虚夢 1
ことが始まる少し前、それぞれ最後の時間を惜しみなく過ごしていた。ある者は最愛の人と触れ合い、またある者は計画にミスがないように確認を。
欠けた月がポッツり浮かぶ夜のことだった。
「アリス嬢、私達を置いてどこに行ってたの? 寂しかったんだから」
「僕達、雪斗兄様達のところにいたけれど、ちらともアリス嬢の事教えてくれないんだもの。寂しかった」
ソファに身を沈めていたのは二つの小さな影。それ等は彼女が見ていなかった少しの間にどこか成長した様な気がした。その影達は軽やかにソファを飛び降りると、真っ直ぐに彼女の元へ走ってきた。特段、広い部屋という訳では無い。直ぐに来た。
「あぁ…………」
温かな手に触れ、千里アリスはぺたりと崩れ落ちた。
────もう、何があってもこれで大丈夫。
どこかでちりぃんという不思議な音が聴こえてきた。
何度も、何度も、何度も。
■◆■
膝の上ですやすや眠る二匹の鳩をもふりながら、白夜は呟いた。
「優しいね、白樹」
「何言ってるのかしら? 私はいつでも優しいわよ。ねぇ、ローリエ」
何が、とは言わない。
「そうねぇ。優しさの定義は人によって変わるから、一概には言えないわ」
棒読みでローリエはそう返事した。いつも適当に、それでいて綺麗に下ろされている黒髪は、赤いリボンで一つに結ばれている。結びきれなかった黒髪はゆらりと耳元で揺れていた。
ローリエはガリッと大きな瑠璃色を噛み潰しながら、思考を巡らせた。ここ数日、思考の片隅を蒼が占領している。数日前のあの会話。それから感じた違和感、恐ろしさ。ちゃくちゃくとパズルが上手いこと嵌められているような感覚。きっと気のせいではないだろう。
────最悪だ。この、大事な時に。
白樹はそんな彼女の様子を見ながら、くるくると銀髪を弄った。心無しか、その顔には疲労が浮かび上がっている。ここ最近、非常に忙しくしているのだ。各方面からやってくる面倒事を蹴り飛ばしながら、〈蝶使い〉としての仕事を切り刻んでいる。面倒なお家が出てくるやら、ローリエの様子が明らかに可笑しいやらで休む暇がない。
そんな白樹、ローリエの更に脇の白夜は散乱している林檎色を指で弄んでいた。そしてふと目の前で広げられている幾つかの資料を興味無さそうに見、眉を寄せた。これは──
「槻、氷。結構ガッチリ固めるんだね。それに僕達が待機して。少しやり過ぎじゃないの?」
薄赤い瞳を閉じ、何か反芻するように白夜は言った。
──何を考えているのかまるで分からない。ローリエらしくない、とでも言おうか。何もかもが過剰すぎる。ただ一人殺すのに、こんなに用意をして。念には念を入れよとは言え、これはさすがにやり過ぎの域に入るだろう。
白夜の言葉に白樹は溜息をついて賛同するものの、何も言わなかった。ひたすらに沈黙を撤し、説明を待つ。
ローリエはそんなことを後目に書類を捌きながら言った。
「白夜、あなたバカ兄様からの言伝聞いていないのかしら? バックに良く分かんないけどヤバそうな暁闇がいるとなったら、もうっ!」
白夜は思わずローリエを見上げた。言葉が、激しく揺れている。珍しい。
「良く分かんない組織いこーる暁家、だよ。瑠雨から機能の夜連絡あったよ。聞いてないのは翡翠でしょ」
その白夜の意図した様な、何気ない様なそのセリフに、ローリエは思わず固まった。記憶の、混乱。白樹は不思議な色合いのオッドアイで交互に二人を見た。これは面白い光景が見れそうだ、と。
ローリエのその状態に白夜は気が付かない。人の感情に聡すぎる白夜が。膝の上の鳩をもふるのに必死だからだろうか。白夜は鳩をひたすら構いながら、またサラッと言った。
「翡翠最近働きすぎなんだよ」
爆弾投下。
「は、はた、働きすぎではないわ。ちゃんと夜寝てるもの」
何を思ったかとんっとローリエは胸を打ち、自信満々に言った。
「はいダメだよ。翡翠、暫く寝なよ。腹は減っては戦は出来ぬって言うけど、睡眠不足でも何も出来ないじゃん」
至極正論。しかし白夜は睡眠不足で今にも倒れそうな白樹のことはスルーした。
「睡眠不足、では無いわ。本当よ。ただ考え事をずっとしてるだけ。それに"今"は休めないの。明後日なのよ? もう」
「千里アリス殺しとリゼ乗っ取りが? じゃあ更に今休まないといけないじゃん」
