恐ろしい程の青空 2
ドサリと音がした。
足を、草を、赤に染めて。
鉄の匂いが一気に充満し、森の爽やかな空気を染めた。
暖かく吹いていた風は最早ここには届かない。
「……ふぅ。護衛、私だけのはずないじゃん。お生憎様」
槻は近くの木からナイフを引っこ抜くと、軽く汚れを落として腰に戻した。忍者は足を悶えさせながら何か訴えるように槻を見上げている。槻は冷たい目で返し、どうでも良いという様に目を逸らした。目の前の人物の生死なんかよりも、もっと気になることがあった。
──いない?
時雨達の姿を確認出来ない。居なくなったのに気が付かなかったのだろうか? いや、それは考えにくい。槻の近くにいたのだ。気が付かないはずがない。
撃たれた忍者はそこまで長くは無いだろう。何もしなければ失血死でこの世とさよなら。
何もしなければ
「助けてやったらどうだ」
「優しいね、氷」
槻の横に人影が降る。ひんやりとした草を掴んだ槻の手に一匹の蟻が這っていた。彼の茶色が強い髪の毛は風になびき、その背中に何か布に包まれた筒状のものを背負っている。その耳には緑色の石のピアス。
彼は槻に筒状の物を預けるとどこからか包帯を取り出した。クルクルっと手馴れた仕草で忍者の足に巻く。手当だ。槻はその様子をちらりと見ると大きく伸びをした。
「立つ鳥跡を濁さず、って感じ」
「それは少し違う」
「知ってる」
包帯を巻かれた忍者はどこか糸が切れたように、安心したように地面に体を預けた。ふぅっと肺から空気を出して。氷はしばし目を閉じた。穏やかな空気が、音が戻ってきた。
やがて槻は頬を膨らませながら、差し出された氷の手に掴まった。うっかり尻もちをついてしまったのだ。また這い上がってきた蟻を容赦なく払い落とした。
久しぶりに触れるその手に全身が懐かしさを思い出す。思わず顔が緩みながら、早速槻は気になっていたことを彼──氷の胸に突き刺した。
「ねぇ、氷。何で足を狙ったの? 今回は各自判断で抹殺命令が出てるよね。つまり攻撃してきたやつはとりあえず殺せってことだよね」
無茶苦茶な解釈だ、と氷は思ったものの慌てて言葉を飲み込んだ。槻だってその理論が無茶苦茶なことは理解しているだろう。
氷は言い訳をした。
「手が滑って」
「んなわけないでしょ。"僕"、氷の射撃の腕前は知ってるつもりだよ。彼も脳天撃たれたらこんな痛み感じなくて死ねたはずだ」
槻の一人称が、変わった。
タラタラと氷は冷や汗を流しながら嵐が過ぎるのを待つ。嵐、ではないか。規模が違う。
槻は怒る時、殺す時、仕事に本気で取り組む時、〈仮面〉をつける。自己防衛の為の。
槻は不機嫌そうにそれを見たあと、再び氷を睨む。
「死体に手当しても何も変わらないよ。──もう」
「でも、彼が槻に殺される前に手当したからセーフだ」
風が肌を舐めるように吹いた。
「何でわかったの」
槻は信じられない、と驚きを隠さずに聞いた。その目は一瞬丸く見開かれた。毒をもって毒を制す。槻は試用品としていつもお世話になっている人からもらったそれを使ってみた。
「知り合いから槻がナイフ他に毒矢持ってるって聞いたから。なんとなく」
にやりと笑った氷のその顔を見て槻は己が鎌をかけられたのだと気がついた。
槻はたった今自らの手で一人殺した。その死体の前でまぁいいや、と笑いながら核心をつく。
「暁闇だったりしない?」
おそらく、と肯定を意味するため氷は頷いた。少なくとも一般の人間ではないのは明らかだ。
風がそよぎ始めていても、小鳥達は未だ黙っていて、倒れた草も直ぐには起き上がれない。羽虫はどこか風に飛ばされ遠くへ行き、木々は葉を揺らす。
小さく欠伸をしながら、ポケットに毒矢をしまうと槻は骸に刺さった矢を抜く。槻の白い手に少し血がついたが別にそのくらいは気にしない。風は鉄の香りを運び、一生懸命に起き上がった草は血飛沫を撒き散らした。
