繋がり繋がりゆく黒い糸 3
「結界を張るわ。ここからは楽しい秘密のお話の時間よ」
ぱちり、とローリエが楽し気に指を鳴らした。その音を中心として静かな波紋が広がり、薄く透明な紗が二人の周りを取り囲んだ。紗に取り囲まれた癖して、更に香るポプラの香り。清々しい清涼感溢れるそれは月桂樹が持つもの。
蒼はすっと眼を閉じた。
──空気が変わった。風が頬をそよぐ。目を開けると蒼は、四方を山に囲まれた田舎にいた。田舎、と言うには不適切だろうか。見るからに時代が違う。小さな家に、溢れんばかりの草原。その中央で威厳たっぷりにその巨躯を揺らしているのは、ケヤキの樹なのか。
時は見る限り明け方。東と思われる方向から僅かに光が差している。明けの明星は空のアクセントと化していた。
──あれ?
蒼の隣に瑠雨が居ない。何だかんだ言いながら、蒼に忠実についてまわる瑠雨が居ない。居なくなる時は必ず一声置いていくのに。己の分身がいなくなった。どうして。翡翠のせいなのか。
「どこ、瑠雨?」
ボソリと、不安げにそう言いながら蒼は辺りを見回した。蝶の姿で舞っているかと思ったが、そうでも無いらしい。本当にいない。
「参ったな……」
そう言う蒼の手を唐突に掴む者がいた。それは無論、翡翠。眠そうに大きな欠伸をしながら、静かに佇むその家へと蒼を連れ、歩を進める。
「翡翠?」
言葉から滲み出ている不安。
膝程の高さまである草葉を踏み歩きながら、前を向き、翡翠は返答した。
「置いてきたわ。だって兄様がいると余計に話がこんがらがるんだもの。一つ教えてあげる。あれね、あやとりが物凄く苦手よ。どんなに簡単なものを教えてあげても五秒後には紐がからまってるの。今度やらせるといいわ」
草葉は朝露で濡れていて、二人の足元を濡らしている。少しずつ差し込んできた朝日は、二人の事を暖め始めた。
「それは……やらせるしかないね。安心した。ありがと」
置いてきた。その言葉にすっと安心したか、蒼は肩の強張りを無くした。面識のある人であっても、瑠雨抜きで誰かと二人きりになるのは怖い。
「ついで言うなら……と言うよりもまぁ当たり前だけど、ここには私と蒼しかいないわ。話したい放題ね」
振り向いて悪戯に笑った翡翠に蒼は、曖昧な返事をするしか無かった。どこまでが本心なのか分からない。本能的に翡翠からは腹黒さが感じられた。
その家に辿り着いた時、くるりと翡翠は蒼を振り返った。先程までとは違く、なぜか幼い姿を取っている翡翠の頭で赤いリボンが揺れている。いつも静かに響いているはずの鈴はこの場には無く、静かだった。
風がそよりと翡翠の髪を巻き上げた。無垢な笑顔を蒼に向けると、翡翠は縁側に腰を下ろした。蒼もそれに倣う。
足を交互に揺らしながら翡翠は言った。
「──と言うよりも、ここに兄様がいたらきっと白夜の元にすっ飛んでくわ。蒼、恐らく貴方は〈魂喰らい〉の時に使った囮の事話していないのでしょう?」
「うん、話してないよ。〈魂喰らい〉の事もうっかり口を滑らせたって感じ」
コクリと頷いて蒼は言った。そして溜息一つ。皆で言わないようにしていたのに、口を滑らせた翁。わざと漏らしたのかはたまたそうでないのか、真意は謎。でもまあ、いずれバレる事柄だったから別にどうと言うことは無い。問題はそのタイミングだった訳で。
「……そう。あなたも大変ね。兄様抜きで私が話したいのは千里アリスという〈譲葉〉についてよ」
「知ってた」
「話が早くて助かるわ。思い出話を語るだけでも良かったのだけれど」
翡翠がひらりと手を振ると現れたのは二つのお猪口。そして手品の様に翡翠が出したのは、開けられていない日本酒。"星昊"と書かれた柔らかい杜若色の瓶。翡翠はご機嫌顔でそれをついだ。
「未成年はお酒飲んじゃダメだよ?」
