【御伽話】其れは甘美なものを知り
其れが最初に現れたのは何時の時代だったか。
闇に蠢く影。
闇に潜む聲。
蟲を喰らう闇。
妖、と呼ばれた時代もある。化物、と呼ばれた時もある。ある時代は鬼と呼ばれたかもしれないし、その時代では崇め奉られた事もある。
其れはふとした時に生み出され、とある時代に現世に落ちて来た。
其れが最初に見たのは自分と同じ色をした空。不思議なくらい真っ黒な空。沢山の光を従えていた。其れは空を憎んだ。次に見たのは子連れの狼。其れは嫌悪し、そして妬んだ。
其れはとっぷりとした闇に覆われていて、何時も孤独だった。聲を出したら蟲に逃げられ、蠢けば草木が枯れ果てる。口でものを喰らおうとも、吐息がかかれば意味が無い。意地を持って飲む水すらも、咡に入れば汚臭を放つ。其れは無駄に長生きなのか、死ぬ気配はちらともみえない。輪廻の輪に見放され、どんなに幽愁闇恨知ろうとも、嘆き、悲しむ事すら出来ない。
その頃其れは"祟り神"として畏れられた。
其れの呼び名が変わったのは、落ちて来てから数十年後。その頃になると其れも随分現世に慣れ、誰かの供物を奪える様になっていた。何時しか感じた孤独すら、時が経つに薄らいで、笑い遊ぶ村の子供達を遠くから眺める日々が増えた。姿を見せることすら出来ないけれど、出来ることなら何でもした。悪霊、妖、悪い神様、手で触れたら皆消えた。土地神さえも消し去ったら、何時しかまた独りになっていた。だけど其れは気にしなかった。邪魔されずに子供を見る事が出来るから。
何時の間にか其れは"土地神"にすり変わっていた。
土地神へとなった其れは何時の間にか、自然に崇め奉られていた。豪華な供物に、大きな社。やっぱり姿を見せずに過ごしていたけれど、人々はそんな事は気にしないらしい。都合がよかった。そして、其れは人々自ら自分の傍へ来てくれた事に酷く喜んだ。子供達は社の庭で遊び、大人達は願い事を呟いて去る。邪魔するものは何もいない。其れが自らその御手で消し去ったから。春の桜、夏の蛍、秋のアケビに冬の木枯らし。邪魔するものがいない今、全てが其れの手中にあった。
消し去る事で其れは"大御神"に近しくなった。
「あら? あなただぁれ?」
其れは夜中だけ形をとる事が出来た。最初は蟲。次は獣。その頃の其れは、人の姿をとる事が出来るようになっていた。
ただ人の姿をとるのは真夜中──皆、寝静まった頃のみである。まさか夜中に水を汲みに来た少女と出会うとは、其れは思わなかった。村の子供の一人である。其れは酷く怯えた。物怖じせず、近付いてくる少女に。
「あら? あなた喋れないのね」
少女と其れは一緒に沢山戯れた。追いかけっこをしたり、隠れん坊をしたり。初めての触れ合い。少女は楽しかった。其れも楽しかった。──遊んだのは一晩だけのはずだった。でも明け方、少女が帰宅すると大人達は皆口を揃えて言ったのだ。
『今まで何処に行っていたの? 一日中姿を隠して』
「一晩だけだと思ったのだけれど」
少女は大人達が何を言っているのか分からなかった。でも、深く考える事は無い。楽しかったのだから。
それから暫くして、少女はまた其れに会った。其れは必死に水を飲んでいた。そしてその日はまた一晩遊んだ。
そのまた次の日、少女は一晩だけ其れと遊んだ。その次もその次も……。
狂った様に夜いなくなり、一日帰って来ない少女。大人達はそれを"神隠し"と呼び、土地神様の怒りに少女が触れたのだと思った。このままだと貴重な村娘が一人、連れて行かれる。大人達は焦燥感に狩られた。でも少女を監禁して、土地神への供物を更に豪華にするしか手立ては無かった。それ以外に何出来るというのだろう? その頃になると少女は何も食わず、寝ず、喋らずにいた。少女は大人達の言う通りに監禁された。
何も知らない其れは来なくなった少女を待ち続けた。毎日毎日、日を越す度に豪華になる供物を見つめながら。
それからまた季節が変わった。少女は取り憑かれた様に夜中、徘徊し始めた。大人しくなったからと緩められた監禁生活が仇となった。少女はまた、消えた。
大人達が少女を見つけたのは社の庭。恐ろしい程に細い三日月が、空にぽつりと浮かぶ夜の事だった。
『帰っておいで』
「お母様達も一緒に遊びませんか? 楽しいわよ」
少女は一人ではなかった。隣に黒い布を纏った何かがいた。固まる大人達に近づいて、哀れな少女は手を引いた。一緒に遊ぼう、と。とびきりの笑顔で。
ゆらり ゆらり ゆらめく 人影。
──あれは何 あれは妖 あれは化け物 人ではないもの。
『それから離れなさい。いい子なのだから』
『この子は取り憑かれた。もう遅い』
『それでも戻っておいで』
大人は口を揃えてそう言った。袖をくいっとひかれた手を逆に掴み返しながら、母親は涙に塗れた顔をふった。そんな大人達の様子に無知な少女は頬を膨らませた。
──どうして皆分からないのだろう?
「どうして? あの子とっても寂しがってるわ」
『あれは化物。お願いだから戻っておいで』
友達を化物と呼ばれた少女は何も考えないで手を振り払った。そして化物と称された友達の元へと駆けて行く。
「さぁ、何して遊ぶ?」
少女は其れに手を触れた。其れに触れても少女は、枯れ果てなかった。大人達が遠くから何か言っている。呪詛なのか、ただの泣き声なのか。
ドウデモイイ
少女が姿形を変えないと気がついた時、其れは喉元から這い上がってくる渇望を知った。
大きな口で其れは少女をぱくりと食べた。欲望のままに。
骨が砕ける音も、血が飛び散る風景も、悲鳴も、何も、聞こえない見えない。美味しい。美味しい。美味しい。美味しい。美味しい。何て甘美な味。
夜が明けるまで其れは咀嚼し続けた。
散り散りになって逃げた大人達が翌朝そこで見たものは、魂を抜かれ、人形と化した一人の無知な少女だった。
其れは人の味を知ってしまった。身を呈して教えてくれた、少女のお陰で。
其れは直ぐに村の人々を襲った。
初めて満たされた空腹。でも、何かチガウ。
少女がいた村は、命ある物全てが死した。それを知った他の村は贄として、無垢な少女を祭壇に置いた。しかし贄を置いたその村もまた、最初の村と同じ有様になったという。
かつて神と崇め奉られた其れは、欲望のままに人を喰らう化物へと落ち果てた。
どんなに人を喰らおうとも、最初の少女が一番美味しかった。其れは人を喰う度に思った。
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かくして其れは祭服姿の少年に〈魂喰らい〉と名付けられた。そして自分を貶めた少年を喰らう為に、何時か食べた少女の魂を探す為に、今尚現世を彷徨っているという。