〈飴玉っぽいシャボン玉〉1
「気になる事があるのよね〜」
タンタンカタタンとテンポよくキーを叩きながら、白樹は愛用のパソコンと話していた。長い白髪を一つにまとめ、頬杖をつきながらそのデータ一覧を見る。白樹のその真っ白な肌はほんのりと色付いており、心無しか彼女の息が荒れていた。
「ふむぅ……」
イタリア支部で子供をモルモット扱いしていた男。どう足掻いても現時点では情報不足。ちろりと蛇のように白樹は唇を舐めた。
──今の私の権力では深入り出来ない、か。
姫としての地位を使えばやりたい放題出来るが、そんな事はしない。白樹は人知れず溜息をつくとそっとパソコンの電源を落とした。そんな時、
「白樹〜捕まえたよ〜」
「来たわよ。何の用よ白樹。呼ばれれば来たわよ」
白樹の元に彼女の〈蝶〉こと白夜が戻ってきた。そして、その一歩下がった後ろに翡翠ことローリエがいた。ローリエはいつもと同じような和風チックな服を着た、幼い子供の姿ではなく、今、十八歳くらいの少女の姿をとっていた。少女、とは言ってもかなり大人びた姿だ。紺のスカートに柔らかい藤色をしたブラウス。胸元には緋色のループタイ。髪は相変わらずとっぷりと黒く輝いている。
それ等だけが、辛うじてローリエだと分かる唯一の部品だった。奇異な部品の組み合わせであることは否定しようがない。カラコンとかを入れて同じ姿を取ろうとしても、無理だろう。限度があるものだ。
深緑の瞳、烏色の髪。見た目年齢を鑑みても、それはまさにお人形さん。
でも、白樹は憎いことに……奇遇なことにそれと同じ奇異な組み合わせの部品を持つ人をもう一人だけ知っていた。彼女の〈譲葉〉である彼女。その名は"千里アリス"。
世界は狭くて、運命は──酷。
身に染みて、思う。思わされる。
白樹は言葉を迷いながら紡ぐ。思考を悟られたくないから。
「特に用はない……んだけど、近くにいてもらいたいな、って思って」
嘘だ。白樹は自分でそう言っておきながらそう思った。ちゃんとした理由があって白夜に連れてくるように頼んだはずだ。理由を思い出そうとして、少し思考したがぼんやりとした頭がそれを続けさせない。
「白樹珍しいわね。いつもの余裕どこいったのよ」
形良い眉を寄せながら、間髪入れずローリエはそう返した。ローリエは白樹の頬が少し紅い事にしっかり気がついていた。隠そうとしても、彼女は肌が白いから否が応でも目立つ。ちなみに白夜は一人呑気に紅色を食べている。
──もしかしなくても。
ローリエは白夜の横を文字通りすり抜け、白樹の前に立った。テーブル越しに身を伸ばし、白樹の額に手をやる。ひんやりとしたローリエの手にホカホカした感覚が伝わってきた。
──熱い。
お湯が沸かせるかどうかで言ったら沸かせないけど(そういう問題では無い)、熱い。これは感覚論。
「風邪ね」
簡潔に言った。ローリエは何で気が付かないのよ、という意味を込めて後ろを振り返り白夜を睨む。白夜はそんな視線から逃げる様に明後日の方向を向いていた。
「あーそう言えば昨日の朝、雨に濡れていたねぇ。白樹」
「風邪、引いているとは……思わなかったわ……」
白樹は何も言い訳せずに認めた。
馬鹿兄貴は後で説教だ、とローリエは頭に手を置いた。
「まだ引き始めよ。そこに寝不足とか重なってさらに悪化しているのよ。て言うか何で兄様気づかなかったのよ。私よりも白樹の近くに居るでしょうに」
ピシャリと白夜をローリエは叱った。後で叱り直すがひとまず今、何か言わないと気が収まらない。言い返せず、素直に項垂れた白夜は、逃げる様に蝶になる。ピンと伸ばしたそれに黒い斑点こそ無いものの、見た目モンシロチョウそのものだ。
蝶は少し頬が赤い白樹に寄り添うように飛ぶ。そして白樹の掌に止まり、溶けた。文字通り、景色に溶け込むように。
「それが正しいわよ」
ふんとローリエは消えた彼に言う。強制的に眠りにつかされた白樹は目を閉じ、寝息を立て始めた。これで己が意思で白樹が起きる事は無いだろう。
それを後目にローリエはパチリと指を鳴らし、亜空間を展開する。
途端、風景がパッと手品のように変わった。テレビで場面が切り替わるようにパッと、一瞬で。
