暁闇 2
付属のストローでジュースを飲み干す。飲んでいるジュースはオレンジジュース。良く自販機で売っている果肉入りのやつ。
「あ、空になっちゃった。残念」
ちっとも残念と思っていない声色で、少女は少し離れたゴミ箱に落とし、捨てた。暫くして、とすっという軽い音が辺りに響く。少女──槻が座っているのは、そこら辺にあるような三階建ての建物の屋上。茶色の髪をクルクルと指で弄びながら、槻は足を無防備に宙にぶらつかせる。風は彼女を屋上から叩き落とそうと必死に吹いているが、槻にとってはそんな風、問題ですら無かった。
今日は満月の数日前。少し欠けたお月様が煌々と夜を照らしていた。槻は胸元で、服の上で揺れるネックレスを月灯に透かす。ぼんやりとした緑色に光るそれは、太陽の下だとただ光を鈍く反射するだけ。槻が満足気に笑って服の下に戻した時、また、冷たい風がびゅうっと吹いた。
星はチカチカと輝き、何かを競い合っている。
そんな光景を少し眺めながら、槻は取り出した一口チョコレートの身を剥いだ。無造作に中身を放り込むとそっと目を閉じる。寒い中、屋上で長時間いるのはだいぶ体力を使う。薄目を開けてちらりとデジタル式の腕時計を見た。
大分夜も深まり、予定時刻まで残すところ、あと少しとなっていた。目を閉じて、耳を済ましても何も出てくる気配はしない。時折、遠くで車や人混みの音が微かに届くくらいだ。
槻はチョコを食べるのを止め、冷たいコンクリートに手を置きながら、眼下を見た。
──うーー寒い!
強い風ならどうでもいいが、少し冷たい風にはさすがに身を震わせる。冷たいジュースじゃなくて温かいジュースを持ってくればよかったと思いつつ、そのまま斥候にすらならない斥候を行う。槻の視界の端を一匹の鼠が走った。
やがて、時は訪れる。人影が現れたのだ。しんとした夜に響く足音は槻の耳をごまかせない。大きな欠伸をしながら、槻は眼下の人影に目をぱちくりとさせた。そして意味が分からないというように首を捻る。
──おかしいな。
普通の人にもある感覚。一般人と"そういう奴ら"の雰囲気の違い。人影はどっちにも当てはまらなくて、強いて言わなくても
「暁闇じゃない」
小さく呟くと槻は独断でそこから飛び降りた。時雨と雪斗はその様子を遠くから眺めていたが、槻の判断を止めなかった。彼女の独壇場だから。
屋上から飛び降りたその身に、かかる負荷はとてつもない。だから槻は地面に触れる寸前、負荷を分散するように手をついた。手は指ぬき手袋で守られているから、怪我の心配はない。してもかすり傷程度だ。一歩遅れて衝撃がやって来る。更に遅れて、ネックレスがとんと槻の胸を打つ。
槻がばっと顔を上げれば、人影二つが迫っていた。誰だろう、と夜目を効かせて顔を見れば、時雨にピックアップされてた奴とは明らかに別人。人影のひとつは特大サービスで拳銃を向けてきた。それを見た槻は何だか楽しくて、おかしくて、面白くて思わず笑った。
──まぁ、そうだよね。普通はいきなり人が降ってきたら警戒するよね。
槻が何事も無かったかのように立ち上がると、人影──男女二人と向かい合う体制となる。特に怯えることは無い。何か予想外の展開があっても槻一人で対処出来る自信があるし、逃げ切れる自身もある。
槻が一歩踏み出すと、相手は驚いたのかビクリと体を震わせた。
──ほら、私が怖がる相手じゃない。
槻は人懐っこく笑いながら更に一歩踏み出して聞いた。
「どちら様?」
「それは私達のセリフ」
直ぐに応答したのは女の方。
槻は未熟な事に聞いてから気がついた。もしかして、この人達がここにいるのは本当に偶然で、目的の暁闇はまた遅れてやってくるのではないかと。
エスパーの様に槻の心を読んだ男はいまだに銃をおろさない。ガッチリとした身体は筋肉の鎧で覆われているのだろう。肉弾戦が得意ではない槻は、もしそうなったら逃げなくちゃと少し身構える。更に腰に手を伸ばし、絶対的な信頼を置いている相棒に手を触れた。
「それなら別な場所で捕えました。貴方は誰ですか? 明らかに一般人では無さそうですし。もしかして────」
雪斗対策に常に耳にフィルターがかかっている槻は、男のお説教じみた言葉の冒頭しか聞いてなかった。
"それなら別な場所で捕まえました"
「捕まえた?」
栗色の瞳をぱちくりとさせて槻は聞く。
「ええ。彼等は今回の事件で重要な参考人でしたので」
「ふーん」
興味がなさそうに槻は返事をした。今回の事件って何だろう。 重要な参考人って、何?
