1/sideB
好きになったのは、自分のほうからだった。そして今でも、自分のほうが、怖いほどに彼を愛していると思う。
愛の大きさは量れるものではないこともわかっているし、彼からの愛情を疑ったことはない。
神谷澄彦は、左の薬指にはまったリングを眺めながらため息をついた。
多分、浩一を好きすぎるのだ。だから、怖い。
絶対に嫌われたくないし、離れることなど考えられない。
思えば小さい頃から、澄彦はそういう子供だった。周りに嫌われたくなくて、顔色ばかり窺っていた気がする。
浩一の前ではわりと素の自分でいられるが、浩一に求められている自分像をどこかで意識している。
しっかりした自分。
浩一は、もともと相談する側される側という関係から始まったせいか、澄彦をしっかりしたやつだと思っている節がある。
実際、ケンカをしても折れるのは大抵自分だし、6つも年上の彼をしかることも多々ある。
上に姉がいるものの下にもまだ2人弟妹がいて、面倒を見る立場だったし、学生時代は幹事や委員になることが多かった。
長年の面倒見役で培われたしっかり者の壁は、思うよりも厚い。
甘えたいときがあっても甘えかたがわからない。弱みの見せ方がわからない。
甘えて、弱さをさらけ出して、相手にどう思われるのかそれが怖い。
ましてそれが、大好きな彼ならなおさらだった。
「神谷さん…神谷さん?」
「あ?あぁ、ごめん、なに?」
今は仕事中だ。
考えごとにふけっていると、同僚の女の子に呼ばれた。
「K商事の相澤さん、呼んでます。…大丈夫?何か、問題でも?」
「…いや平気。いってきます」
浩一のことを考えている場合ではない。ため息の原因がもう1人、応接室で待っていた。
「お待たせ致しました、相澤様。先日の説明で、何か不明な点でも?」
「よぉ、澄彦…いや別に、たいした用はないんだ」
だったら来るな。
そう言いたいのを押さえて、笑顔を顔に貼り付ける。
「でしたら、申し訳ありませんが退室させて頂きます。仕事が山ほどありますので」
「そう嫌がるなよ…」
相澤は、澄彦がバーで働いていた頃の客だ。まだ浩一が常連になる前だったが、ずいぶんしつこく言い寄られていた時期もあった。
先日仕事の場で偶然にも再会してしまい、以来付きまとわられている澄彦は辟易していた。
「何度も言いましたが、ここは仕事場です。関係のないことは持ち込まないで下さい」
「相変わらず堅いやつだなぁ」
「とにかくお引き取り下さい。私も暇じゃあないんです」
「……また来る」
それには答えなかった。
相澤と何かあったわけではないが、昔の自分を知っている相手と、ましてや会社でなど話したくない。
そして、うまくいかない日はなにもかもがとことんうまくいかないもので、浩一からメールが入り、今日の約束はキャンセルになった。もう彼の家の最寄り駅へと向かっていたのに。
(つまんないの…)
文句のひとつでも言えたらいいのに、また澄彦は聞き分けのいいふりをしてしまう。
相澤のことといい、ここ最近グチャグチャと考えこんでいることといい、なんだか疲れてしまう1日だった。
朝になって、どうも疲れると思ったら、発熱していたようだ。
37度8分。めったに熱など出さない澄彦にとっては高熱である。
休む旨を会社に伝え、一日寝ていることにする。
身体が重い。だるい。風邪のときほど、一人暮らしの寂しさを実感することはない。
何か買い置きの食べ物はあっただろうか、飲み物は、薬は足りるだろうか、病院に行くなら、予約してからのほうが早いだろうか…そんなことをぼうっとした頭で考えていたら、なんだか涙ぐんでしまった。
熱のせいで涙もろくなっているのかもしれない。なにが悲しいわけでもないのに泣けてきて、心細くて、澄彦は思わず浩一にメールをうってしまった。