深縹色の夜空。恐ろしい程に満ち満ちているお月様で、兎がぴょこぴょこ餅をついているのがはっきり見える。大きなケヤキの樹を中心として広がる草原は、風に揺れ、さざ波を立てている。地平成まで続かんばかりのそれを遮る様に、大きな山々がぐるりと、意地悪に囲んでいた。
一軒の家がある。木造のそれは、昔ながらの雰囲気を纏っている。縁側があるだけの、だけど同時に懐かしさを感じさせる──ただの、家。現代にこそもう残ってはいないものの、翡翠にとっては狂おしいほどに愛しい家だ。
歩く。家に向かって。波を立てて揺れる草をなるべく、下駄で踏み潰さないように。
「優しいね、翡翠」
それは何について言った言葉なのか。翡翠の耳にそっとその言葉が飛び込んできた。
翡翠は焦点合わない淡緑をその一軒家に向ける。見計らったように、タイミング良くぴょっこりと兎……じゃない白夜が姿を見せてきた。今の翡翠のイメージに伴った雰囲気を見せる亜空間に影響を受けたのか、その姿はどこか古風だ。
白夜の薄赤い瞳が月を反射して煌めく。
翡翠が少し歩調を早め、少しして家に辿り着くと白夜は蛍と戯れていた。ふわり ふわり と蛍をまるで操るように。幻想的な淡い、それでいて明るい光が月と共に手元を照らす。
何時もの何処か幼さを残した口調で白夜は聞く。
「こんなところに住んでたの?」
「家はね。風景は違うわよ」
そっとため息を付きながら翡翠は答える。──この幻想には死体という風景は、無い。最初で最期であろうあの悲鳴も絶唱も、鼓膜を突き破らない。
ちらりと白夜は周りの風景を見た。暗闇で夜目を何となく効かせなくても、分かる。恐ろしい程に波打つ草原、ひっそりと佇んでいる巨大なケヤキ。四方を山に囲まれて、特に湖には地上の星々が静かに舞っている。夜空には人工的な光が無いからこそ見える見える零れんばかりの、星共。
亜空間だからこその光景である。もし現実にあったら"世界遺産"だとかにされ、"観光地"として人々に踏み潰されるだろう。代わりに"保護区"とかにされたら、きっとこの美しさは消え去る。皮肉なことに、守ろうとすればする程それらは残酷に滅びゆくものだ。その事実を白夜はその眼で沢山見てきたから知っていた。
──どんなに希って、期して、渇望して、祈って望んでも直ぐにただの肉塊と化していったあの光景。あの音と一緒に白夜を眠りにつかせてくれない。
二人は根本的に違えども、似ていた。
そんな白夜の一人思いを悟ったのか、悟らないのか。翡翠はボソッと言う。
「……綺麗でしょ。じゃなくて、ここの方が早いでしょ。たまには良いでしょ。白樹、精神的に疲れてたみたいだし。……風邪はそのままだけど」
布団で横になってすやすや寝ている白樹を、翡翠はちらりと見る。照れ隠しに直ぐに顔を隠し、いつかみたいに空を見上げる。
「………………」
蛍が、舞う。満月の前後で無いというのに月暈が煌々と空を彩る。翡翠は唐突に手──両手の人差し指、親指で大きな輪っかを作った。その輪っかで月暈を見たかと思うと、
唐突。
翡翠はその輪っかに息をそおっと吹き込んだ。何かを宿す様に、優しく。蛍は相も変わらずその手元を照らしていた。
息が吹き込まれた箇所を核として、カルメ焼きがプクりと膨れるように泡が現れた。まるでしゃぼん玉。それはプツりと翡翠の手を離れ、ほんのり吹いている風を振り切る様に浮かびゆく。
ふわり ふわり ふわり
屋根をこえた辺りで、
「待ちなさい」
翡翠はそっと命令する。果てがあるか分からぬ夜空に逃げようとしたそれは、その言葉にぴくりと戸惑った……様な仕草をした。
「今更、逃げようとなんて」
オモワナイワヨネ?
にっこりと翡翠は嘲笑った。
──主に成るべく人間に手を出したんだ。ちょっとやそっとのことじゃあ逃がしてやるわけにいかない。
翡翠が手を差し伸べるようにすると、泡は堪忍したように戻ってきた。
「翡翠、それ可哀想」
白夜は眉間を寄せながら言う。そういう白夜はくるりと人差し指で宙に円を描き、同じくそこに息をふきかける。唐紅の瞳が蛍の光を柔らかく反射した。
ぽうっと淡藤色の光が灯ったかと思うと、次の瞬間泡が白夜の手の上にあった。
「ほら、行きなよ」
白夜が泡に言うと、泡は真っ直ぐに、意思を持って翡翠の掌へと移動する。
やがて二つの泡が触れ合った。
パッと光が舞う。そして確かな質量を持って葉や蛍、雫の上へと金粉を散らした。
まるで再会を喜ぶように二つのしゃぼん玉は戯れ合った。




