キョウチクトウの雨 2
──自己犠牲。そんな事をして誰が喜ぶと思うんだ?
昔、一度だけそう怒られたことがある。結構傷ついた。だってそんな事考えてなかったから。でもね、後悔してない。あの時はそうするしかなかったから。
例え、後で泣かれても。
■◆■
「ん……」
少し夢を見ていた気がした。昔の夢。
蒼はパチリと眼を開いた。碧眼が最初に捉えたのは暖かな木彫の天井。どこかアンティーク味を帯びた室内灯は、柔らかく部屋を照らしていた。蒼の体を受け止めているらしいソファは、程よい弾力を持っている。ふんわりと漂っているコーヒーの香りと薬っぽい香りは、ここがどこかというヒントを与えていた。
「いったい……」
何が起こったと言うのだろう?
蒼は頭を抑えながら起き上がった。左脳の辺りが鼓動に合わせて、ズキンズキンと痛む。耐えがたいその痛みに、蒼はもう一度ソファに身を預けた。
──頭痛薬欲しいな
瑠雨の姿を視線だけで探したが、近くには居ないらしい。少し寂しさを感じた。近くにあったクッションを抱きしめ、頭痛に耐える。
ここがどこかは、ヒントのおかげですぐ分かった。
蒼達がさまよっていた路地裏を正確に進めば、大きな酒樽を見つけることができる。その脇に──適当に立て掛けられている木の板をずらすと、壁と同化している灰色の扉が現れる。そこを開け、進んだ先にまた扉がある。どこかの童話に出てきそうな小洒落た扉が。蒼達にしか渡されていない、これまた可愛らしい鍵を差し込み、回す。するとカチャリとした音とともに鍵が解除され、扉が開く。
そうして辿り着く秘密の部屋は蒼御用達の喫茶店だ。そして、蒼が第三の家と思っている場所でもある。ちなみに第一は研究所、第二は千里と共有している森の一軒家だ。
蒼は本気で何か考えたい時や、何かから逃げたい時、意味無くここを訪れる。ここに何時も漂っているコーヒーの香りが好きなのだ。ここ、うさぎ穴に瑠雨が運んでくれたという事は間違いないだろう。
そう言えば昨夜は雨がすごかったな。ぼんやりと蒼は思考を飛ばした。今も降っているのだろうか。降り注ぐ雨の音が聞こえる気がする。
──あれ? 何か忘れてる気がする。
蒼の記憶の片隅を小鳥がコンコンとつついて刺激してくる。"思い出して! 思い出して!" と。
──う〜ん? 何を思い出すの?
何を忘れているのか思い出そうとする度、頭痛が己をアピールしてくる。思い出しちゃダメ 思い出しちゃダメ! とでも言うように。
刹那。耳元で鐘がいきなり鳴らされたように、蒼の脳内で何かの音が響き渡った。ヒュッと蒼は息を吸う。頭痛を忘れ、胸苦しさを消そう と、隠そうと、忘れようとクッションに頭を埋める。頭痛は消えない。痛みのあまり、目に涙が溢れてくる。そして蒼が言い難い寂しさを感じ始めた時、奥の扉が開いた。クッションに顔を埋めていた蒼は気が付かない。
開けた主はそんな蒼に近づき、頭に手をぽんっと置いた。温かなその手に思わず蒼は我に返り、クッションから顔を離す。そして降ってくる声。
「おはようございます、蒼。生きてる様で何よりです。いつもの薬と頭痛薬ですよ。安眠剤も貰ってきましょうか?」
蒼を上から見下ろしながら瑠雨は、いつも通りニヤリと笑った。
「……瑠雨〜」
「わっどうしたんですか蒼」
「ナイスタイミングだよ〜」
蒼は瑠雨に抱きついた。何となく事情を察した瑠雨はぽんぽんと背中を叩いて、体を離してやる。まずは薬を飲ませないと。
「ほら蒼。薬飲んでさっさと寝やがれ下さい」
瑠雨は水といつものお薬と頭痛薬を渡した。素直に飲み終えた蒼は、一つ瑠雨に聞いた。
「翁は?」
「……今は出かけてますよ。寝てれば帰ってきます。寝なさい」