槻がポケットから唐突に、何となく投げた矢に偶然止めを刺せる程度の毒が塗ってあった。そしてそれは偶然瀕死の人に当たった。
それだけのお話。
槻は腰に手をやり、何か振り払うように頭を振った。太陽はここに来た時よりも大分西に傾き、もうすぐで夕方だと言うことをアピールしている。
槻は目線を足下に落としたまま、隣で何故か深呼吸している氷に声をかける。
「時雨達は?」
「あの二人なら戻ったはずだ」
「リゼ狙いじゃないの?」
「いや、違うみたいだな」
「じゃあ、何?」
槻は小首を傾げた。リゼ狙いじゃないというのなら何なのだろう。ふわりと横を蝶が汚れた風に乗り、通り過ぎて行く。
「暁闇も暇なんじゃないか?」
「いいねぇ、暇人。羨ましいよ」
氷は槻の頭に手を置くとニヤリと笑った。
身長差のある二人は同年齢ながらも恋人では無く、兄弟のように見られることが多い。それを氷は少し嬉しく思いながらも複雑に思っていた。尚、槻は全く気にしていないし、氷のその気持ちにちらりと気がついてすらいない。
撫でられて満更でもなさそうな槻は楽しそうに笑い返し、腰から再びそれを抜いた。今度手は二本の黒いナイフを持っている。刃こぼれすらしないそれは本当に軽い。
そのうちの一本を氷に放り投げ、槻はナイフを弄んだ。
「私真ん中。氷は左右」
「俺二人なのかよ……いいけど。殺すなよ」
「私002じゃないし。007だし。ここ死体安置所にしたくないから捕らえるだけで」
それを聞いて氷はよく言うよ、とため息をついた。もっとも槻に小言を言ったらキリがないので何も言わなかったが。
────唐突。空気を切り裂いて小刀が二人に向かって飛来した。当たらず、ガスッと鈍い音を立てて桜の木に痛々しく突き刺さる。
槻はそれを確認すらせずに無表情で足元に転がっていた石を拾い上げ、仕返しだとでも言うかのように唐突にえいっと投げた。どこに向かって? 目の前──小刀が飛来したその場所に向かって。
それはごすっとした音を立て、樹に衝撃を与え、重力に従い落下した。バラバラと樹の皮が生々しく、剥がれ落ちた。
そんな槻を背に氷は桜に突き刺さった小刀を回収、観察した。
──何の変哲もない鉄製。まぁ、二度と使わないだろうという事を鑑みると素材とそのシンプルさは妥当。
"一度手放した武器は二度と戻らない"
氷達が幼い頃叩き込まれた言葉だ。しかし、この言葉が通じるのは激しい戦闘の時くらい。失った武器を回収しに戻るのは時々小耳に挟む事だ。
002はその名の通り、隠密にに殺す。不思議と一撃必勝が求められるので良く考えたら武器を回収しに戻ること自体ないのだが。
あまり良い素材を使いすぎるとコストが掛かりすぎる。そんな思考に呼応するかのように槻から投げつけられたナイフが黒光りし、言葉を放った気がした。"自分はめちゃくちゃいい素材使われてるから捨てるなよ"、と。
ふと人影が一つ現れ、槻に舞いかかった。氷は鉄のナイフを投げ捨て、慌てて振り返る。槻は人影を嘲るように過剰に避けた。
「……何故、何故、何故何故何故何故何で……カレを殺した─────!!!!」
「そりゃ殺されかけたからだよ」
人影の絶声。
"明日の天気は何ですか?" "晴れです"というような──まるでごく普通に行われる日常会話。
現れた目を擦っている女性は恐ろしい目つきで槻を睨みつけている。その目からは、時折涙が零れている。そんな人影──女性に同情する余地なしとでも判断したのだろうか? 槻はその様子を小首傾げながらただ泣き叫ぶ姿を見ていた。
──いや、殺されかけたから殺した。自分の身が危ないから殺した。抹殺命令が出てたから殺した。
「命を狙ったなら奪われても仕方ないんじゃないかな?」
槻によって淡々と紡がれる言葉。さしもの氷もその純粋な思考にたらりと二回目の冷や汗が流れた。
何で彼女が泣いているのか分からないのだろう。なぜ涙を落としているのか分からないのだろう。
槻という少女は。




