〈色を食べる〉2
「本当なら、〈譲葉〉の半身を借りるべきなのだけれど。あの子、記憶隠されてるでしょ?」
何も知らないところに私が入ったら身体が拒否反応起こすかもしれないのよね、と続けてローリエは言った。腕に巻きついた袖をローリエは直す。烏色の髪に神秘的な緑の目、日本人形とフランス人形を足して割ったように整った容姿。そんな彼女は目を伏せる行為すら美しい。
ローリエに虐められ、瑠雨は少しグレた。どちらかと言うと弄る、苛める側の彼はいじめられるのに慣れていないのだ。
そんな彼に髪の毛を弄られている蒼は"あの子"という言葉に反応した。
「千里はそんな素振りチラリとすら見せてないからね。隠してるんじゃなくてローリエの言った通り隠されてる、が正しいと思う。それかガチで忘れてるか」
〈譲葉〉は"千里アリス"。
それを言うと蒼は瑠雨にデコピンをプレゼントした。ショック療法と言うやつで殴ったらいつものに戻ると思ったのである。見事に命中。 尚、その蒼流のショック療法に根拠はない。調子の悪い機械を殴ったら取り敢えず直るんじゃないか、という感じのそんなノリである。
痛がって涙目になっている瑠雨、そして白樹の陰から笑いを堪えながら見ている白夜。これだけで何となく力関係が分かってしまう辺り悲しい。
白樹はチラリと蒼を見、思う。
──大丈夫、かな。
少しだけ、心配していた。
そんなことは露とも知らず、満足した蒼は首を傾けながらローリエに言った。その表情はどこか自嘲気味だ。
「でも可笑しいんだよね。千里って"その気になれば"眼合わせただけで記憶処理出来るの。……私も出来るけど」
暗に偶然では無いという。それは彼女の部下の一人が確認済みでもある。
「僕は何で蒼が出来るか分かんないんですけど」
瑠雨も首を傾げた。白樹も首を傾げる。白夜は欠伸をしている。唯一、ローリエだけが言葉を発した。
「それ、あれじゃないかしら」
「あれ?」
「あれよ! あれあれ!」
「あれって何ですか。馬鹿翡翠、主語を言ってください」
ゆらゆらと髪をどこからか吹いている風に揺らしながら瑠雨は嘲るように言った。それに対しローリエも負けじという。
「馬鹿兄貴舌噛みきって死んじゃえ」
蒼と白樹は自分の耳を疑う。
──この子今、なんて言った?
「口を慎んでください、翡翠。そんな事言うとまさに玉に瑕ですよ。せっかく容姿だけは整ってるんですから」
「あら? 兄様こそ、それだからいつまでも"若い"って言われちゃうのよ。青二才ってね」
羽の色だけに、と白夜が余計な一言を言う。その言葉に蒼の自制心は崩れた。口元を手で抑えてこそはいるが、何せ肩がわなわなと震えている。瑠雨に爆笑を悟られているのは最早言うまでもない。
「私の勝ちね、兄様」
蒼の様子を見てさらにぶんむくれた瑠雨は膝を抱え、皆に背を向けた。
「勝手にしやがれ下さい」
「瑠雨、落ち着いてよ。で、翡翠は何を言いたかったのさ」
「特に何も?」
楽しそうに口元を抑えながらローリエは笑った。数色の緑色で塗りつぶされている袖がゆらりと揺れる。白夜は困ったように眉を寄せるとローリエに言った。
「嘘つかないでよ、翡翠。困るんだよ」
「──御伽の影響による異能とかだったら面白いなぁって思っただけよ?」
一瞬の沈黙。
不意に大きく丸を描くように白夜は手を大きく動かした。そこを中心として景色が溶けるように、滲むように変わっていく。
ふわふわ宙に浮いていた翡翠と瑠雨は慌てて地に足をつけた。……やがて、亜空間の最後の雫は光となって四散した。まさに溶けるように現れた空間は白樹のプライベートルーム。時計の秒針はチクタクと休むことなく働いており、彼女が飲みかけていた紅茶は湯気を立てている。