白夜の珍しく凛として、キッパリとした口調にローリエは押し黙った。ちらりと白樹に目をやり助けを乞うたが、白樹は机に突っ伏していた。
「寝ろ、とは言わないよ。休んできなよ。槻と氷のお世話は僕がしとくからさ」
「……休まないって言ったら?」
完全に引いた腰でローリエは一応確認した。白夜の後ろに何か鬼がいる気がする。
「記憶抜いて翡翠が今考えてることぜーんぶ消しちゃうよ。ね、良いでしょ? 白樹」
白夜がローリエに対して珍しくマウントを取っている、という超珍しい光景に白樹は寝ながら感動していた。
「ちょっと白樹。聞いてる?」
「え、あ、聞いてるわよ。別に良いんじゃないかしら?」
「白樹、あなた人の記憶一体なんだと思ってんのよ」
ローリエは不満げな声色で言った。天井を仰ぎ、呆れたように額に手を置いている。
「あら? だってローリエは記憶の塊ちゃんと保存してそうだし大丈夫って思ったのよ」
「ノーコメントでお願いするわ」
ローリエは面倒くさそうに緑の双眸を閉じながら、資料を適当にまとめた。後ろで一括りにしていた髪を解き、レモン色を一粒摘む。
「じゃ、白夜。今日の夜にあの子達を集めて何やかんや説明する予定なのよ。一日程私いなくなるから後は宜しく頼むわ。明後日には戻る」
そう言い終えるが早いか、ローリエはレモン色を白夜の額に飛ばした。指でピシッと。
「ちょっと翡翠!」
白夜が顔面に手をやり、レモン色を掴んだ一瞬の間。ローリエは姿を消した。
「まぁ、いいんじゃないかしら?」
白樹は何でもないことの様に白夜に言った。手を伸ばし、ローリエが一瞬前まで睨んでいた資料を手元に寄せる。
「ほんとにそう思ってるの? 寧ろ翡翠は僕達の監視から逃げたんだよ? また何か無茶するに決まってるじゃん!」
「あ~否定は出来ないわね」
紅茶を一口含みながら、白樹は白夜の前にローリエ作の計画書を滑らせた。印刷された書面にはやけに丁寧な字で、別に何やら付け加えられている。それこそ白い面を探すのが難しいくらい沢山。
「ねぇ、あの子どれだけ先を見通していると思う?」
滑ってきた資料にざっと目を通した白夜は言葉の通り、固まった。白夜の鼓膜を白樹の静かでいて、透き通った声がすり抜ける。
「少なくとも、昨日今日で作れるものじゃないわよね」
ローリエ作の計画書。そこには緻密に槻と氷にやらせることが書いてあった。やらせる事────千里アリス殺しと、暁家からの依頼。
「しかもどこにも隙がない」
◆■◆
それは欠けた月が嫌に眩しい夜のことだった。路地裏では黒猫がにゃーと鳴き、空には蝙蝠が静かに飛び交っていた。
ふと感じる何かの気配。言葉では表せないそれは、感覚論。
パチリ、と少女は葡萄色の瞳を薄く開いた。ぼんやりと焦点合わない目で辺りを見渡し、そっと静かに起き上がった。そして隣で静かに寝ている兄弟と一人の女性を見ると、ほっと溜息をついた。すーすーと呼吸音が響いていた。
久しぶりに帰ってきた、幸せな日常。
夢では、ない。
少女は白い寝間着のまま、そうっとベッドから飛び降りた。足音はカーペットが吸収してくれた。
ふらふらりと少女は何かに引き寄せられるように静かに扉を少し開け、身を滑らせた。夜のとっぷりとした闇は部屋の中をも侵食している。空色のカーペットの隙間から、誰かに一口食べられた月が見えた。夜目になるまでの暫しの間、ぼんやりとそこに立った。
部屋の中に何かいる、けど、分からない。
部屋の中がぼんやりと形を表した頃、ソファに沈む小さな影を少女は見つけた。ちょこんと座っているそれは、リゼが気がついた事に気がつくと、ひらりと手を振ってきた。
恐怖に固まるリゼに鈴の音を鳴らしたような軽やかな声が届く。
「こんばんは。そして初めまして、リゼ」
リゼの足元を冷たい何かが駆け抜けた……気がした。リゼは前に流れてきた黒髪を払うと、近づいてくる少女に辛うじて言った。
誰、と。
暗闇でも顔が確認出来るくらいにまで近づいてきた少女は、少し考える仕草をした後、パチリと指を鳴らした。ポッと灯が浮かび、ほんわりと辺りが明るくなる。温かさは感じなかった
長い黒髪、白い肌、そして翠の双眸。そして少女は鈴の付いた赤いリボンのチョーカーをつけていた。身長は……リゼと同じくらいだろうか。
それらの身体の部品はまるで、まるで、
「アリス嬢…………?!」
そんなはず無いとは分かっていても、声に出してしまった。
