禍夢 2
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「…………何で人一人殺すのにこんなに大掛かりになってるんだろう」
最近の新武器である投擲用のナイフをくるくるりと、器用に弄びながら槻はボヤいた。湿った丸太に腰掛け、のんびりと欠伸をしている氷に向かって一本、投げる。
無論氷は余裕を持って避けたが、ムカついたようにも槻はまた適当に投げた。とすっという軽い音が響いた。樹に深々と突き刺さったそれを見、氷は背中を凍らせた。
──適当に投げて、樹にあれだけ突き刺さるってことは。
槻の才能なのか、はたまたナイフの性能なのか。
氷はナイフから逃げるために登った木の枝に座り、槻を見下ろした。ひと口チョコレートを食べると、槻が物欲しそうに見てきた。
「危ないだろ。バカ」
そう言いながら二つ、投げ渡す。
「どうせ避けるんだからいいじゃん。氷、その程度避けれるでしょ」
信頼してるのか、馬鹿にしているのか。曖昧な台詞を氷に投げつけ、槻は憂鬱そうに足元のキノコを剥いだ。パシッと音を立てて受け取ったチョコレートを口に放り込む。
梅雨と言う季節。珍しく今日は雨が降っていない。その為近くの森に出て、野外での自主練習に槻は励んでいた。ちなみに氷は、暇なら来いと槻に巻き添えを食らった身である。
「避けれなったらどうすんだよ。死ぬだろ」
「殺し殺される運命なんだから、どうって事ないでしょ」
吐き捨てるように槻は言った。赤いポンチョのフードを目下まで引き下げ、下を向いた。逆さまになって遊びなから、氷は槻のことをちらっと見やった。
──様子がおかしい。
「どうしたんだよ、槻。らしくない」
氷は槻の横に降りた。枝が揺れ、雫が落ちる。氷の耳元で、緑石のピアスが揺れた。脇に氷が腰掛けると、槻は無意識に身を預けてきた。触れた背がほんのり温かくなる。
「…………何か殺る気が出ないんだ」
ボソリと呟いた時に垣間見えたその横顔。納得いかない、とか分からない、といった表情を表していた。苦悶。
「……って言ったって、明日だぜ? そうも言ってられないだろ」
「ん、あぁごめん。言い方間違えた」
「何をどう?」
訝しげな顔をしながら、氷は槻を見た。槻はナイフをくるくるりと弄びながら、氷にチョコを強請った。仕方ないと言わんばかりに氷が残り少なくなったチョコを渡せば、槻はそれを頬張る。
頬張り終え、槻は氷をちらりと見た。氷はじっとりとした目付きを返した。
奥に緑が見え隠れする双眸と、青が薄く見え隠れする双眸がお互いを睨みつける。
──チョコもっと寄越せ。
──とっとと言え。それからだ。
先に折れたのは槻だった。悔しいと言わんばかりに氷の脇腹を思いっきり肘で殴った。無論その程度では氷はビクともしない……が、滑って丸太から滑り落ちかけた。
「お前な……!」
抗議の声を上げ、氷が槻を見れば凶悪楽しそうな顔がそこにあった。しかしその表情は次の瞬間の鋭い目付きによって上書きされる。
「嫌な夢見たの」
「と、言うと?」
「いっぱい血が流れるっていう、夢」
ぶるり、と槻は背を震わせた。
「そんな子供じみた……」
言葉を続けようとした氷だが、ふと言葉を止めた。
──あの槻が、沢山血が流れることを嫌がっている?
どういう事だろうか。
「強く、ならなきゃ」
ぽつり、と呟いた槻の言葉は氷の耳をすり抜ける。言葉を失った氷は、ただ強く腕を握ってくる槻に何も言えなかった。
──槻の夢の中で、誰が死んだんだ?
