キョウチクトウの雨 3
「結界擬きを壊した時、蒼が倒れて。亜空間で暫く休ませて。その後、接触があってからずっとあんな感じです」
「それで……術に負けたんだね。接触というのはなんだい?」
術に負けた。分かりやすく例えると、雨に濡れて風邪を引いた感じだ。雨に濡れて風邪を引く、術に負けて倒れてしまう。何ら差異は無い。
ポツリポツリ、と紫陽花から雫が零れ落ちるように瑠雨は言葉を繋いだ。話さなければ伝えられない。何があったのかを。何が起こったのかを。既にご飯は冷えていた。
「暁闇関係者です。……それしか思い浮かばない。雨の元凶……。蒼に取引しましょう、と」
懸命に伝えようとしても、意に反し、声はだんだんと尻すぼみになっていく。言葉が単語でしか出てこないのは、なぜなのだろうか。言葉が、声となる寸前で剥がれ落ちてゆく。まるで意志を持っているかの様に瑠雨に抗い、刃向かう。
瑠雨はそんな己に泣きたくなった。別に翁は泣いたって何も言わない。むしろ静かに温かなコーヒーを出し、慰めてくれるだろう。ただ、泣かなかったのは無駄に大きい矜恃がゆえ。
雨。その単語に翁は思わず眉を潜めた。
『雨』とは空から落ちてくる雫のこと。水滴のこと。不浄なものを洗い流し、また時として川や湖を氾濫させる。気まぐれそのもの。その実態は水素と酸素が結びついた小さな分子。塵も積もれば山となる。
翁の脳裏で、"同族嫌悪"という単語がぽっと現れ、消えた。そして、そこを核とする様にじわりじわりと何かが広がっていく。一滴の雫が土に滲むように、染み込むように。それは綺麗な絵の具ではなく、ただの汚泥、汚水。どこからその汚水が垂れてきたのか、翁は静かに探り始めた。
心当たりがないといえば嘘になる。
「蒼は、何て答えたんだい?」
「嫌です、と。その後ぶっ倒れやがりました」
瑠雨の唇からら少し……ほんの少し血が滲んでいた。ちろりと瑠雨が狡猾な蛇のようにそれを舐め取れば、残酷な程に甘い香りが腔内に広がる。
──さて、どうしたものかね。
翁は一口味噌汁を飲んだ。少なくとも蒼は暫く、絶対安静にしないといけない。多分元気になった瞬間、仲間の元に駆けつけるだろうが。ことりと翁は味噌汁を置いた。
「瑠雨、翡翠の方はどう動いてる?」
そう問うと、後悔の色に染められた猫目が直ぐに見返してきた。
◆■◆
「ね〜翡翠」
「……」
「ねー翡翠〜」
「…………」
「翡翠ってば返事してよ〜」
「うっさいわよ白夜。舌切り雀にしてやるわよ」
翡翠はナイフを白夜に突き刺そうとしながら言った。生憎な事に躱され、翡翠は思わず舌打ちをしてしまった。翡翠はごくいつも通りに見えた。だが、白夜が見る限りそれは嘘だ。
「翡翠、無理してない?」
白夜の煌々とした色の薄赤い瞳は、真っ直ぐに翡翠を見据えながら言った。翡翠に遠回しな、誤魔化したような言葉は通じない。白夜は翡翠からナイフを奪い取ると、正面に立った。
翡翠は白夜のその言葉に、仕草に少し心臓が止まるかと思った。──白夜が怒っている。思わず一歩下がった。そして小さな声で答える。
「してないわ」
目を逸らしながら。
「ほんと?」
胸の奥がちくりと傷んでも。
「ほんとよ」
この言葉は嘘ではない。
「性格ねじ曲がってるね、翡翠。正直に言いなよ」
逃げようとしてもしつこい程に白夜は追ってきた。ため息をつかれ、翡翠は思わず刃向かう。
「白樹に無理やり女装させられてる感じ装って、実際は楽しんで女装していたどこかの誰かよりは、ねじ曲がってないわ」
一息に言った。
「………………」
白夜は翡翠から目を逸らした。身に覚えがあり過ぎて耳が痛いのだ。例え語弊が入っていたとしても。
「でも、さ。翡翠ならもっと上手くやれるでしょ? 何も人一人長く生かすために無理しなくたって……。最悪媒体をもうひとつ……彼女を使えばいいのに」
そしたら翡翠の負担も大分減るのに……という意味を込め、翡翠に白夜は進言した。
「白夜兄様? お口閉じてくれないと怒るわよ。人間に、必要以上の人間に……関わってはいけないって身に染みてるのは私だけじゃないはずよ」
「そう、だね」
最近白夜はやたらと過去を思い出す。きっかけが最近多くて。記憶処理は万全万能では無い。たった一つの些細なことで溢れてしまう。それはダムが決壊する様に。
きつく言いすぎたと(珍しく)反省したのか、翡翠は声のトーンを抑えて一言謝罪代わりに白夜に言う。途中、形勢逆転していることに気がついたが気にしなかった。
「夏よ。夏までにはこの状況、終わらせるから」
鈴がなる。チリィンと可愛らしい音で。
白夜は目を見開いた。
翡翠の唇から出てきたのは、とある人物の死刑宣告に等しかったから。