意を決して 2
コポリ コポリと響く泡。
飛び散るのはとろりとした悲鳴。
舞い踊るのは美しいほどに残酷な朱殷。
グサリ グニャリと形失い崩れ行くのはいったい何なのか。
すうっと息を吸い込めば 諦めがつく程の甘美な香り。
「──────っ!」
余りにも残虐な光景に蒼はすうっと意識を失いかける。遠くで瑠雨が名前を呼ばなければどうなっていたのか。
ころりと鞠が転がる様に、からりと賽が投げられる様に、はたまたするりと夢現に溶けるように。景色が変わった。
『さぁ、今日からお前達の家族だ!』
その男が肩から下ろしたのは、産まれて間もない赤ん坊。無垢な鏡で辺りを見渡すと、その子はニコリと微笑んだ。何人かの子供達がその子に群がる。遠目からひっそりと眺めている子供達は、怯えるように隠れた。
『はじめまして』 『わぁ! 何て可愛いお人形さん!』 『この子はどう成長するのかしら?』
歓迎するかのような声共。大きな紫色の眼をした少女はきゃっきゃと無垢に笑っていた。
『でも、お義父さま』
美しい赤に染められたフードを被るのは一人の少女。真っ赤な瞳を赤ん坊に向けると、薄い唇でそっと聞いた。
『この子には"兄弟"がいないの?』
ピシリ、と氷が張った。氷をお湯で溶かすように、そっと優しく男は言った。
『大丈夫。直ぐに出来るから。その時は宜しくね』
『うん!』
フードの少女は赤ん坊を優しく抱きしめるとあやし始めた。小さく、綺麗な声で歌を歌いながら。
ごく、普通の、平和な、光景。
それなのに蒼と瑠雨は明らかな違和感を覚えた。
肌で感じる違和感。
そろりと何かの吐息が首筋を撫でた。
『その時は宜しくね』
引っかかるのはその一言。
次の光景を見た時、蒼は為す術なく、膝から崩れ落ちた。瑠雨にしがみつく様にして漏れる悲鳴を必死に堪える。
──ソレニ キガツカレナイヨウニ。
『頂きます』『頂きます』『頂きます』
十人程、だろうか? 少しだけ成長した風な子供達は懸命にナイフとフォークを握り締めながら、モグモグと口を動かし始めた。
『お義父さま! 今回のは美味しいわ!』
『美味しいよ、お義父さま!』
お世辞ではなく、純粋に、心からそう思っている声。お義父さまと呼ばれている男はペンを動かしながら、何か子供達に聞いて回る。
木の皿と、透明なお水と、新鮮なお野菜。そしてごろりとした柔らかいお肉が入ったスープ。紫色の瞳を持つ赤ん坊は親指を咥えながら、他の子供が食べているものを見ている。羨ましそうに。相変わらず赤いフードを被った少女はその赤ん坊にミルクを与えながら、そっと謝る。
『ごめんね、貴方はまだ食べられないの』
食べ、られないの──────────
「る、う、」
恐怖で色を落としながら、爪が刺さる程に瑠雨の腕を握り締める。変なところで聡い蒼はこの光景の意味に気がついてしまった。いや、本当はもっと早くから気がついていた。ただ、心のストッパーが働いて。
目の前の恐ろしい程に優美な食事を見ても、蒼が腰を抜かしてしがみついてきても、瑠雨は顔色一つ変えていない。強いて言うなら、蒼が服越しに瑠雨に爪を刺した時、仕方ないなぁという表情をしたくらいだ。
子供をあやす様に瑠雨はぽんぽんと蒼の頭を撫でる。
「蒼、」
続けようとした言葉を瑠雨は止めた。恐ろしい光景を目の前にし、怯えながらも必死に目を逸らさないでいようとする。怯える蒼を強制的に眠らせ、瑠雨一人でこの光景を持ち帰ろうと思った。寧ろ蒼の精神的な負担を考えると記憶処理も施した方が良いだろう。それは紛うことなき正しい判断。だが、瑠雨は目を逸らさない蒼に敬意を払う事にした。
カチャリ カチャリとほぼ同時にフォークとナイフを置く音がした。それとスプーンも。
『ご馳走様でした』 『ご馳走様』 『ご馳走様』
破顔一笑。子供達は立ち上がると食器を持って席を立つ。賑やかに笑い合う声。喧騒。
給食、の様な雰囲気とでも言えば良かったのだろうか。
蒼や瑠雨の後ろ側では相も変わらず、花共の生存競争、とは名ばかりの弱い者いじめが行われていた。小さく、生まれたばかりの可憐な花を、前々からいた、大きな彼岸花が喰らい尽くす。
ふと、瑠雨は先程から感じていた違和感とはまた別物の違和感を感じ取り、後ろを振り向いた。
赤い大きな彼岸花の間に凛とした白い彼岸花がいた。一輪だけ、一人だけ、ぽつりと、孤独に、蠱毒か。
飛び血を浴び、それでも尚、白く輝くそれに瑠雨は畏怖を覚えた。
カシャン、と何かが割れる音がした。それは目の前の光景からなのか、はたまたただの幻聴なのか。
『さぁ、皆! 最後の家族だ!』
大きな声でわらう声。また繰り返される光景。沢山やって来る人々。皆食事を美味しい、美味しいと言いながら、食事を味わいながら一人、また一人、気に入った子供を連れ帰っていく。そしてその子供たちは直ぐに別な扉から帰ってくる。
いや、違う。連れていかれたのは、戻って来たのは同じ姿形の──!