「今日は寝たくない」
駄々っ子のように言う。悪い夢を見たから寝たくない。そんな本当に子供な理論。さぁ、どうしようかと氷が思った時、
「寝なきゃ成長しないよ。我儘言わないの」
わざとか、わざとでは無いのか。二人の真後ろから声がした。
のんびりと欠伸混じりに言うその声主は、白夜。おおかた明日についての最終打ち合わせをする為、探しに来たとかそんな所だろう。氷が顔を上げ、太陽を見れば大分傾いていた。どうやらお昼ご飯をすっぽ抜かしていたらしい。
「そうですよ。寝ないと白夜みたいに身長止まりますよ」
「「?!」」
不意打ちで来たのは別な声。氷は驚きこそはすれども、槻の様に驚いて滑って腰を打ったりはしなかった。ワクワク顔の叶から今朝、聞いていた為である。隣の諜報組織にいる一人の少女から少しの間逃げる為、しばらくここに居るという客人の話を。
いや、それよりも。
──足音に全く気が付かなかった……。
それは槻も同様のようだった。氷がちらりと見れば、目を丸くして固まっている。いや、固まっているのではない。槻は目の前に現れた人物が誰なのか、どうして足音に気が付かなかったのか、などの精神的な混乱から静かに意識を失いかけているのだ。
槻は初めて完璧な"不意打ち"を食らっていた。
そんなことは露知らず。白夜はくるりと後ろを振り向くと、客人に文句を言った。
「何、瑠雨。喧嘩売ってるわけ? 僕まだ成長期だから。そこんとこ宜しくね」
彼こと瑠雨は猫目を細くしながら、薄く笑った。
「はっ白夜が成長期なんて笑えますね。白樹に身長負けてる時点で終わってます」
嘲笑。
「酷いよ瑠雨。二、三日前翡翠に夜通し怒られてたくせに。めちゃくちゃ怒られてたね」
白夜も負けない。
「白夜のことで怒られてたんですよ! 無茶ばかりして! 怪我治ったんなら何も言わないであげますけど。いや、何で知ってるんですか!」
「聞いたの」
ギャーギャーと騒がしく仲良し喧嘩を始めた二人は、すっかり槻と氷のことを忘れていた。〈蝶〉関係のことを言葉にしなかっただけまだマシなのだろうか。
よく分からないが面白いので、氷は放っておくことにした。
しかし、しばらくして最初は良い線を行っていたが、だんだん言葉で瑠雨にボコボコにされ始めた上司にさすがの氷も耐えられなくなってきた。
「あの……」
■◆■
「帰ってくるの遅かったわね。何か、あったのかしら?」
コンッという音が嫌に響く。水面は波立ち、白く長い指は苛立たしげにテーブルを叩く。
暗殺組織建物、エントランスにある椅子に白樹は座っていた。飲み干したコーヒーの量は知れない。足を組み、少々怒り顔で白樹は白夜と瑠雨を見た。遅い。槻と氷が居た場所はそれ程遠くなく、且つ道中に野生の熊にでも襲われるなんてハプニングは起こらないはずだ。
昼少し過ぎに行った二人が、どうして黄昏時になって帰ってくるのだろう。
無言を徹底し、視線を逸らす白夜と瑠雨。白樹は紅茶をひと口含むと、槻と氷に目をやった。視線を受けた二人はビクリと体を固まらせる。普段の柔らかい光を浮かべた瞳ではなく、鋭い光を浮かべたオッドアイ。
「二人とも、この二人が目の前で口喧嘩始めたりしなかったかしら? 正直に教えてくれると嬉しいわ」
ニコッと笑った上司に二人が嘘をつけるはずが無い。
「「してました」」
瑠雨と白夜はお互いの顔を見合わせ、お互いを呪った。
しばらくして槻達は部屋を移動した。
「心配しないで下さい。白夜さん。ちゃんと殺りますよ」
トンっと無い胸を叩きながら、槻は言った。先程氷の前で見せていた弱さをぎゅうっと奥に押し殺して。
ふらりと瑠雨は四人の前から姿を消していた。瑠雨がその場から姿を消した事に槻は気が付かなかった。
「そう、まぁ槻なら慣れてるし……大丈夫だと思うけど。油断禁物だよ。場所が場所だから何とも言えないけど、不確定要素が飛び込んでくるかも」
珍しく心配顔の白夜に白樹も同意を示した。二人は槻と言う少女に、ローリエが考えている計画の必要最低限しか伝えていない。その事について久しぶりに意見が分かれ、昨晩白夜と白樹は睨み合ったばかりだった。やがて傍観に飽きた瑠雨が、仲裁に入るまで睨み合いは続いた。
変なところで意地っ張りなのだ。二人とも。
包み隠さず"今"伝えて、暁闇の始末を蒼の代わりに正式に頼む、という意見は白夜。