「薬飲んだから大丈夫」
薬を飲んだことをいい事に起き上がって、立ち上がろうとした蒼のこめかみを瑠雨は押さえつけた。昨夜の出来事のおかげで、蒼は暫くお薬生活だ。また薬をのみ続けなくてはならない。
──タイミングが悪すぎた……。
最近ようやく飲まなくても安定していたのに。ちくしょう、と瑠雨は髪をかきあげた。動揺すると誰にも見せないはずの素が出てしまう。
幸いな事にこちらの事情に気が付かず、起き上がろうとする蒼を一度瑠雨は叱り飛ばす。そして止めとばかりにふわふわの毛布をパサりと、ふわりと掛けてやった。すると途端に動かなくなる。猫の世話をしている気分だ。
そのまま蒼が起き出さないのを再度確認してから、瑠雨は部屋の外へ出た。すぐそこの壁に一人の老人がもたれかかっていた。
「瑠雨、コーヒー飲むかい?」
「飲む」
唐突に差し出されたそれを有難く受け取り、瑠雨は美味しく飲んだ。差し出した人物──翁はこの不思議な家の一人主であり、また蒼達の保護者のような役目も負っている。瑠雨が懐いている唯一の人物でもあり、そして翁もまた蒼や瑠雨達の詳しい事情を知っている唯一の人物でもあった。
瑠雨が〈蝶〉という異質な存在であり、娘の様に可愛がっている蒼に取り憑いているという事実を知って尚、息子同然の扱いをしてくる。
最近でこそその扱いに慣れてきたが、心情は複雑極まりない。今まで瑠雨のことをそういうふうに扱った人は殆どいない。
そして蒼達の保護者。その意味は。
「蒼は──起きてたかい?」
翁は少し心配そうな声色だった。瑠雨はそれを知ってか知らずか、思わず厳しい顔つきになってしまう。
「起きてました。ただ……タイミングが悪すぎました。本当に。完治にはまた時間がかかりそうです」
「瑠雨、少し座って話そうか。ここじゃあ、蒼がいつ聞き耳立てるか分からないからね」
「……ですね」
結構長い廊下を二人は移動する。木の匂いが漂い、また置いてある家具の趣向から家主の人柄が分かるというものだ。
家主──翁はコーヒーが好き、漢方等の植物を扱った薬も得意。蒼に植物が使う毒を教えたのも彼だし、研究所に紹介したのも彼だ。瑠雨が現代に馴染めているのも、違和感なく溶け込めているのも、その為に必要な術を教えたのも全部彼。よく考えなくても、めちゃくちゃお世話になっている。
ついで言うなら、蒼やその弟に虫取り網とか使う昆虫採集を教えたのも翁である。かつて、草原で蝶姿の瑠雨が追いかけ回されたのは笑い話だ。蒼と知り合うきっかけにはなったが。
瑠雨は目を瞑った。いつかまた、そんな日が訪れればいいのにと。心の底からくつろげる穏やかな日々が戻ってくれば良いと。
でも、過去は帰ってこない。どんなに狂おしいほどに幸せだったとしても。
翁は茜色のガラスが嵌められた扉を押した。その先にあるのは普通の生活スペース……のはずなのだが、所狭しと本が置かれている。日に当たり、色褪せた本達はどこか威厳を持ってそこにいる。日焼けもあまりしていない若い本達は、手身近な場所に置かれていた。
"本の虫"、そう呼ばれる類の人が目にしたら幸せのあまり気絶しそうな空間。そんな光景を見た瑠雨は、思わず目を疑った。前に来た時の状況は良く覚えてないが、少なくとも本の山は天井スレスレではなかったはずだ。本棚は最早、意味無い邪魔な家具と化している。
そんな瑠雨の脇で翁は自慢げに言った。
「大分減っただろう? この間頑張ったんだ」
"頑張った"
その言葉の意味を瑠雨はワンテンポ遅れて理解した。そしてもう一度部屋を見渡しす。……なるほど、言われてみれば乱雑に置かれていた本達はきちんと分けられ、積まれている。
ただ、
──本が減った?
