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第1話~優しさを 伝えられても 疎い僕~

壱号車


『リハビリでの頑張り次第では日常生活に支障が無いところまで回復すると思います。程度によっては趣味の範囲でスポーツを楽しむことも可能になるかと。流石に激しい運動などは出来ませんが...』


あの日の僕を受け入れてくれた病院の先生が、ついこの間僕に伝えてくれた診断結果。本気で残念そうで本心から同情してくれていたあの口調は、そう客観的に捉えて分析できてしまうほどに僕に届かなかった。


僕の右脚、特に右膝は完璧に壊されていた。半月板は8割方が無くなり、また膝後ろ靱帯も断裂。極めつけに神経まで傷つけられていて、つまりもう僕の脚は僕が知っていた頃のそれとは別物に変わり果てていた。


だというのに先生がどれだけ僕を励ましてくれても、これっぽっちも心は動かなかった。僕自身怒りも憎しみも、おもむろ感情らしい感情ですら沸いてこなかったのだ。


何故なら、僕にはもう全てが分かりきっていたことだから。


ちなみに、あの時僕を巻き込んだ軽トラックのドライバーのおじさんは車の中で息を引き取っていたそうだ。死因は内臓破裂らしい。確かにそれくらいなっても不思議じゃないくらいにあの車は電柱にめり込んでいたな、と記憶を振り返る。


警察の人が言うには、おじさんはノーマルタイヤのままで走行しており雪にタイヤを滑らせてしまい慌てて操作したらハンドルロックがかかり制御が出来ずに暴走、僕は本当に運悪くその場に居合わせてしまい暴走車に轢かれてしまった、と言うことらしい。


そんな説明も僕の感情を呼び起こすことは無かったけど。


流石に動揺したのは病院での診断や警察での事故の詳しい説明なんかよりも、大学の理事長に直接手渡された書類だった。


質素な茶封筒の中に入っていたのは、退学通知。


『非常に残念なんだがね...』


そう言っていた理事長は僕の方を見ていなかった。だけど、流石に声の中には残念そうな響きがこもっていてこの人もある程度は本心で口にしているんだろうなと分析してしまう。


僕が通っていた大学は、そこそこレベルが高いことで有名な私立のスポーツ大学だ。僕はその学校に筆記試験では無く武道のスポーツ推薦で入学した。


学費は3割減で大学が管理している寮にも無料で入れるという待遇の良さに食いついたのだ。


ただ、どこでも言えることだがスポーツ推薦はある意味で言って水商売に近いところがある。つまり、その人の価値が薄れてしまえば切り捨てられてしまう。


そして、今回は僕が価値の薄れてしまった人間になったというわけだ。


道場の師範や学校の監督からは、今すぐにでも転科試験を受けろ、と言われたけれどそんなことをしてまでしがみ付こうとする気力なんて当時の僕に無かった。言うまでも無く、今もだけど。


結果、僕は大学から除籍されて並行的に寮からも退くことになった。


唯一運が良かったと思えるのは、僕のことを気に入ってくれていた師範の先生が次の住居を紹介してくれたことだ。流石にこれがなかったら、路上生活も真面目に考えなくちゃならなくなっていたと思う。


そして、今日が寮を退く最後の期限。


僕が使っていた部屋はもともと私物が少なかったけど、こうして段ボール箱5つだけにまとめてしまうと本当に殺風景になってしまう。


きっと、次にこの部屋を使うことになる人は自分がこの部屋の初めての住人なんじゃないかと勘違いしてしまうだろう。そう想像できるほどに、1年も経たないくらいにしかお世話にならなかったこの部屋に僕は何も残すことが出来なかった。