槻と氷には最低限の千里アリスを殺すという計画しか伝えず、暁闇がやって来たら自分達が相手をするという意見は白樹。
ちなみにその頃、翡翠はリゼの元にいた。
どちらも蒼の出番を無くしたいという意見は同じだったが、槻と氷にどこまで伝えるかで揉めていたのだ。結局瑠雨の提案で、二人の意見を足して二で割った様なものにおさまった。しかしそれでも尚お互い不満があるらしく、それ以降も暫く静かに火花を散らしている。
そんな舞台裏を槻が知るはずも無い。
「白樹さん、白夜さん、三つ質問良いですか?」
でもさすがに違和感には気がつく。
槻はソファを一緒に沈めている氷からの視線を無視して言った。それがどこか咎めるような視線なのは、きっと気の所為ではない。
白夜と白樹はそっと視線を絡ませ、何か頷いた。
「良いわよ。答えれることだったら何でも。あ、ちなみに最近叶が居ないのは飛ばされてるからよ」
白樹のその言葉に槻はなぜ、最近己の周りが平和だったのかを知った。そもそも叶の存在を脳の彼方に追いやっていたから、忘れていたと同義でもある。
「あ、ついに左遷くらいましたか。良かった。……じゃなくて、まずローリエさんどこに行ったのかなと」
確かにそれは気になるだろう。槻の隣で氷もうんうんと頷いている。そう言えば何も言ってなかったな、とか思いながら、白樹はキャラメルクッキーを半分に割った。その半分を貰った白夜は、厳しい表情はどこに行ったのか顔をほころばせた。
ぱくりとクッキーを食べ、白樹は紅茶を含んだ。甘い香りが爽やかな香りに飲み込まれる。そして白樹は少し困った様な顔をし、宙を睨んだ。ローリエの行方は白樹には知れない。予想はつけども、言えない。
さて、どうしたものか。
慎重に言葉を選びながら言う。
「別件で……何かあったみたいで、昨日の夜から少し居ないのよ。白夜と私に色々押し付けてったわ。明日には帰ってくるはずよ」
明日までに来なければ、間に合わないと言う事実を元に言う。
槻、そして氷は微妙に納得したような表情をした。そしてその話題の口を閉ざした。これ以上聞こうものなら、他人のスケジュールを把握するという事となる。それは当たり前だが、あまり好ましくは思われない。──無意識下に行われた槻への牽制。
槻はそれをどこと無く感じ取りながら、辺りを見渡した。その人はいつの間にかに消えていたらしく、姿が見えない。煙の様だと思いながら、聞く。
「もう一つ、さっきの人は誰です? 青系の髪色のさっきまでいた人は……」
槻は瑠雨を知らない。氷は少々意外そうな顔をした。会ったことが無いはずもないのだが。時折お世話になっている筈なのに。
槻のその問いに答えたのは白夜。
「あぁ、ごめんね。そっか、他組織の人とは余り面識ないよね。──人数多いし。あれはね、戦闘機関指示組織の瑠雨って人。ん〜槻は吉野蒼って言われて誰だか分かる?」
人の紹介をするのは結構難しい。白夜は少し悩みながら教える。
「はい。この子がお世話になってる方です」
槻はすっと後ろ腰に手をやり、黒い一枚板のナイフを抜き取った。その刃先は常にしっとりと濡れ、怪しい光沢を纏っている。取り扱いにはかなり緊張を要し、持ち主でさえも触れたがらない。つまり三本のうちの毒が塗ってあるナイフ。
時々槻は蒼の元へ持っていき、毒の様子を見てもらう。槻には良く分からないが、毒も生きているらしい。ある種の危険思考を持った人物。槻は吉野蒼をそう認識していた。
「あぁ、やっぱりね。えっとね、瑠雨は蒼直属の部下だよ。付き人? パシリ? なんでもいいや。今何だかんだあってここに来てんの」
何だかんだを説明しない優しさを、辛うじて白夜は持っていた。
「蒼さん直属の部下の方でしたか……納得です」
色々と。
震えそうになる手を制御し、ホルダーにナイフを戻しながら槻は言った。隣の氷は欠伸をしながら、会話を聞いている。
最後の質問を、と槻は白樹を見据える。不思議な色のオッドアイがどこか楽しむように、薄赤い瞳と交わされた。そして槻の瞳と交わる。槻はぎゅっとお守り替わりの、氷のピアスと同じ石を持つネックレスを服の上から握りしめた。その石は、翡翠。
そしてやや躊躇うように、槻は聞いた。
「────明日、何が起こるんですか」