────亜空間では時間が止まる。
存在しない、と言う方が正しいのだろうか? それとも時間の進み方が異なる? ……何にせよ、亜空間にいた時間は現実世界には影響を与えない。与える事が出来ない。
白夜は早速そのテーブルの上へと手を伸ばした。その時にぶつかった衝撃でカラ、カラリと音を立てながらカラフルな鉱物の欠片が愉快に一粒山を降りる。白夜はそれを口に放り込むと美味しそうに食べ始めた。
その横からひょっこりとローリエが顔を出し、鉱物を一粒手に取った。そして綺麗なマスカット色のそれを光に透かし、目を細め、感嘆した。
「わぁああ、何これすっごく綺麗。ねぇ白夜、これ私も貰っていいかしら? 食べてみたい」
「いいけど、翡翠これで足りるの?」
空色をした二粒目を口に放り込みながら白夜は聞く。何気ない質問だったが、蒼と白樹は思わず身を強ばらせた。
白夜は三粒目にどれを食べようかと漁り始めている。瑠雨は単純に好奇心を刺激されたらしく、海色を一粒手に取り、眺めていた。
ローリエは肩を落としながらその質問に答えた。
「勿論、足りないわ。でも後で外にご飯食べに行くからそれまでの繋ぎとしてなら十分よ。御伽の衝突を無理やり邪魔したから、さすがにお腹すいて死にそうよ」
「確かにあれは大分無茶しましたよね、翡翠。あ、これシャクシャクしてて美味しいです」
さらにその脇で瑠雨も手を伸ばし食べている。蒼はこれの何が美味しいのだろう? と首をかしげながら茜色を一粒、空に透かした。白樹は琥珀色をとり、蒼にそれを説明した。
「私達で言う"金平糖"とか"琥珀糖"みたいなやつらしいわよ。空腹時に食べるおやつにちょうどいいんですって」
「なるほど~。食べることが出来たら、私としても最高なんだけどさすがに歯が砕けちゃうかな」
どこからかハンマーを取り出して蒼は叩いてみた。「無駄無駄」と白樹が言った通り、傷がついたのはハンマーの方。鉱物の方はかすり傷すらない。硬度はどうなっているのだろうか。
蒼は眉間に少し皺を寄せながら、諦めてハンマーを手放した。
「僕達もそれを食べるって言うよりも〈色を食べる〉とか吸い取るって感じで味わってるからね」
白夜が三粒目──藍色のそれに手を出しながら言う。
「でも、さっき噛み砕いてる音が聞こえたような気がしたわ」
「気のせい」
「ふうん」
白樹は少し首を捻りながらも身を引いて、三人の近くなるように鉱物の山を移動させた。キラリとローリエの瞳が輝く。いたく気に入ったらしい。事実、直ぐ嬉しそうに二粒目を口に放り込みながらローリエは聞く。
「ねえ、白夜。あの子は今どこにいるの? 見失ったわ」
「……あの子って悪魔の双子ちゃん達のこと?」
白夜は鉱物を漁っていた手を止めると顎に置いた。軽く首を捻りながら翡翠を見る。空は段々と陰が指し、黄昏空と呼ばれる頃合になるまでそう時間は掛かりそうに無かった。
ローリエはコクリと縦に首を振った。それを見た白夜は少し眉を寄せ、言う。
「何で? 翡翠追っかけてたんじゃないの? それはもうまさにストーカーのように」
「そうそう。……ってストーカーって何よ。失礼ね。──ついさっきまで追えてたんだけど、今ふって気配が消えたのよね。野生の勘がすごい白夜なら分かるかなって。瑠雨はそこら辺助けてくれないし」
ローリエは葡萄色の鉱物を愉快に口に放り込む。しかしその新緑、深緑を象徴する様な双眸は、愉快さの欠片すらうつしてなかった。