「当たりと言いたいところだけれど、違うわ」
少女は肩を竦めた。
驚きでひゅっと息が詰まりかけたリゼは、思わず一歩後ろに下がった。確かにアリス嬢と全く同じと言っても過言ではない部品を持っているが、纏う雰囲気がまるで違う。
姿かたちが似ているだけの別人だ。
今は丁度丑三つ時。なら時期的にも早いのだが、
「あなた、お化けね。アリス嬢達は渡さないわ」
リゼは扉から先には行かせないとでも言わんばかりに、少女の目の前に立った。怖い、けど必死に肝を据える。
目の前の少女は白い繊手を口元に持っていき、少し楽しむように言った。とっぷりとした緑の双眸でちろり ちろりと灯が揺れている。
「あら、果敢なのね。さすが私が見込んだ子。魂は大好物だけど、何もしないから安心して欲しいわ。そして、お化けでもないわよ」
リゼは思わず眉をひそめた。──魂は大好物だけど、だと? 安心しろと言われて出来るはずがない。何だこの少女は。
何も考えずに否定する。
「嘘よ」
「嘘じゃないわ。私はあなたとお話がしたいだけなのよ、リゼ。お願いだから今ここで喧嘩をするなんて事、したくないのよ」
リゼは思わずまた一歩下がった。少女型お化けが己と話したがっている。いや、今も話してはいるのだが。
おいそれと信じられたものではないし、夢だと信じたい。寝たい。寝ればきっと夢から覚めるだろう。
「お願いよ。聞くだけでいいの。───兄様達にこの光景見られたら笑われるわね」
「────?」
読唇術を知らないリゼは翡翠が何を言ったか知るはずがない。
「なんの、話」
翡翠の真っ直ぐな視線に負けたリゼは渋々と言わんばかりに聞いた。翡翠の双眸が嬉しそうに笑う。首の鈴が揺れたが、音は鳴らなかった。
「直ぐ先の話」
「具体的には?」
「えっと日付が変わってるから……明日のお話ね」
リゼはそれを聞いて思わず息が詰まりそうになった。
──明日?
「本当にすぐ先じゃない」
「私はね、未来が見えるの」
悪戯っぽく翡翠は言った。実際には未来が見えるのではなく、努力の賜物と人とは比べ物にならないくらいの人生経験がそれなのだが。まぁ、同じことだろう。
意味が分からない、と言うリゼ。翡翠はそっと言葉を置いた。
「顔に白布をつけた人達に気をつけて」
「白布……?」
よく分からない助言にリゼは思わず眉をひそめた。コスプレ、とか言うやつだろうか。目の前の少女と言い、話と言い、得体が知れない掴めない。
「えぇ、その人達だけは私の手に負えないかも知れない」
唇を噛む翡翠。リゼには何言われているのかちんぷんかんぷんだ。
「まるで意味がわからないわ。貴方は誰? 名前は?」
「名前は、まぁ近いうちに分かるわ。私はね、未来あなたに従う者よ。宜しくね、リゼ」
自分勝手な目の前の少女にリゼは小さく怒りを感じた。何が近いうちに分かる、だ。仕える者だ。本当に、意味が分からない。
キッと紫の瞳で少女を見あげれば、恐ろしい程にとっぷりとした緑の双眸が返ってきた。それこそ、リゼを呑み込まんと言わんばかりの瞳が。
それでいて純粋に訴えかけてくる瞳に、リゼは出そうとした言葉を抑える。
「はぁ……一つ聞きたいことがあるのだけれど」
「うーんまだ無理ねぇ。あら、何かしら。時間は無いわ」
──じゃないと貴方が結界に呑み込まれてしまうから。
〈蝶〉とまだ何も接点を持っていないリゼが長時間、結界の中に居続けることは不可能だ。魂喰らわば身体まで、結界が美味しく嚥下してしまう。
そしてリゼに取り憑くのがまだ無理だと今しがた判断した翡翠は、静かにリゼの言葉を待った。
「明日何が起こるの?」
ヒュウっと翡翠は思わず口笛を吹いた。さすが見込んだ子だ、と。そして思わず破顔した。何かとっても楽しくて楽しくて楽しくて。
「悪いけど秘密よ。でもまぁもう一つ忠告するわ。──今日を一日楽しんで。千里アリスとロゼと──の一日を」
その言葉の余韻が消えると共に、揺蕩っていた灯も消えた。気が付けばリゼは一人、そこにただいた。
「今の、何?」
時計を見た。針は変わらず時を刻んでいる。
『顔に白布をつけた人達に気をつけて』
夢か、現か、幻か。
ただ、ちりぃんという鈴の音が、どこからか聞こえてきた気がした。
『千里アリスとロゼと最後の一日を』
ぶるり、とリゼは身を震わせると逃げる様に寝室に戻った。




