恐ろしい程の黄昏空 3
「私は暁闇の紗友里! 彼の復讐を行う!」
紗友里と名乗った女性は槻を睨んだ。その目には悲しいくらいの憎悪がこもっている。が、どうでも良いというふうに槻はその瞳を受け流した。そして唐突に「百合は赤く染めたら綺麗だと思う」と呟いた。暖かい風がそよぎ、氷の頬を撫でてゆく。槻のその言葉に氷は幽霊に心臓を握られた気分にもなった。背筋がピキリ……ピキリ……と凍りついた。殺意を向けられてるのは氷では無いのに。
───怒ってる。
氷は直感的に、本能的に悟った。
「槻」
宥めるように氷は槻に声をかける。しかしその返事はシュッと空気を切り裂く音のみだった。槻が手慣らすようにナイフで宙を切ったのだ。桜の花弁は風に撫でられ、少しずつ散る。ナイフが切り裂いた空間にいた花弁は風に踊らされている。
「殺すよ。アイツ」
宥めるような氷の声に槻は動じない。いや違う。正しく言えば槻じゃない。
〈仮面〉付きの槻。
────〈仮面〉。それは002や007が自分の心を、人を殺す時に自分を守るためにつけるもの。
フィルター、という言葉が合うのだろうか。"あいつを殺したのは自分ではない"と自分を騙す、守る。心は脆く弱い。だからこそ自分が壊れないようにそうしてやらないといけないのだ。ちなみに自分を守るために何かするのは仮面を付けることだけではない。読書をして知識で心を押しつぶし、ひたすら寝て夢幻、夢現の世界に籠る。生を感じて死を忘れる奴もいれば、先に自分で自分を壊し、身を守る奴もいる。人それぞれなのだ。
「槻、駄目だ」
制してきたその言葉に槻は耳を貸したが、直後首を捻った。
──わからない。
「なんで? 自分の大事な人が殺されたから復讐します、だってよ。 なんて甘ちゃんな考えなんだろう。こいつも私達に殺される可能性がある事を知ってやって来たんだ。ここは第三者が介入する所じゃないはずだよ。それなのにこの人、喧嘩吹っかけてきた。って事は」
蛇のようにちろりと槻は舌を舐めた。足元の死体を指さしている。
「死にたいってことでしょ?」
槻の瞳は爛々と煮えたぎっていた。時折緑が覗く鳶色の瞳は今、一切の容赦がない。止められない。そう悟った氷は背中を向けている槻の頭を思いっきり殴った。結構あっさりと膝をつき、意識を失った槻を抱えあげ、担ぐ。
紗友里は怪訝そうな顔をし、あっさり背を向けた氷に声を発した。
「逃げる気か?」
「いや、違う。ここで死体が"三つ"も増えたら後処理が大変だからな。ただでさえ既に一つあるんだから」
ニヤリと氷は唇を歪めた。その言葉には負けるはずがない、という絶対的な自信に溢れていた。氷は挑発的に笑うとぐったりとした槻を抱え直す。
「勝負ならもっと別な場所で受けてやる。槻を怒らせたんだ。あんた達、死んだら内蔵は売り飛ばされるかもな」
その言葉を残し、ひらりと手を振りながら氷はその場を去った。黄昏時の光を浴びた桜の木は八重の花を重そうに揺らしながら、ただそこにいた。
風に乗りながら緑色の蝶が一匹、紗友里の目の前にやって来た。風に身を任せながら、ひらひらと飛び回るそれに思わず紗友里は魅せられた。
黒い縁取りの羽は緑を基調としたステンドグラスで飾られている。決して大きくない羽に出来る限り、精一杯、懸命に風を受け止め、飛んでいる姿はどこか健気だ。少しキラキラと黄昏を反射する鱗粉を飛ばしながら蝶は骸に止まり、その羽を黄昏空に広げた。
「……綺麗」
紗友里は思わず最期の涙をポロリと落とした。涙は葉に落ち、やがて地面に落ち、地に吸収される。蝶が骸を弔ってるように見えたのだ。ふらりと、思わず蝶に手を伸ばす。
「ありがとう。褒められると嬉しくなるわ」
「───えっ?」
瞬きをし、目を開けると先程の蝶はどこへ消えたのだろうか。蝶の代わりに、いわゆる和風ゴスロリに身を包んだまだ幼い外見の少女が骸に腰掛けていた。決して派手ではないその格好。しっとりとした長い黒髪は腰のあたりで躊躇いなくスパッと斬られており、頭には赤いリボンをちょこんとつけている。ぱっつん前髪の奥から見える肌は先程まで空に浮かんでいた雲のように白く輝いていた。
その前髪の奥から紗友里達を見つめる瞳は恐ろしい程の緑色。
何があったのか呑み込めず、驚愕する紗友里達なんて知らないとでも言うかのように、カラカラと少女は笑い、骸を一撫でした。──骸は光となって消滅し、。光は少女の指先に集まり、仄かに発光したかと思うと、四散した。
「紗友里さん、あいつは……あいつはやばいです」
紗友里の部下の一人が声を振り絞った。もう一人の紗友里の部下は、少女を"化け物"と称した。
──あながち、間違っていないかもね。
ニヤリと笑い、顎に手を置きながら少女はそのやり取りを見ていた。少しして、少女の血のように赤い唇が小さく開いた。
「そんなにビビらなくてもいいのに。泣いちゃうわ。私はただ、貴方達が私の未来のご主人様を──間接的に怖がらせた。その事実の再確認に来ただけよ?」
ふらり、と少女は無造作に立ち上がった。
「お前、は──」
少女が小さく歩を進めれば、紗友里達は逃げる様に一歩下がる。少女は紗友里の言葉を聞くと眉をひそめた。
「お前呼ばわり? 貴方達、本当に素敵ね。度胸がある人、嫌いじゃないわよ。さてさて、寝て、起きて──いや、叩き起されてか……さすがにお腹が空いたのよね」
少女は緑色の瞳で〈ご飯〉を確認するように舐めた。
──三人、か。まぁ、食事としては綺麗さが足りないが我儘は言えない。幸いなことに量はある。少女はそう自分を納得させ、白い手をパンっと合わせ、黄昏空に言った。
「頂きます」