「嫌な予感しかしないんだけど。──どう思う? 皆」
白夜はため息交じりにに白樹達に問いかけを押し付ける。静まり返る中、ローリエに期待されていなかった瑠雨だけが淡々と答えた。その手は次の鉱物を模索している。
「何か適当な術者とかの結界擬きに入ったんじゃないですかね。それでも、翡翠が見失うということはかなり高度な術者になるはすです」
ローリエは若草色のそれを手で弄ぶ。手を転げ回しているかと思ったらヒョイっと投げ、手で掴む。瑠雨が動く度に彼の細く纏められた髪が後ろで揺れる。
白夜は「やっぱり?」とため息を吐き出し、ローリエはすくっと立ち上がる。
「術者?」
自分の相棒から発された言葉に蒼は首を捻った。聞きなれない単語だ。……いや、数度聞いたことはあるし、意味は分かるのだがそれとはまた逆ベクトルで分からない。
──もしかしたら、本能的に理解したく無いのかもしれない。心覚えがありすぎて。
「日本で言うと陰陽師とか呪術師とか言うあーゆー奴らですよ、蒼。御伽の超劣化バージョン使うあれですよ、あれ」
「あーーーなるほど。あれね、あれ」
蒼は納得した、とでも言うかのようにぽんっと手を鳴らした。
「伝わってるの……?」
白樹は紅茶を飲み干しながら心配そうに聞いた。
「よく分からないということが分かったよ」
「ダメじゃんそれ」
「ひとまず翡翠はその子のところに行ってきたらどうです。何かあってからでは遅いですよ」
ヒラヒラと片手を振りながら瑠雨は言った。
「そうだよ翡翠。ついでに食事も済ませてくればいいよ」
白夜のその薄赤い瞳は悪戯に輝いた。
「そうさせてもらうわ。すぐ戻る」
次の瞬間、ローリエがいた場所にステンドグラスの様な羽を持つ一匹の蝶が入れ替わるように現れた。その、たっぷりとした緑色の羽は西日を浴び、黒く見える。
四人が見ている前で蝶は挨拶するようにくるりと頭上を飛んだ。そしていつの間にかに開けられていた窓から、黄昏空を目掛けて飛んでいった。空に飛び出した蝶は、赤や橙、紺が滲んだ空に黒い影を落としたかと思うと……次の瞬間、それらに溶けた。
静かになったその部屋に蒼の声が響く。
「暁闇……」
今の今まで忘れていたが、吉野蒼、それは彼女がここに来た理由でもあった。
ローリエは新しいご主人様を見失った場所へ舞い降りた。山桜は風に煽られ、近くには水場があるのだろう。吹いてくる風は湿気を含んでいた。
人がいなさそうな幻想的なその場所。誰もいない、何もいないのに気配を感じる。風が何かに衝突しているように大きく迂回して、吹いている気がする。感覚をたよって違和感が強い場所を探る。
そして人間の姿になったローリエはここら辺かしら? と空中を適当に蹴った。爪先が見えない何かにあたった。パリンという音を切っ掛けに薄いガラスが溶け、割れ、壊れるように消えていく。──結界だ。
「めちゃくちゃ脆いわね」
今度こそ、ローリエの耳に風が音を運んできた。一人の少女が一つの影と小さな影を守っているような光景が見えた。その姿を確認するとローリエは安心したように息を吐いた。そしてローリエはその一人の少女の姿、顔を確認すると思わず息を呑んだ。
久しぶり、だった。
それとは別に木々の間に一人、両脇に二人。少女は気がついていない。まぁ、ローリエが片付ければ良いだけのこと。あとは……彼が何とかするだろう。
でもその前に、
「逃がしてあげないと、ね」
飛ばしていた自分の分身を指先から吸収すると、ローリエはもう一度蝶の姿になった。そして、地面に張り付くようにして身を守っている少女達の近くへと舞い降りていった。