いや、逆に増えている。目をぱちぱちさせ、更にもう一度部屋を見渡す。どうやら積み重なっている本は幻影では無いようだ。瑠雨の脳内を"リバウンド"という単語が、点滅しながら流れた。
瑠雨は最早どう突っ込むべきか分からず、何も言わずにいた。今下手に思ったことを言うと翁が傷つくのは、明らかだ。それなら無言を貫くべし。そんな瑠雨に翁は声をかけた。首を少し傾げながら。
「どうしたんだい。瑠雨? ……そうだ。昨日ずっと薬草の本と向き合って疲れただろう? ご飯食べようか」
その台詞は同意を求めている様で、実際はその言葉に瑠雨が関与するのは許されない。"疲れただろう"、その言葉に瑠雨は言い訳しようとした。だって、蒼があんな状況なのにお腹空くはず無いんだから。というかそもそも瑠雨達はあまり食事を必要としない、
でも、言葉は言うことを聞かない。声として発せられる直前で言葉は抵抗した。
「……そうします」
外では雨が降り続いていた。きっとカタツムリはコンクリートを這い、紫陽花は雨に濡れ、更に魅力を増していることだろう。瑠雨が時計を見ると、針は夕刻を示していた。どうやら今晩もここに泊まることになりそうだ。それは別に良いのだが、暫く研究所に足を踏み入れてない。それは大変宜しくなかった。このまま顔を見せないでいると、次訪れた時に恐怖の罰ゲームを食らわされることになる。
それは大変宜しくない。瑠雨の心身的に。
白樹や白夜辺りに頼み、連絡してもらうか。それとも蒼を置いて、自分だけ少し顔を出しに行くか。否、後者は有り得ない。それは蒼を見捨てるも同然。気が進まないが適当に言い訳をつくり、研究所に連絡を取り次いでもらうのが無難だろう。
ようやく考えがまとまり、瑠雨はこっそりため息をついた。別ベクトルにお腹が空いてて。今日のご飯。味噌汁、サラダ、漬物、魚。そしていくつかの鉱物。
サラダはこのラインナップにいらないのでは無いかと思いつつ、瑠雨は雨色を一粒口に入れた。
「蒼にも食べさせたいんだけど、あの状態じゃあ無理だね」
翁はちらりと昨夜を思い出しながら、ボソリと言った。
──昨夜、瑠雨は蒼を背中に担ぎやって来た。簡潔に述べれば、蒼が術にまた負けていた。また。いったい何があったのだろうか? 瑠雨もその後倒れ、蝶と化した。蒼を運んだことでだいぶ疲れてたらしい。こっちは大丈夫。こっちは。
「予想外でした。と言うより術にかかってる事にすら、最後まで気が付きませんでしたから」
不覚でした、と瑠雨は自嘲した。
「そう言えばその時の話、聞いてなかったね。聞かせてもらおうか」
翁は味噌汁をテーブルに置きながら瑠雨を見た。瑠雨は自棄になったように、淡々と言葉を紡ぎ始めた。
「ここに来る途中──繁華街出た途端、雨が降り始めたんです。多分その時から術にどっぷり嵌められてたんだと思うんですけど。架空の……仮想の雨で思考が鈍って、同じ路地裏を何度も歩いてました」
蒼がカタツムリをつんつんし始めた辺りでうっすらと同じ道を歩いているのではないか、と気が付き始めていた。だってカタツムリは途絶えることなく壁にいたから。瑠雨は過去の自分にムカムカしながら言葉を紡いでゆく。
──もっと早く違和感を感じてればこんな事にならなかったのに……!
後悔ばっかり。
瑠雨はガリッと瑠璃色を噛み砕いた。