁闇にやられたのよ……でも槻が留めを刺した、はず」
「あの血筋の奴ら、刺しただけで死ぬ筈ないよ」
白夜は吐き捨て、言い切った。
こくり、と弱々しくローリエは頷いた。
──絶対生きてて、最初に槻を殺しに向かう。
「槻をお願い。氷の所に向かわせたわ。あとこの子達を」
言われて二人はようやく気が付いた。翡翠に隠されるようにして、二人の子供が眠っている。悲惨な状況を眼にした事による、自己防衛の意味での気絶。
「お願い。私は大丈夫」
それが最後だった。翡翠はまた小さく血を吐くと、ぷつりと意識を失った。
光が舞った。そこに白樹が手を差し伸ばせば、羽がボロボロになった蝶が落ちてきた。いつもは澄んだ緑色でステンドグラスのように透き通っている羽は、千切れていた。
羽を失った蝶。どこにも飛んで行けず、ただ下に落ちるのみ。
「白夜、」
どうしようと白樹が視線を送れば、白夜は静かに怒っていた。
「大丈夫。〈蝶〉は死ねないから。ただ、翡翠、あんなに傷負って……めちゃくちゃ痛かったと思う。────許さない」
静かに眠る二人は暫く目を覚まさないだろう。
白夜は目を閉じると、凛とした声で聞いた。
「千里アリスは」
「奪われないように蒼が寝かせたわ。殺しは後ほどね」
翡翠のことを取り込みながら、白樹は言った。暫く翡翠は目を覚ますことは無いだろう。昏睡状態に陥ったのだ。あれだけの傷を負ったのだ。これで済んだのはまだ……まし。
「そっか、最悪彼女には翡翠のための贄になってもらうかもしれない」
笑顔で白夜は言った。その笑顔の裏側に白樹はゾッと恐ろしいものを感じ取った。
「良いでしょ? 白樹。どうせ殺すんだし、それが〈譲葉〉の役目でしょ?」
仲間を守る為なら、復讐する為なら何だってする。
口元は何か嘲笑っていようとも、白夜の目はそう語っていた。
恐ろしさを感じはしたが、白樹は白夜の言葉に異論はない。翡翠のためなら。それで確実に翡翠が回復するなら、贄の一つくらい安いものだ。
「さ、槻と氷のところへ行こう。手遅れになったら困るから」




