諜報組織3
男に近づいた白夜は手を軽く振った。ふんわりと。優しく。そして男の瞼がとろりと下がり、閉じた。直ぐにスースーと寝息が聞こえてくる。始終開かれていた本がパタリと閉じられた。その空間にのみ、形容し難い厳かな雰囲気が漂う。
「いいんだね?」
白夜は最後に一回だけそう確認した。本当に確認しただけ。聞いただけ。本当は白樹が何を言おうとも、目の前にぶら下げられた人参を食べるくせに。
白樹が迷いなく首を縦に振ると、白夜はすぐに男の体をそっと撫でた。いただきますと唇だけで言いながら。口角を上げながら。
途端、柔らかい光が宙に踊った。男の体から光が剥がれ、舞い散っているのだ。蛍が何匹も飛び交っているようなその光景は綺麗で、そして儚い。でも実際は残酷で残虐な光景だ。魂を吸い取る……奪っているのだから。殺人現場と何が変わらないのだろうか?
やがて寝息を立てていた者の姿は居らず、その空間には光の粒が暖かく踊るだけとなった。
白夜はそれを"吸収"した。手から腕から全身で。
「うん、そこそこ美味しい」
やがて光が無くなり、部屋に仄暗さが戻ってくる。白夜はご馳走様とでも言うかのように手を合わせ、ちろりと唇を舐めた。そして顔を上げ、白樹を見た。白樹はぼんやりと焦点が合わないオッドアイで白夜の薄紅い瞳を見返している。
「ど、どうしたの? 白樹」
「……私もいつか食べられちゃうのかなぁって。でも死ぬならそんな死に方も悪くないなぁって」
「らしくないよ、白樹。頭イカれた?」
ふっと白樹は笑った。白樹はとうとう頭がイカれたらしい。白夜は一歩退いた。──どうしようこれ。ダメ押しと言わんばかりにオッドアイはフラフラと揺れている。
〈蝶〉達の食事シーン見て恍惚とした表情で気絶したり、鳥みたいに羽ばたきだしたり、柱に頭をぶつけ始めたという事例は聞いたことはある。しかし酔っ払った様な状態になるという事例は初めてだ。ましてや白樹。彼女は何回も食事シーンを見たことがある。別に初めて見た訳では無い。
──今更過ぎない?
最近白樹は寝ていないのもあって疲れているのかもしれない。何か急に考え始めて自分の"影"を蒼にまわし始めるし。肉料理が好きだったのに最近魚料理が好きになるし。まぁ、現実逃避に走って悟りを開こうとするよりはマシか。
とにもかくにも最近の白樹おかしい。中身が誰かと入れ替わったみたいに。そして酔っ払ったならそろそろあの質問が必ず……
「ねぇ、白夜。どうして私を選んだの?」
ほら来た。白夜は体を預けてきた白樹の頭をヨシヨシと撫でてた。この、恐ろしい程のかまってちゃんは今日は特に糖度を増しているらしい。例えるなら楓糖。白夜は白樹に好きな様にさせてやりながら、そっとため息を吐き出した。
「魂が美味しそうだったからだよ」
一概に嘘とも言いきれない答えを今日も返しておく。下手に嘘をつくよりも断然ましな言い訳。返事は……返ってこない。代わりに──更に重みを増した体が白夜にもたれかかってきた。
「寝てるし」
何でこんなところで寝れるのだろうか。暫く考え、白夜は白樹の神経が図太いからというどうしようもない結論に至った。
白夜達〈蝶〉は基本的に睡眠を必要としない。時折、瑠雨の様に寝るのが大好きな〈蝶〉もいるが寝なくても生きていける。翡翠もつい最近まで寝ていたがあれは別だ。己の活動を停止。冬眠状態……に近い。
白夜は人知れずこっそりとその特異な体質に感謝していた。
だってそのおかげで狂わずにいられるのだから
白夜が少しでも目を瞑り、夢現の世界へ意識を飛ばそうものなら忌々しい笛の音が聞こえてくる。白夜をも誘おうと。
綺麗で愉快、そして悍ましい音。"その頃"の白夜は足を怪我していたので難を逃れた。──たった一人だけ。
他の子供達は皆、皆連れてかれちゃった。
「……白樹起きて」
白夜は白樹のほっぺたをペちペちと叩く。むに〜って引っ張ってみたり、デコピンをしたりしてようやく白樹は一時的に再起動した。
「ほら、部屋戻るよ。そしたら寝ていいから」
◆■◆
「ん〜〜〜!」
呻き声は何かを訴える。
「うん?」
呻き声の延長線にいる少女は包まっていた布団から顔を出す。呻き声の主は言う。
「か え せ」
「……ふぁいとーー! 何事もやった者勝ちである。槻、頑張りたまえ」