「ふっ、見かけで判断してそう言うなんてまだまだね。精神年齢はとうに越してるわ。更に私は蒼とは比べ物にならないくらいの月日を過ごしてるのよ。呑めない理由が無いわ」
「なるほど」
翡翠がこの場に瑠雨を連れて来なかった理由を垣間見た気がした。翡翠に渡されたお猪口を受け取り、一口呑む。
「さあさ、楽しい時間を過ごしましょう。──プラスとプラスを、マイナスとマイナス同士は反発しあうわ。ねぇ、吉野蒼?」
「反発し合うけど、それは磁石とかの場合だね。今回の場合、一概には言えない。うーーんこれ美味しい」
蒼は垂れたお酒をペロリと舐めた。
酒瓶を弄んでいる翡翠は指先で髪をクルクルとしながら言う。何か確認するように。
「そう、一概には言えないわ。ひっついて、その後離れてくれたら一番なんだけど」
「面識ある者どうしだからね。生卵みたいにどちらに転がるか分かったもんじゃない。本人達には悪いけど」
ほうっと蒼は今日何度目か分からないため息をついた。
「そもそも私は〈譲葉〉で、そんな実験をするなんて夢にも考えてなかったわ。しかも使うの私の関係者だし。槻を推薦したのは貴方?」
「ふふふ秘密だよ。──今回の実験は成功したら得られる報酬はきっと、きっと大きい。失敗したら分かり切った結末になるだけ」
その目が一瞬、憂いを帯びたのを翡翠は見逃さなかった。翡翠はその事に関して、蒼がまだ迷っているということに気がついていた。
蒼がしようとしている事は言わば、魂を弄ぶという事。仕方が無い仕方が無いと言い訳しながら、心の底では迷っている。
──それは後で責めるとして、兄様が隣にいない時の吉野蒼がこれか。恐ろしい人間だ。
二人は語らい合った。互いの後ろめたい思いを隠すように。胸内を隠すように。蒼は千里アリスと親友で、翡翠の〈譲葉〉が千里アリス。どちらも密に彼女に関わっている。二人が話し合うのは思い出お話。そんな二人の後ろには既に幾つもの空瓶が転がっていた。
暫くして夢幻の太陽が上がりきり、明けの明星が姿を消した。雲が点々とさまよっている青空は、翡翠が遠い彼方に持つ記憶の一片。
淡々としている癖して、とても綺麗な青。その青空を見たくないと言わんばかりに蒼は目を閉じた。そのまま後ろに倒れ、一つ大きく深呼吸をする。そして腕を乗せ、本当に何も見えないようにした。
「夜に変えましょうか?」
「いや、大丈夫。星空も見たくない」
そっと翡翠の繊手が蒼の髪をほどいた。扇状に広がった黒髪を梳くようにして、蒼を撫でた。小さな子供をあやす様に。
「子供みたいって思ってるでしょ」
不貞腐れたように蒼が言った。
「勿論。──泣いてもいいのよ? 甘えても」
「子供じゃないからしないよ。そんなこと」
翡翠は笑顔のまま蒼の髪の毛をひとつまみ、引っ張った。何言ってんだこいつは、と。
その後も蒼と翡翠は沢山お話をした。千里アリスという人について。そしたら沢山目を背けていたものがじっとこちらを見てきた。それは翡翠も同じ。眼を覆い隠していない方の腕で頭を擦りながら、蒼はボソッと呟いた。
「千里に謝んないとな。最近連絡取ってないし。私が、私が、盤を敷いて。殺すために、自分の為にまた囮になってもらう為だけに。また、また、最期まで私は……」
彼女を利用するだけ利用する。
後ろめたさからなる自己嫌悪。自嘲。さっきまでの軽快さは翡翠と話すごとに消え去った。目が潤んでくるのは翡翠に引っ張られた箇所が痛いことにしておく。
「私はね、吉野蒼。優柔不断から生んでしまった千里アリスって〈譲葉〉を一度捨てたわ。記憶を消して、抜いて。代わりに白樹に私の身を置かせてもらった。後悔は、してない。次の主人を決めた今でも。あの時、直ぐに主人を決めなくて良かった。主人を決めなかったが為に生まれたその存在を──生んでしまって良かった」
「…………」