「荷物まとまった?」


空虚な部屋にため息をついていると、後ろから関西訛りを含んだ声をかけられた。

声の主は分かっている。


「どうにかね。物は少ないのに掃除の妖精が何回か出て来た」


振り向きながら声をかけてきた人物___寺田晃樹に向き直る。彼は僕と同じ大学の友人で、同じく武道のスポーツ推薦で入学してきた。


「ノッサン片付けとか苦手やもんな」


「うっさい、母さん譲りなんだよ」


軽口をたたき合いながら僕たちは段ボール箱を抱え上げた。寮の外に停めてある晃樹の車に運ぶためだ。


段ボール箱を運びながら、僕は心の中で彼に何度もお礼を繰り返していた。僕は、この友人の存在にだいぶ救われている。


彼の性格は、ひたすらにまっすぐ。


どんなことでも真正面から挑むし、真正面から受け止める。不器用と言えばそれまでだけど、その不器用さを僕は好ましく感じている。


難しいことを考えることが苦手な彼は、その代わりに物事の本質や核心を捉えるのが凄く上手い。それ故なのか、僕は稽古でも試合でも彼に勝てたことはあまりない。多分勝率は3割から4割程度だと思う。


僕がリハビリの苦痛で気分が荒んでいたときも、彼は態度を変えずに接してくれた。そして、良い意味で空気を読まない明るさがささくれた部分をなだめてくれた。


彼からもらった恩はいつか返そう。僕は心の中でそっと誓った。


寮のすぐ前に、ライトグレーのEKワゴンが停められている。それが晃樹が持っている車だ。


「後ろの座席倒してその上に荷物を乗せよう」


彼はそう言いながら、器用に片腕で段ボール箱を抱えながらワゴンの後ろのドアを開けて座席を倒した。


素直に器用なことするなあ、と感心しながら言われた通り倒した座席の上に段ボール箱を載せていく。


たった5つの箱を載せるのに言うほど時間は必要なかった。


「忘れ物とか無いやんな?」


晃樹の確認に、僕はバッグの中身をざっと見てから


「大丈夫」


と応えた。


それから僕たちは車に乗って僕の新しい住居に向かって進み出した。


道のりはそこそこ長い。予想では変な渋滞に引っかからず信号も許容範囲でしか引っかからなかった場合20分から25分程度。


でも、僕たちはその少しだけ長い道のりの中で言葉を交わすことはなかった。


その代わりに僕たちの言葉を代弁するのは2回目の信号待ちで晃樹がスマホで再生した歌だった。


ここに僕たちの少し変わった絆を垣間見る。


僕と晃樹は、音楽や絵画など芸術性や感性に関わるところで波長が驚くくらいに合うのだ。それが元でつるみだした、と言っても過言ではないほどに。


だから、今僕は晃樹がどんな気分なのかが分かる。


彼は、悲しんでいる。


それがどうしてなのか、何がなのか、もしくは誰のことで、なのかは流石に分からない。僕は人の心を読めないから。


でも、僕も悲しかった。


何故かって、僕はそんな彼の気持ちを理解できているはずなのに返すべき言葉も思いつかず、彼のように気持ちを代弁させた歌を選ぶことですら出来なかったから。


そんな僕の様子を気遣ってなのか、彼もまたいつの間にか音楽を止めていた。


沈黙は壁。沈黙は距離。


僕たちの間に、確かに絆は存在する。


それでも心だけはお互いに理解することが出来なかった。無理も無い、だって僕が自分の心を感じれていないんだから。


「ここがノッサンの新しい家なん? 結構ええ感じやん」


いつの間にか僕たちを乗せた車は、まるで工場の生産ラインのベルトコンベアみたいに目的地まで運んでくれていた。


彼の、少しだけ空回り気味の声色が少しだけ僕の気分を落ち込ませる。


「うん、このマンションの3階にある空き部屋が次から僕の家になるんだって。家賃は月3万2千円と光熱費諸々」


「バイトのシフト増やさなキツいんとちゃうん?」


「その時はその時かな。どうせもう道場のキッツい練習も無くなるしね」


多分、このときの僕が浮かべていた笑顔は凄く薄べったくて偽物みたいな空虚さがあったんだと思う。僕を見る晃樹の表情が、本当に悲しそうに見えたから。


そんな表情をさせてしまう自分が嫌で、だから僕はさっさと身体を動かすことにした。


「荷物運ぶから手伝ってくれると嬉しいな」


「うん、オッケー」


マンションにエレベーターが備え付けてあった分、作業は寮から出るときよりも早く終わってしまった。文明の利器は、実は人から思いの外大切な時間を奪っているのかも知れない。


