諜報組織2
白樹は静かな廊下を音なく白夜と歩いていた。出来れば白樹も眠りたかったのだが、次の予定がいつ入るか分からぬ今出来ることはやっておきたかった。
「……こんなに人がいない日も中々ないわね。人が出払ってるのかしら?」
「確かに。でも白樹、今明け方だから皆寝てるんだと思う」
柔らかい綿に包まれたような声で白夜は言った。ふわりと欠伸をしながら物凄く眠そうに。白夜は眠れないが、そこそこの眠気は感じるらしい。ここ数日、二、三分間目を閉じているのを白樹は目撃していた。
ちなみに二人は今、時計を持っていないので時間は白夜の感覚論だ。
「なるほど。だからか」
ぽんっと白樹は手を打った。シンシンと雪が降り積もった冬の朝の様な静けさ。耳をすませば血液が巡り巡っている音まで聞こえそうな気がする。
その音さえも、話し声さえも廊下に反響……しない。ここ諜報の建物はひときわ特別なつくりとなっている。音が反響しない廊下、一つも無い監視カメラ、そして幽霊でなくともやる気になれば簡単に侵入出来る出入口。まるで……というかまさに"どうぞご自由に侵入なさって下さい"と言わんばかりの造り。どこぞの怪談の様だと思ってはいけない。
なぜそんな造りか。
簡潔に答えを述べるならば、組織の仕事を減らすためである。
二種類の氷があるとする。北極南極にあるような分厚い氷と冷凍庫に常備されている様な適当な氷だ。
氷を溶かすにはどうすれば良いのか?
方法は幾つかある。炎で燃やしたり、放置したり、かき氷にして加工し美味しく頂いて胃の中で溶かすのも変化球として面白いかもしれない。様々な方法が本当にたくさんある。
──なら手間はどうだろう?
冷蔵庫にあるような氷だったら何も手を加えなくても勝手に溶けて消えてくれるかもしれない。ただ、それが分厚いカッチカチに凍らされた氷だったらどうだろうか? この場合、氷は分厚く固いという自己防衛をしている。それなら溶かす側もそれ相応、それに見合った事で対抗しないと溶かすのは難しいだろう。
何が言いたいのか。自己防衛をしていればしているほどに敵はそれに見合った策──それ以上の策で突破を目論む。更に言えば、自分たちが何か突破されないように対策を練り、防御を固め、身を守ろうとするほど敵はそれを上回る案を出し、突破しようとする。それは自然な行為。そして恐ろしく危険。
大抵どちらかがその途中で勝負は無駄だと悟り、無意味だと気が付き白旗を上げるだろう。
でも、この広い世界、そんなことが通じないことがある。
どうすれば良いか? 組織は考えた。出た結論は至極簡単で簡潔で分かりやすい──敵が入ってきやすい様に自己防衛しないというもの。それなら敵も凝った策を投げつけて来ないはずだ。そして人は逆に問題が簡単だと、裏に何かあるのでは無いかと疑ってしまい動けなくなるものである。
「まさかここに侵入者が本当に来るとは思わなかったわね」
白樹は楽しそうに言った。その目は笑っていない。
「……そう言えばそんなこと聞いたね」
白夜がすうっと目を細めた。馬鹿だね、とでも言うように。二人は階段を降り、地下へと向かっていく。最低限にしか付けられていない明かりはどこかおどろおどろしい雰囲気を醸し出している。しかしこれは今、人が少ない時間だから照明が抑えられているからであって、普段からこんな訳では無い。
──幽霊が出ても驚けない雰囲気。白夜はどこかひんやりと首筋を撫でられた気がした。隣の建物が建物なだけあって一概に影響を受けてないと言えないのが憎い。むしろ殺された霊達はもっとアピールしても良い気がする。
「〈黄昏〉に忍び込んで生きて帰れると思ったのかしら?」
螺旋階段を更に降り行く。鉄製の手すりは触れるものの体温を奪い、忌々しい鉄の匂いをつける。
「さあ?」
──地下牢。彼はそこに放り込まれていた。
「聞いても意味無いんだけどね」