『熱出した。』
何をしたかったのかよく自分でもわからないが、とにかくそれだけを送信し、力尽きてベッドに突っ伏した。
どのぐらいの時間がたったのだろう。
澄彦が目を覚ますと、額には冷えピタが貼られて、傍らにはミネラルウォーターのボトルが置かれていた。
誰がやってくれたんだろう、と考える間もなく、台所から浩一が顔を出した。
「お、起きたか。どうだ、具合は」
そう言いながらベッドの端に座り、澄彦の首や頬に手をあてる。冷たくて気持ちいい。
「浩一さん…仕事は?」
なにもあのメールは、意味があって送ったわけではなかった。
ただ人恋しかっただけで、まして今日は平日で彼には仕事があるはずなのだ。
「今、昼休み。そのまま外回り行くって出てきたから、まだ少し余裕あるぞ」
そういうと台所に戻って、フルーツソースのかかったヨーグルトとパンを持ってきてくれた。パンは、澄彦の好きな店『大野製パン』のものだ。
「ごめん…あんなメール送ったからでしょ?もう平気だから、仕事戻って」
「だーから、あと少しなら大丈夫なんだって。食べられるだけ食べちまえよ」
申し訳なさと安堵で胸をいっぱいにしながら、澄彦は蒸しパンに手をつけた。
食べ終えた澄彦に薬を飲ませ、そろそろ行こうかと浩一が立ちかけたときだった。
玄関のチャイムがなった。
浩一が出るわけにもいかないので、だるい身体を引きずって澄彦がインターホンに出ると、なんと相澤だった。なぜ彼が、この家を知っているのだろう。
「ごめん…知り合い。ちょっと待ってて」
ドアを開けるとスーツ姿の相澤が立っていた。
「…どうしたんですか」
「会社で、風邪で休んでるって聞いてな。ちょっと様子見に」
「大したことはないんです。申し訳ないんですけど…今、お客が来てるので」
すると
「澄彦、悪いんだけど、もう行かなくちゃ…」
なんとか早めに切り上げてもらおうとしたのだが、浩一が奥から出てきてしまった。
「どうも、こんにちは…?」
「こんにちは。…澄彦の彼氏?」
「ちょっと、相澤さん!!」
何を言い出すのか、と澄彦はあわてた。
「気になってたんだ。あそこのバーテンやめて、澄彦に恋人ができたみたいだって聞いて」
「澄彦の、昔の知り合いの方ですか?」
「ええ、彼がバーで働いてたときに、よくお世話になりました」
浩一の手前追い返すこともできず、黙っててくれ、と苛立つ澄彦の思いとはうらはらに、相澤はなおも続ける。
「いやぁ、それにしても、みんなに話したら残念がりますよ、澄彦に彼氏ができたってね。なにしろモテてましたから、彼は」
「へぇ…」
「僕の他に、あと4、5人はいたんじゃないかな、本気で狙ってるヤツ。もちろんお遊び程度に口説いてるのなら、まだまだたくさん…」
「相澤さん!!」
たまりかねて澄彦は口を出した。
「くだらないことを言うのも、大概にしてください!!」
「くだらなくはないさ、本当のことだろう。」
「だとしたって…」
今、浩一がいる場で話さなくたっていいだろう、そう続けようとした言葉は、浩一に制された。
「申し訳ないんですが、彼は今日熱を出してるんですよ。もう寝かしてやってもいいですかね」
穏やかな言い方だった。笑みまで浮かべていた。
しかし、寝かしてやっても、というところに、自分たちだけのテリトリーがあるのだと知らしめるような雰囲気が含まれていると感じたのは、澄彦だけだろうか。
「ずいぶん疲れているようだし、あなたも仕事があるでしょう」
「そうですね、長居をしました。寝ているところ、悪かったね、澄彦。…それじゃあ」
思いがけず相澤が簡単に引き取ってくれて、ホッとした。
熱のある身体はとてもだるいが、今は他に、やるべきことがある。相澤の言ったことを、