考えながら、槻はちらりと視線だけを拳銃に向けた。僅かにだが、拳銃の狙いがだんだんと槻から外れていく。だが、まだ圏内。またひとつ、強い風が吹いた。
男は槻と同じように一歩踏み出した。
「それでは、貴方も関係者という事で同行願います」
槻は気づかれないように少しずつ動き、圏内から逃げる。
やがて、その時はきた。
足で地面を蹴り、更に横にずれる。その場を一瞬で離れる、密集している建物の中に身を踊らせた。計画に支障が出たなら直ぐに引く。残念な気持ちの反面、何もする事が無くて、手を下す事がなくて良かったと喜ぶ自分がいることに槻は驚いた。
追われていないのを確認すると、槻はそのまま雪斗と時雨の場所へ、灰色のコンクリートを駆け抜けた。
残された二人は特別ガッカリする事無く、意味無く数秒前まで槻がいた場所を眺めた。男は銃を下ろし、女と何か目配せする。不意にその後ろの方──狭い路地の一つから反響する足音が聞こえた。二人が振り返ると同時に声が掛けられる。
「──やっぱりあそこの犬じゃないの。来なきゃよかったわね」
溜息混じりの声。
緑色の目を鋭く光らせながら声の主──千里は言った。千里に一歩遅れて歩くようにして、双子は歩を進める。
その姿に、犬と呼ばれた二人は目を細めた。さっきの少年少女は〈黄昏〉関係者だとは疑っていたが、彼女の登場で確信を持った。
「〈黄昏〉トップの登場か」
「クレア・リグラットにクリス・リグラット。口つぐんでないでとっとと本性表しなさいよ、クレア」
千里は腰に手をやり、二人を見据えた。双子は紫の目を黒く光らせながら事の成り行きを見守るらしい。千里の一歩後ろで控えている。
「何で知ってるのよ。この女」
吐き捨てるように女は言った。クレアと呼ばれた女は掻き毟るように髪に手を置いた後、付けていた黒髪のウィッグを外した。途端に現れた金髪はふわりと風になびく。千里は眉を少し顰めた。ちまたで有名な二人だ。まさかここで会うとは思わなかったが。
「口がなってないわよ。お希望なら貴方の個人データをここでペラペラ喋ったげる。〈黄昏〉を舐めないで」
千里は負けじと吐き捨てた。暫く女同士の水面下の睨み合いが続く。双子はその紫の目で、クリスと呼ばれた男は黒い目でそれぞれバチバチと飛び散る火花を確かに見た。
やがて、先に千里は口を開いた。
「──記憶処理と身柄の引渡しどっちにして欲しい?」
「記憶処理? どういう意味よ。それになぜあなた達が彼を欲しがる」
「どこでペラペラ喋るか分からないし口も悪い凶暴な犬に話すはずないじゃない。ただうちにとっては重要な被検体、参考人ってだけよ」
クレアは脳内の血管がブチッと千切れる感覚を知った。頭に血が上る感覚も。そしてクレアは理性が吹っ飛ぶのに任せて行動を開始した。良く考えると黒髪の名前も聞いていない。彼女は自分達のデータを知っている。けれど自分達は彼女のデータを何一つ──〈黄昏〉所属という事を除いて何一つ知らない。
そんなやるせない怒りも加わって、気づけば安全装置を外し、引き金に手をかけていた。理性が吹っ飛ぶのに任せた結果だ。後から後悔するかもしれないが、そんなこと今はどうでも良い。
それでもクレアが引き金を引かなかったのは、思考能力が残っていたからだろう。
「止めた方が良いと思うわよ、長生きしたいなら」