紫 3
千里アリスは知り合ったばかりの白樹という女性が運転する車に乗り、とある目的地へ移動していた。
「──数日前、そこそこ歳いってる男性が殺されたわ。とある双子を迎えに行ったところだったと聞いたわ」
ハンドルを切りながら運転席の白樹は呟くように言った。あまりにも唐突すぎる振りにいったい何だろうかと千里は首を傾げた。
日がとっぷりと沈んだ頃、雨はしとしとと街を、石畳を濡らし始めた。今朝の天気予報では雨が降るなんていっていなかった。事実、突然降り始めた雨に慌てて軒下に避難する人影がチラホラと見ることが出来た。白樹が来てくれなかったら千里もそのうちの一人だっただろう。
隣の彼女が言った殺人事件。これは初耳だった。〈黄昏〉が関与しているのは最早疑いがない。ニュースで報道されていないのも恐らく情報統制をしているからか、それか別なニュースで持ち切りだからかのどちらかだという事は容易く予想はついた。別なニュース──例えばこの国の王室で何かあったとか。まぁ、遠からず千里のタスクの山のひとつとなるだろう。
白夜は今ここにいない。あのカフェテリアで別れたのだ。白樹に何か脅され、いじけた顔をしながらも銀髪のウィッグを被った白夜は本当に白樹そっくりだった。千里は思えど口にはしなかったが。瓜二つ、とまではいかないが姉妹と言われれば殆どの人が疑わずに納得してしまうのでないだろうか。千里から見た二人は仲がとても良さそうで。正直に言うと少し羨ましかった。
千里は窓ガラスにぶつかり、静かに流れ落ちていく雫を眺めながら聞いた。
「誰に」
「双子に」
何となく、半ば予想してしまっていた答えがすぐに紡がれ返ってきた。最近イタリア支部でまだ幼い性別違いの双子が保護されたのは小耳に挟んでいた。まさかとは思うけど、と千里は小さく息を吐き出した。
ちなみに千里は今、どこへ連れていかれているのか分かっていない。"連れていかれてる"という表現よりも強制連行や誘拐という言葉の方が正しい気もする。誘拐は言い過ぎか。ただ目的地くらいは教えてくれても、と思うのはわがままか。
別に先程仕事も終わったから急用が入らない限り、千里も断る理由も無かった。強いて言うなら、ここでやる事は、ホテルのチェックアウトと飛行機の予約だけ。いや、飛行機の予約は終わっているか。
赤信号を見てブレーキを止めながら、白樹は謳うように言った。その髪は外の景色を、雨で滲んだ光を柔らかく反射している。
「報告によるとその双子は白いドレスや洋服を朱に染めて、血溜まりの中にあどけない表情で座っていたそうよ。報告を受けた私と白夜が着いた頃には無力化……眠らされてたけど。それまでは大抵抗したみたい。そんな子供は初めてよ」
千里は思わず顔を上げた。髪に隠されている白樹の表情を盗み見れば、その顔はとても楽しそうな雰囲気を浮かべていた。
「千里アリス、あなた地下室に"仕事で"行ったでしょ。──そこで白夜が殺す相手を間違えかけたのは何とも形容しがたいのだけれど。あなたのあの場での仕事の一人は〈囮〉だったのよ。今はあなたも意味がわからないだろうけど。いずれ、きっと分かるわ。……で、言うとあそこはその双子達のお義父さんの実験室だったのよ。お義父さん、とは言っても愉快なもので血は繋がってないはずよ」
いったい何を、と千里は目を丸くした。青信号に変わり、また車を操りながら白樹は言う。その声色が非常に楽しそうな色を滲ませているのも気の所為ではない。
「あぁ、死体、あったでしょ? 殺したのは誰でもない、私よ。苦しみに耐えて耐えて耐えて、踠き苦しんで死んでもらったわよ。残虐非道で血の涙の片鱗も無い奴にはあのくらいが丁度いいのよ。──足りないくらい」
白樹は吐き捨てるように言った。
「双子"達"……?」
双子だけでは無いの? もしかして他にも……。嫌なことに気がついてしまい、思わず息を詰める。そして自分が双子に感情移入し始めていることに気がついた。
なんで?
問いかけた質問に対して白樹はピュウっと口笛を短く吹いた。お見事、というように。勢いを殺し始めた雨の中、車は街外れへ吸い込まれるように移動していた。
「えぇ。その双子には他にも兄弟が居たのよ。たくさん……沢山。現在確認してるけど、全員を知るのは難しいわね。生きてるのは双子だけ、でしょうね。助け出そうとしても恐らく手遅れよ。本来なら双子は証拠隠滅のために殺す予定だったのよ? 私直々に。でもね、喜びなさい。様々な事情が絡んで予定が変わったわ」
千里の考えていることなんかお見通しとでも言うように白樹は言った。殺す。その単語が出てきた時、何か大事な物がポロリと手の平を抜けていくような気がした。うかつにもそう感じてしまっていたのには自分でも気がついていた。
ある場所で車は止まった。先導するように白樹は先に降りる。その施設──建物は背の高い建物に隠されているように存在していた。しとしととまだ、力を振り絞って生意気に振り続ける雨が髪を濡らす。
落ち着いた雰囲気の建物内は木調で、僅かにポプラの香りが漂っていた。エントランスにて渡されたタオルで髪を拭き、辺りを見渡す。静かに流れる音楽に、休憩用の木の椅子、開放感をもたらしている高い天井は吹き抜けで、観賞用の蔓植物がちょこちょこと吊り下げられていた。外は夜で雨が降っているなんて思わせない、暖かくて明るすぎないふわりとした照明。
白樹は静かに歩き出した。床に敷かれているカーペットに、髪から落ちた雫がぽたぽたと垂れて水玉を描いていた。
やがて目の前に大きな柔らかい雰囲気の木の扉が現れた。白樹はその扉に手をかけながら、オッドアイでちらりと千里を見た。
「借りは全部返すわ。いい意味でも、悪い意味でも」
千里はそのオッドアイに見とれた。
「死んだ男は本来私達が近いうちに処分する予定だった。でも双子が先に殺してくれた。これで知らずに私達は双子に小さくても大きい借りが出来たわ」
「じゃあ……双子は……」
「殺させないわ。私がいるもの」
白樹は扉を開けた。美味しい空気が肺に滑り込む。恐らくこの施設の中心部に当たるのだろう。中央に大きな広葉樹のシンボルツリーが青々とひとつそこにいた。
天井は夜空を映しているが、千里の瞳が吸い込まれたのはそこではない。
心臓がとくんと高鳴った。
「ねぇ、どうかしら? 私に借りを作るのもありだと思うの」
二つの小さな──澄んだ紫の双眸と眼があった。
千里は何も考えず、紫を見ながら頷いた。