浩一はどう思っているのだろう。
誰かと付き合うのは、誓って浩一が初めてだ。興味がないわけではなかったから、誘われた相手と話をするぐらいはあった。しかし、誰もピンとくる相手はいなかったのだ。
心を動かされたのは、浩一が初めてだった。
みっともないところや弱いところを見せて、嫌われたくない。
どう切り出したらいいんだろう、と思っていると、ベッドの端に座った浩一に手招きされた。
「…あいつ、ここ最近で、会うの久しぶりじゃないだろ」
無表情で、なんだかちょっと怖い浩一のとなりに腰掛ける。
「う、うん…会社で、取引先が偶然相澤さんのとこで」
「なにか、色々されてたのか」
「え、いや…会うと必ず声かけられるぐらいで」
そう澄彦が答えると、浩一は押し黙ってしまった。
沈黙が辛くて、澄彦が何か言おうとしたとき、
「なぁ、澄彦」
「は、はい?」
浩一が澄彦のほうを向いて、真剣な顔をして言った。
「俺は、信頼できないか?」
「えっ?」
浩一は続ける。
「俺は、お前のことがすごくすごく好きで、ずっと、一生、大事にしていきたいと思ってる。なのに俺は、澄彦に甘えてばっかりだったな。…たまには、俺にも甘えてくれよ。あいつのことも、困ってたのに言えなかったのか?」
迷って、澄彦がコクリとうなずくと、浩一は言った。
「困ってるときとか、辛いときとか、たまには俺に言ってくれ。甘やかさせてくれよ。澄彦は、俺なんかより大人で、賢くて、きちんとしてるけど。でも俺だって、慰めるくらいはできるぞ?」
そこまで聞いた澄彦の目からは、ぶわっと涙があふれた。
「お…大人なんかじゃないんだ」
「ん?」
浩一は、涙の止まらない澄彦を抱き締めた。
「毎日でも一緒にいたいとか、会えないのやだとか、思ってるし。一日ジャージでいたって平気なぐらい、だらしないとこだってあるし。浩一さんから女の人の名前出ると、イラってするし」
ばかみたいだ、と澄彦は思う。今まで隠していたものを、まとめて暴露してどうする。
「そういうとこ見せたら、浩一さんうざったいでしょう?」
抱き付いたままの澄彦の告白を黙って聞いていた浩一は、聞き終わると、ハハッ、と笑った。
「そんな風に心配してたのか。俺が、うざったくなるだろうって?」
微笑みながらそういうと、浩一は澄彦をベッドに寝かせて、自分もその隣りに入り込んで来た。
「ちょ、ちょっとなにしてるの?」
「あのなぁ、澄彦」
その体勢でまた澄彦を抱き締めて、浩一は言った。
「そんなこと言ったら、俺はお前をかわいく思うだけだよ」
耳元に囁かれた言葉に、頬があつくなる。
「澄彦は、いつも一人で頑張ろうとするけど、たまーには、頼ってくれ。嫌いになんかならない。むしろもっと色々言ってくれたっていいし、ずっとこうしてたいよ」
熱い顔、腫れぼったい目、甘やかされている自分。
それが好きだと、浩一は言ってくれた。
うん、とうなずいて、澄彦は言った。
「ごめんね、ありがとう。…じゃあ、わがまま言ってもいい?」
どうぞ、と浩一が答えたので、澄彦は初めてのわがままを口にした。
「今日はこのまま、一緒に寝てて。ギューって、してて」
笑って、かわいいなぁ、と言った浩一は、強く澄彦を抱き寄せてくれた。
何度も何度もキスをして、風邪がうつるよ、と澄彦がいうと浩一は、うつすと直るっていうしな、どんどんうつせよ、とより深く求めてきた。
本当の自分を見せるのは、勇気のいることだった。
でもたった一人の、心から頼れる人になら、弱い自分すらも許されるのだと知った。
そしてそんな相手に巡り会えたことを感謝した。
この人となら、ずっと一緒にいられると思った。
指環を見てため息をつくことは、もうない。