歌が聞こえた。外から……だろうか。子供達は辿々しい声で真似て、歌った。まるでその日はそれしかすることが無いとでもいう様に。数多いた子供たちの数は景色が変わる度に一人、また一人と消えていく。それはまるで神隠しの様に。最後に残ったのは一冊の本を抱えた双子のような子供二人。虚ろな目で宙を見るのはなぜなのか。
そして、
キイイィィン──────!
甲高い音が唐突に響いた。と、同時にカッシャーンという音が響き、映像を映していたそれは崩れて壊れた。辺りに氷のような粒が飛び散る。キラキラとダイヤモンドを散らばしながら、宙を踊る。舞う。飛ぶ。
辺りが暗くなり、今まで見えていた光景が消え去った時、蒼は安心したようにペタリと腰をついた。怯えたように欠片を見つめている。
「ありがと、るう」
「無理してんじゃねーんですよ。全く」
少し時間が過ぎた。差し伸べられた瑠雨の手に掴まり、蒼は立ち上がった。精神的に大分やられていたが、瑠雨がすんでのところで壊してくれたから別に大したことは無い。
瑠雨は完全にそれが壊れた事を確認すると、鋭利な剣状にした氷を消した。黄色の猫目は何か探すように隈無く動いている。立ち上がった蒼は暫くの間肩で必死に呼吸をしていたが、瑠雨同様に違和感の根源を探し始めた。
光が消えたから、瑠雨は代わりの光源として幾つかの焔花をつくった。煌々と輝くそれは永遠と続く冥道を照らす。
《星嘲るは雷雹珠────》
ふと蒼が唐突に詠唱を開始した。見えない糸を探る様に、カチリと嵌る言葉を探すように暫し逡巡した後、何か掴む様に指先を揃え、
《────我が為に 其を貫くは氷槍》
少し長めの御伽を紡ぎ終える。と同時に、細長い氷が蒼の周りに浮かび上がった。やっぱりその中にはぱちぱちとした雷を内包していて。
ゴミを投げる様な仕草で蒼は、手をすっと伸ばした。
氷は暗闇をスライドしていく。その周りだけ青白く輝いている。他を喰らい尽くしていた彼岸花は怯える様に身を屈ませ、恐れ知らずの名も無き花は今がチャンスと身を伸ばす。
グシャリ
そんな音がしたと思ったら、氷は鈍い赤に染っていた。
「汚い」
瑠雨が唸る様にボヤくと、すうっと何かが現れた。
「さいってい」
蒼は敵意を剥き出しにしながら人影にいう。
「如何でしたか? 途中で壊すのはマナー違反ですよ」
「死ね」
珍しく端的に感情を吐露する。蒼がまた詠唱を紡ごうとすると、
「蒼」
瑠雨が制した。舌打ちしながらも蒼は素直に言うことを聞く。相手は今、実態を持っていない。それが怯えてなのか、嘲っての事なのか……今はどうでもいい。感情のやり場に困った蒼は手身近にあった赤いお花を破壊した。
何かの悲鳴と共に赤い花は気持ち悪く破裂する。蒼の手に何かペシャリと飛んできた。血。
そんな蒼を横目に瑠雨は問う。
「まさかと思いますが、あれが本当の光景だとは言いませんよね」
「そっちの彼は気が付いた様なのに……御姫様の方は……」
瑠雨の言葉を暗黙に肯定すると、彼は蒼を見た。暗闇の中、また繰り返される生存競争とは名ばかりの弱い者いじめ。彼岸花が名も無き紫の花を喰らい尽くす。時々成長した個体があったと思ったら、直ぐに集られて潰される。
蒼は完全に色を失った顔で、先ほどの光景の裏で行われていたことをぼそっと呟いた。白樹が知ってしまったらやばい、とも。
そして瑠雨は、とある事実に気が付いていた。蒼よりも一歩先に。爛々と焔が輝きを増す。
にっこりと笑う彼を、未だ色が戻らぬ顔で見据えて蒼は言った。掠れた声で。
「帰して。そしてなぜ私達にこの光景を見せた」
どこか悲しそうに。
「ただの暇つぶし。それに今の光景を導き出せる大体のデータは他の兄弟が消してしまったしね。その兄弟ってのは、僕が大嫌いな奴なんだ。……まぁ、全員気に食わないんだけど」
ふわりと結界がもう一つ現れた。
「何の対価を求めるつもりです。あんた、勝手に話進めてるじゃないですか」
「ん? あぁ、今の光景ね。今のはただのオープニングムービーさ。あれに対価はいらないよ」
不意に蒼の耳元でぷつり、と音がした。
「────!?」
