キョウチクトウの雨 1
槻が組織建物を訪れる前日、蒼と瑠雨はいきなり降り始めた雨にからかわれていた。
唐突 俄 矢庭 行成 豁然
そんな言葉似合う程度に雨が降り始めた。天気予報では、確か今日一日晴れだったはず。だが、天気予報を無視して梅雨前の最後の晴れは終わったらしい。降り始めた雨に文句を言い、どこともなく感じる違和感を隠しながら吉野蒼は空を仰いだ。空の星々はどこかに身を隠し、さっきまで見えていた月は雲に隠されていた。
かつて夜という領域に抵抗するため、光を呼ぶ為に置かれた蛍光灯は今となっては寂れた路地裏を不気味に照らし、夜という領域を助長している。
蒼と彼女の〈蝶〉である瑠雨はそんな中ただひたすらに歩いていた。傘などは持っていない。だって雨降るなんて一言も言われてなかったから。置き傘? 何のことだろうか。繁華街という屋根のある場所から路地裏に入った途端に雨が降り出すなんて今日は厄日決定待った無し。
薄暗闇の中、路地裏のひっそりとした紫陽花だけが色を持っていた。その葉をカタツムリが楽しそうに這う。一定間隔で壁にいるカタツムリ達の間には何か仲間内のルールでもあるのだろうか。
──そういや小さい頃カタツムリの眼をつついて遊んだっけ。いつからそんな事をしなくなっただろう?
蒼は雨に濡れながらぼんやりとそんなことを思った。
「……蒼。カタツムリが可哀想です」
「でーんでん虫虫かたつむり〜お〜前の目玉はここにある〜」
「……蒼?」
「何? 瑠雨。もしかしてカタツムリつんつんしたいの? 自分で探してね。いっぱい壁にいるから」
耐えきれずカタツムリの目玉をつんつんつんつんし始めた蒼は楽しさの余り、片っ端からカタツムリをつんつんつんつんし始めた。カタツムリにとっては迷惑極まる行為に間違いない。
「……違います。てか無理やりテンション上げる必要無いと思うんですけど」
「いや、だってねぇ? 雨って憂鬱じゃん。しかもいきなり降り出し始めやがったし。無理やりテンション上げないとやってけないよ」
カタツムリから手を離した蒼は適当に路地裏を曲がった。傘をさしていない二人はびちゃびちゃに濡れ、冷えきっていた。大きな樽があれば目的地についたと分かるのだが、あいにくの雨で視界が悪く、さすがの二人でも中々見つからない。
──そろそろ、の筈なんですけど。
瑠雨は雨に悪態をつく代わりに舌打ちした。雨だから、と言い訳するには何かおかしかった。
雨はだんだんと強くなり、風も強く吹き始めてきた。それでも二人は暗闇の中足を止めずにただひたすらに目的地を探す。──どのくらい進んでからだろう。ふいに瑠雨と蒼の足が同時に止まった。何も無い、様に見えるただの路地裏。
二人は一歩後ろに下がるとお互い頷き、そして辺りを見渡した。瑠雨はそこら辺から適当な石を持ってくると、二人が足を止めたその先にポイッと投げた。
「遅いですね」
「ビンゴ」
石は軽く放物線を描く事なく、ある場所で垂直にぽとりと落ちた。なかなか目的地に辿り着かないと思われる要因を見つけ、蒼と瑠雨の目には殺意が灯された。
蒼は瑠雨に指示を仰ぐ。
「どうすればいい?」
「壊しましょう」
瑠雨はどこからか石灰質の柔らかい石を見つけてきた。そして慎重にそれで路地裏のアスファルトに線を書く。白い線は雨で溶けるように流れていき、直ぐに何も書かれていなかったかのように消えていった。
「わっ」
バチッバチッ
雷電が空から激しく落ちてくる雫に抗う様に宙を走る。瑠雨はそれに触れず、ただ消えるのを待った。
やがて滲むように現れたそれを見、瑠雨は思わず顔をしかめる。そこに何か"やばいやつ"とか"触れたら終わりなやつ"があるとしか感じなかった蒼は、訳が分からず瑠雨が何か言うのを待った。
「捕獲用の結界擬きですよ、蒼」
「結界擬き? 結界ってアレ?」
「ですです。いつものアレですアレ」
「アレかぁ」
慎重に瑠雨はそれをなぞった。雨の中でもそれ自体が不思議に光っているから容易に確認はできる。円の中に五芒星、六角形、星みたいなマークが欠かれている。そしてそれぞれの間に良くわからない文字列が書かれている。
──魔法陣。
少し厳しめの顔をする瑠雨の脇では蒼が頭痛に顔を歪めていた。瑠雨が言った"結界擬き"という単語が原因だろう。少なくとも蒼達〈蝶使い〉は魔方陣を使わないのは確かだ。
気づけ気づけと蒼の脳内で赤ランプが点滅していて、うるさい。
「……っ」
────『何か適当な術者とかの結界擬きに入ったんじゃないですかね。それでも、翡翠が見失うということはかなり高度な術者になるはすです』
『術者?』
『日本で言うと陰陽師とか呪術師とか言うあーゆー奴らですよ、蒼。御伽の超劣化バージョン使うあれですよ、あれ』────
脳内で蘇ったその声にヒュッと息が詰まった。時間が止まったように感じるのに、心臓はその感覚に従わない。憶測と事実を照らし合わせるのが怖くて恐くて……蒼は思わず身震いした。ただでさえ冷えて麻痺していた体から、だんだんと感覚が無くなっていく。
「……お、蒼。起きてください」
耳元で声がした。少し低めのその声はもちろん瑠雨。
パチリ
蒼はいつの間にかに閉じていた眼を開いた。青空が広がり、風が髪をそよいでゆく。大きなくじら雲は子分のような小さな雲を引き連れて、空を横断中だ。
恐らくというかここは亜空間。瑠雨が呼び出したのだろう。蒼はいつの間にかに横たわっていた体を起こした。服も乾いて、髪も乾いていても動機は止まっていない。
──でも、だいぶおさまったのかな?