「朱里ーーーーーー!!!」
その大声によって窓の外にいたハシブトガラスは迷惑そうに飛んでいった……気がした。
槻の部屋は組織内建物B棟と呼ばれる場所の二階にある。南側の端っこの方のその場所は窓が大きく取られており、とても心地よい。……夏は暑いのだが窓は開けたくない。蚊が血を目当てにやってくるから。でも文明の利器"クーラー"は味方だ。夏に涼しい風を送ってくれる。
部屋と言っても一人部屋ではなく二人部屋。入る組織が決まった後、ペアを適当に組まされる。そのペアが相方──ルームメイトとなるのだ。俗に言うベッドバディである。
二段ベッドを仲良く分け合い("時々"上下でバトルする)、寝坊したら共に起こし合い("時々"意地悪する)、時折喧嘩もするけれど(主に隠していたお菓子が無くなった時)直ぐに二人仲良しだ(大抵別な場所から見つかる)。
決して広くない共同部屋を幼い頃から分け合う二人は時間が経つにつれ本当の兄弟、姉妹の様に仲が良くなる。そんなナイフを飛ばし合うまでに仲良くなった槻の相方は朱里という。
「それ!!! 私の布団!!!」
槻は手近にあったクッションを勢いよく投げた。ブオンという柔らかい物にしては色々あれな音を立て、宙を切っていく青いクッション。
「この時期湿ったら可哀想かなぁって出したげてたのよ? 虫干し虫干しうんあたし凄ーく優しい」
しっとりとした声とともに返ってくる青いクッション。槻はそれをむんずと受け取ると全身の筋肉をしなやかに使って投げ返した。
「それはありがとーーー! だけど洗い立てほやほやーーー!」
もう一回ビュオンと風を切る涙目の青いクッション……とその影から容赦なく投げられるピンク色のハート型クッション。朱里と呼ばれた少女は片手で一つずつ受け取ると、丁寧に一個ずつ槻に投げて……返さない。返してやったってどうせまた戻ってくるんだし、それなら返さなくていいやと思ったまでである。
その直後、若干キレ気味な声とともに風を切り裂き飛んできたナイフを朱里はクッションでガードした。そして次のナイフが飛んでくる前に二段ベッドへ逃げる。一応そういう中の二人の間でベッドにいる間は攻撃禁止というルールがあった。
二段ベッドの上は過去、朱里の勝ち取った場所である。最初、上下で槻と揉めた事があった。しかし最終的に厳正な監視の元、ジャンケン大会にて朱里が勝ち取ったのだ。
「ちょっと槻! ナイフは物騒だよ!」
ナイフが突き刺さったクッションの間から朱里は少し顔を出した。ハート型のクッションと青いクッションは泣いている。
「んなもん知るかーーー! 毒矢じゃないだけ感謝しやがれ!」
「それならあたしも出るとこ出るわよ!?」
「既に出てるじゃん?! ねぇ!」
「うん。槻とは違うから」
朱里はちらりと槻の胸元を見た。すとーんである。すとーん。それに比べ自分の胸元はどうか。うん、大きすぎず小さすぎず程よい存在感がそこにある。思わず朱里は槻に同情の目線をプレゼントしてしまった。
「……なっ……?! いや、違うし! 違うもん!」
朱里の綺麗な茶色の髪は波打ち、背中の真ん中程まで伸びている。たっぷりとした睫毛に縁取られた鳶色の明るい瞳は意志の強さを反映している。同性異性関係なく"美人"と評する容姿を朱里は持っていた。そして槻はよく彼女を『もっふもふでふっさふさの血統書付き暴れん坊猫』と例える。"暴れん坊"ここはラインマーカーを引く事を進める程度には重要な箇所である。
「ほら、あれよ、槻。ナイフは投げちゃいけないのよ」
「……違うの? ナイフは投げるものでしょ?」
唐突に諭されるように言われて槻は少し首を捻った。ナイフは投げるものじゃなかったっけ? そんな槻の耳に二段ベッドの上から大きな溜息が聞こえてきた。
「違うでしょ」
「……そっかぁ?」
槻がいまいち納得出来ないという返事をすると二段ベッドから朱里が飛び降りてきた。朱里はクッションに刺さったナイフを引き抜き槻へ投げて返す。ナイフが引き抜かれたハート型のクッションにはただただ穴が残っていた。
「ほら、これ縫っておきなよ」
ナイフを片付けたのを朱里は確認するとハート型のクッションを槻へ投げ渡す。上手く隠されているがそのクッションには幾つも治療された跡が残っていた。