翡翠はピンっと蒼の事を指で弾いた。透明な緑色の双眸で空を見上げれば、雲がのんびり散歩している。大きなケヤキの木は、ざわざわと風に身を任せていた。
翡翠の沢山の記憶が寄り添って出来ている光景。もしかしたら誰かの魂が持つ記憶も混じっているかもしれない。どれもこれもこの記憶が持つもの、と断定することは出来ない。
霞がかった記憶が織り成す風景。
それらの記憶を覚えていれども、思い出すことは出来ない。
「責任無いって思うでしょ。各方面に迷惑をかけまくったその本人が後悔してないだなんて。……でも、昔瑠雨も葛藤したんじゃないのかしら?」
「覚えてない」
ぷいっと拗ねた子供のように蒼は翡翠に背を向けた。翡翠は呆れたように笑うと、蒼の事を今度は指でつついた。
────そろそろ逃げる時間はお終いだ。現実を見なくては、と。
「ねぇ、過去は変えられないし、変わらないわ。変えるなら、未来よ。後悔ばっかりしてもねぇ、何も変わんないの。いつも皆に言ってるけど、人は死ぬの。私が食べる気で手で触れたり、血を沢山流したり、毒盛られただけで呆気なく死ぬの。脆いのよ。吉野蒼、あなたがそれを理解していないはずが無いでしょう? て言うよりも、自分のことは犠牲にしまくる癖に大好きな人の事は生かそうなんて」
翡翠は蒼の事を見やると、ピシリと言い放った。
「都合が良いのよ」
ビクリと蒼は身を震わせた。こんな風に叱られるのは久しぶりだ。瑠雨は叱ることはしない。蒼の意見を尊重し、あくまで注意するだけに留めてくれている。
そろりと腕を避け、翡翠を見れば……眼があった。
「あのね、腹括りなさいよ。なーに"成功したら"とか夢物語で考えてんのよ。甘いのよ。縁日の綿飴よりも甘いわよ。成功させなさいよ。こんな大舞台用意して。本当は身内殺しなんて毒盛って殺せば終了なのよ? なのにわざわざそう言う雰囲気纏って暗殺組織にお願いして。事をでかくして。どんだけホラ吹きなのあなたは! そこら辺の小説の悪役よりも悪役してるわよ!」
気付かないとでも思ったか! と翡翠は蒼を睨みつけた。
「あー褒められてるって言うことだよね」
「逆よ! いーい? 白樹や白夜とかは変に真面目だし、何だかごちゃごちゃしてて忙しいから気がついていないけどね? …………いや、疲れたわ。もういいわ。ひとまず何企んでんのかは私にモロバレなのよ。バレないとでも思ったなんて言わせないわ」
翡翠は虚ろな目で蒼を見た。子うさぎの様に怯えている蒼は必死に思考を巡らせ、己がどこでミスを働いたか考えを巡らせていた。
「全部よ。まぁ、私の〈譲葉〉も生かそうとしてくれていることには感謝するわ。ありがとう。……でも、あなたはその〈譲葉〉の呪いを受け止められるのかしら?」
「正直に言うと死にそう。でもまぁ、何とかするよ」
「朱里以上の自信家ね、まぁいいわ」
翡翠は蒼に一つだけ聞いた。確認の問いかけ。
「あなたは千里アリスをどうしたいの」
「生かしたい。魂だけになっても。生きて欲しい」
──魂だけになっても?
翡翠はサラリと蒼が言ったその言葉に、底知れない、何か、とっても恐ろしいものを感じた。目の前の蒼と言う名の彼女は、他に何かを企んでいる。
「……そう。じゃあ私は槻達が確実に彼女を殺せるように頑張って鍛えてるわ。でも、物凄く無駄な気がしてきたわ。何でただの非戦闘員を殺めるために、私ここまでやんなきゃいけいないのかしら。謎よ」
「千里も死ぬ気でいるみたいだから、彼女には頑張って貰わないと困るよ。何だか死ぬこと分かってるらしいんだよねぇ」
起き上がると、蒼はじっと翡翠を見た。太陽が雲に隠され、辺りは少し薄暗くなる。
「私じゃないわよ。それこそ本人に聞きなさいよ」
「違うのか……じゃあ誰が千里に教えたんだろう」
どこかで鼠が鳴いた気がした。