たくさん時間が過ぎたようにみえるが、結界の中なら関係ない。亜空間では時間という概念は無いも同然なのだから。数ある草花の中、皮肉げに蒼の脇で時計草がくるりと咲いた。でもこの花の時計の針は動かない、動けない、枯れたらお終い。
「珍しいですね。蒼があんなに取り乱すのは」
珍しいものを見た、とでも言うような瑠雨の黄色の猫目に、蒼は苦笑いを返した。蒼は生きているし人間だから感情は沢山持っている。負の一面を表に出さないだけで、本当は凄く……凄く不安定だ。心の中で罵詈雑言から始まって暴言悪態癇癪は当たり前。心の中で思っていることと正反対の事を口から出すなんて日常茶飯事、朝飯前。
「そりゃ、ね? 私に初めて接触あったんだから。心の中感動の涙が炸裂してキャパオーバーするよね」
蒼は立ち上がった。少しふらりとしたが意識はしっかりしている。心臓の動機は止まっていないけど、もういい。これ以上瑠雨を心配させる訳にはいかなかった。ただでさえ心配させまくっているのだから。
いつかの白夜がしたように瑠雨が結界を解除した。とろりと空が溶け、景色がだんだんと消えていく。最後の亜空間は雫となり、落ちて消えた。閉じていた眼を開けば、蒼達は再び雨降る路地裏を踏みつけていた。結界の中で、乾いていたはずの服は何事もなかったかのように濡れたままだ。
風は吹き荒れ、雨は変わらず地面を殴っていた。厳密には地面、ではないか。路地裏全体が浸水しているから、辺りに見えるのは全て水たまりだ。
少し時が経っても蒼と瑠雨は壊した魔法陣の前から動かなかった。瑠雨達が目的地に辿り着けなかった理由はただ一つ。
この路地裏が迷路にされていたから。それはまるで適当に誰かが作った問い掛けの様に、いつか存在したあの迷宮の様に。
答えが、無い。自然界でそこら辺の路地裏が突然迷路になるなんて有り得ない。もしそんな事が許されるのなら、世界の混乱待ったなしだ。
そして結界内こと亜空間で二人の服、髪、肌は乾燥していた。濡れていなかった。普通、何か特別なことをしない限り、亜空間では現実の姿がそのまま反映される。現実で怪我をしたなら亜空間でも怪我をしたままだし、口の端にビスケットの粉がついていてもそのままだ。現実で雨に濡れたなら亜空間でも濡れたまま。
──つまりこの土砂降りは。
──そろそろお出ましになってくれないと、しがに風邪引いちゃいますね、蒼が。
ちらりと瑠雨が隣の蒼を見ると唇が少し青くなっていた。それでも、意地だとでも言うかの様に、彼女の碧眼は煌々と強い光を灯している。
そんな二人の背後に、人影が一つ迫っていた。恐らくと言わずもがな、その影が迷宮の主、つまり元凶に間違いは無い。事実、少しずつ地面を殴っていた雨はその勢いを落としている気がした。視界が少しくっきりたしてきた。今も尚、不気味さも暗闇も助長している蛍光灯は、チカチカ無意味にやっぱりそこにいる。
「……これは驚いた」
その言葉が真後ろから二人に投げられた。背の高い男が一人、ゆったりとそこにいる。着物調の服を着た男は眼鏡をくいっと優美にあげると、二人を見据えた。そして開口一番賭けをした。
「取引しましょう」
「何を、かは聞いてもいいけど……嫌です」
蒼は即座にそう言った。その口調は一切の介入を許さない。瑠雨はその根性に呆れ、蒼を見た。が、瑠雨の呆れ顔は蒼を見た瞬間変化した。
──蒼はもう限界です。
いつ倒れてもおかしくない。それでも尚、気丈な振る舞いをする彼女を瑠雨は、馬鹿としか思えなかった。耐えて何になると言うのだ。限界なら言えばいいのに。この雨は瑠雨が片腕振れば、消し去れるものなのに。
「まずはここを解除するのが先です。いつまでも幻想の雨に濡れっぱなしだと気持ち悪いので」
蒼は瑠雨にそんなことさせたくないという。そして、顔色悪い蒼は次の瞬間倒れた。