テレビが切り替るように──蒼が無意識な瞬きから目を開けると、隣に瑠雨が居なかった。彼も。瞬き一回の時間で何が起こったと言うのだろうか。二人が消えた、と言うよりも蒼の身に何か起こったという方が正しい。一人ぽっつり闇の中。瑠雨が蒼の側から離れることは滅多にないのに。どんな事があっても離れた事は無いのに……瑠雨の気配すら感じない。
僅かな希望を持って、蒼は瑠雨の名前を呼んでみたが答える声は無かった。途端、蒼を襲うのは不安。久しぶりの孤独は蒼の神経を僅かながら喰う。
「瑠雨に棄てられたって事はないよね」
現実逃避からなるその推測は、無いと願いたかった。〈蝶〉に棄てられた〈蝶使い〉。確かに日頃から冷たい返しをされたりはしているが、それは友情、信頼から成り立っているのであって……
「ないない」
無意味な自問自答。少し声は震えていた。
蒼は何も出来ることがなく、膝を抱えて場が動くのを静かに待った。山で遭難した時は麓ではなく頂上を目指せと言うが、ここは山ですらない。ただの"無"しかない空間も蒼の神経を傷つけた。
──……寒い。
ふと、今まで何も無かった空間に柔らかい光が差した。完全に夜目になっていた蒼には、その柔らかい光すら真夏の太陽よりも存在感がある。蒼はすっと目を閉じ、深呼吸の後に開いた。
──やっぱり何も無い。取り込む光さえ無いのだろうか。何も見えない。タイミングを見計らった様にどこかから声がした。小さいのに、大きい声。
『──皆、悪い狼に食べられちゃった』
凛とした余韻を残したのは金髪の少女。蒼の脇に唐突に湧きいでた。驚いて思いっきり飛び退いた。
少女の綺麗なアメシストはどこか虚ろだ。お行儀良く佇んでいる。お人形さんみたいに。手に何か握っているが、暗闇に紛れて良く見えない。ぼんやりと少女だけ淡く光っていた。
何だろう、と蒼は無意識に一歩踏み出した。見えない力に引き摺られるように。だが、幸か不幸か次の一歩が進まない。
少女は白い手を差し出してきた。誘う様に。おいで、と。
蒼はぼんやりとした既視感を少女に覚えていた。まだ幼いながらもどこか陰った表情。ぼんやりと蒼が少女を眺めていると、金髪がサラリとした白髪に変わった。
既視感は確信に変わる。
「リゼ、ちゃん」
──千里の、翡翠の、雪斗達の、大切な子。
ここに居るはずが無いのに。どうして目の前にいるのだろう。片割れのロゼの正体が分かってしまっていたから、蒼は彼が居ないことにほっとしていた。多分今会ってしまったら殺してしまったかも。蒼の手が幻に赤く染った。
リゼの姿が溶けて消えた。次に現れた人影に蒼は真っ赤な手を伸ばした。
「違う。私は、」
蒼を見据える碧眼。紛うことなき蒼の〈譲葉〉。
「ごめん。でもあの子こそ、ここに居るはず無いんだから」
蒼はふらつく足で懸命に立ち上がると、少し長めの詠唱を開始した。少し複雑な傀儡を操る様な手の動きも同時に行う。ポタリポタリと蒼の手から赤が落ち、辺りを染める。
詠唱を紡ぎ終えた時には、蒼の双眸はまた青白い焔を纏っていた。
「許さない」
夢──人が寝ている間に見るもの。
「え、何」
「おはようございます。蒼」
蒼が御伽が放った時の強烈な光に目を瞑り、少しして目を開けると瑠雨がいた。殺意たっぷりな猫目を煌めかせた瑠雨が。ついとその目が向けられた先にいたのはコーヒー片手に寛ぐ彼。お客様専用の椅子を我が物顔で独占し、図々しくも翁にお代わりをついでもらっている。
蒼が目を見開いて体を起こすと瑠雨は安心したように微笑んだ。
「なっなっなっ──────!?」
「これまた驚いた。まさかあの世界から帰ってくるとは」
「蒼があのまま昏々と眠り続けるなら、あんたを殺すところでしたよ。命拾いしましたね」
「蒼、おかえりなさい。コーヒー飲むかい?」
「どうなってるの」
「蒼、お薬飲んでませんね」
暖かいソファ、コーヒーを注ぐ翁、ふんわりと漂うお薬の香り。蒼の額にデコピンする瑠雨。ここはうさぎ穴に間違いはない。だが、彼が全てをぶっ壊していた。
「それは、姫様。私が話して差し上げましょう」
差し伸べられた手。蒼は赴くがままにナイフで突き刺した。どっぷりとした赤い血が、辺りに散らばった。蒼はへにゃりと笑った。
「あぁ、本物なのね」
「そりゃ生きていますよ、姫様」
「私と瑠雨があっちで会ったのは偽物だった」
「それも含めて説明致しますよ」