白夜がその顔に似合わない残忍な哂を浮かべた。その顔を見た白樹もふふっと笑う。白樹の銀髪は暗闇で光っていた。
戦闘機関系列のどの建物にも"地下室"と呼ばれる場所が義務的に設けられている。地下室──それは地下牢とも呼ばれる。
整えられた空調、柔らかい雰囲気を醸し出している暗めの灯、煉瓦造りの部屋。衛生設備も当たり前に整っており、出される食事も下手な所で食べる物より断然美味しい。──まるで最後の晩餐、のようなそれ。
白樹は螺旋階段を降りきると脇にある一つの機械を手で撫でた。抑揚のない声でそれは通行を許可し、白樹を通す。白夜もそれに続くと静かな──それでいて威厳たっぷりな重たい扉が後ろで閉められた。
ぴゅうっと白夜は口笛を吹く。
「ここ相変わらず心地いいね。気持ち悪いくらい」
「そりゃそうよ。お客様は丁重に扱わないと何するか分からないじゃない」
「……そこら辺って白樹の手配?」
「いえ。私ではじゃないわ」
軽快に話しながら二人はセキュリティを次々と通り抜けていく。人はおらず、時計もない。やがて二人は一つの扉の前にたどり着いた。
「さて、と」
そこだけ簡易な指紋キーをクリアし、白樹と白夜は無防備にその部屋に入る。布団、机、水道、トイレ、明かり……生きていくために必要なものが最低限整っている。簡素すぎる見た目を除けば安いホテルの様にも見える。先客として男が一人だけいた。虚ろな瞳で本をただぼんやりと見ている。
「お腹、空いたな」
白夜がボソリと吐く。でもその瞳は相変わらず爛々としていて。
「終わったら、ね?」
白樹もそれを知っていたからここに来たのだ。笑顔で白夜に言った。
白夜を扉に置いたまま、白樹は決して広くない部屋を横切りベッドに横たわっている男の隣に座った。
心ここに在らずなその男は虫の息。
───長くは持たないわね。
なら絞りカスになるまで搾り取ってやろう。罪は贖わせないと。白樹は薄い唇をぺろりと舐めた。そしてパンっと男の耳元で手を叩き、己が存在をアピールする。
「……あんたか」
「どうも。あなたは暁闇関係者……よね? 途中で自殺しないでくれると嬉しいわ。前に来た人にそれで苦労させられたから。私達が出す質問に正直に答えてくれたら楽に逝かせてあげます」
「嘘はバレるよ」
男はコクリとただ頷いた。侵入してきたのは彼の意思では無いのは分かりきったこと。白樹はただ一つだけ聞いた。でも、答えは……やっぱり分かりきってる。でも確認しないといけないんだ。後付けのために。
「誰に?」
「信じてくれなくたっていい……気がついたらそこにいたんだ。……そして何か、こう衝動に襲われちまって捕まって気がついたらここにいた」
俺でも信じられねぇんだ……信じてくれなくたってかまやしねぇ……。
男は憔悴しきった顔でそう言い終えた。
「こいつもか……!」
白夜は眼を丸くした。こいつも。
「大丈夫。信じるわ。貴方以外の皆……同じことを言って死んでいったから」
白樹は予想通りすぎた答えに心の中でため息をつく。
──そろそろ本腰入れないとやばい。
ハインリッヒの法則という労働災害における一つの経験則がある。たった一つの重大な事故の後ろに二十九の軽微な事故があり、更にその背景には三百の異常が存在するというものだ。
異常。それは"怪我をしそうになった"とか"落下しそうなものがある"等といったヒヤリ・ハットのことである。この場合、三百の異常の一つが組織への不審者侵入だとしたら……。
たった一つの重大な事故は何になるのだろう?
ゾッとする。杞憂だといいのだが。
「白樹」「おい、あんた大丈夫か……?」
白夜の諭すような声ともう一つの心配する様な声色にハッとする。白夜にまで心配されるくらい酷い顔色をしていたのだろうか?
白樹は頭をふって意識を取り戻した。そして小さくありがとうと言うと白夜を手招きした。
「約束。おやすみなさい。いい夢を」