だからなのだろうか。


別れ際、晃樹が何か言いたげなのに言い出せないといった様子を見せていた。


何一つ急かす事情が無かったから、僕はゆっくりと彼の言葉を待つことにした。


晃樹が口を開いたのは、それから20秒くらい経ってから。


「ノッサンともう練習できへんのも闘えへんのも凄く寂しい。ノッサンがもう格闘出来んのも悲しい」


どもりこそしてないけど、かなりたどたどしい口調。それが、逆に彼がどれほどに頭の中で自分の感情を整理しながら喋っているのかを僕に教えてくれる。


「やけど、一番嫌なんはノッサンがそうやって全部やる気無くして死んだ顔してるのが一番嫌や」


一番という表現をダブって使うほどに強い気持ち。


「どんくらい時間かかるんか分からんけど、頑張って復活してくれ。オレ...応援しとるから...!」


僕は今、死にたいくらいに自分が嫌になった。


親友かどうかは分からなくても、確かな絆がある戦友をこんなにも心配させてしまっている僕の不甲斐なさに苛ついてしまう。そして、彼の言葉自体には何も心が動かなかったというその事実が、何よりも僕自身を殺したくさせるのだ。


だから、僕は晃樹に何も返せなかった。


「困ったり相談したいこととかあったらいつでも連絡してくれや。何も無くても連絡くれてええし」


晃樹は最後にそう言い残して車に乗り込んだ。


すぐに車が動き出して、そして僕が経っている場所からみるみる距離を離していく。


そして、何個目かの交差点を右に曲がって完全に姿を消してしまった。


僕がただ1人。


世界から取り残されたのか、見放されてしまったのか。そんな錯覚。壁に開いた大穴から吹き込んでくる風のような、そんな強い風が僕の頬を乱暴にこすっていく。


さらさらと砂の城が風に輪郭を壊されていくように、また僕の心の輪郭を崩して曖昧な物に変えていく。


「荷物ほどかなきゃ」


そう呟いた僕の声は、びっくりするくらいに無機質で無感情なものだった。 




弐号車


新しい家に住み始めてから今日で1週間と2日が過ぎた。


距離の問題で前のバイト先のコンビニは辞めることになったけど、店長のご厚意で次のバイト先をほぼ採用確定で紹介してもらえた。お金の問題はかなり切実だったから、これはかなりありがたい。


面接は明日の12時から。


僕は履歴書やプロフィールを書き漏らしなどが無いか確認してからクリアファイルに綴じて、リクルートバッグに入れた。企業の面接に行くわけでは無いが、僕はこういうときは基本的にスーツで赴くことに決めている。着こなしや歩き方、他にも色々な部分を将来来るであろう本物の就職採用面接に向けて今のうちに予行練習しておこうと考えてのことだ。


時間は19時40分。


晩ご飯はコンビニのお総菜で済ませて、お風呂もシャワーだけで済ませた。


窓の外は若干の賑わいを僕に見せつけてくれる。かといって、僕自身は外に出て何かしようとも思わない。でも、何となくまだ寝る気にもならない。


最近はずっとこんな感じだ。


無気力で空虚。そんな形を定かにしてくれない何かが僕をこうやって魂が抜けた人間みたいな状態にする。人形とは別の、例えるなら息をしているはく製のような___


だから僕は、突然のスマホの着信音に凄まじい勢いで現実の感覚に引き戻された。


「誰だろ」


頭の中から意識を引きずり出されたとき特有の違和感に頭をさすりながらスマホを取りに行く。


やかましく僕を呼び立てるスマホは、相手が僕の母さんであることを教えてくれた。


何だろうとか、何かあったっけ、とか難しいことを考えることも面倒だったのでさっさと電話に出ることにする。


「...もしもし」


通話ボタンを押してから半呼吸分時間を置いて相手に呼びかける。


「もしもしスー?」


母さんが僕のことをスーと呼ぶときは少なくとも面倒事案は無いという証拠でもあるのでその点においてひとまず胸をなで下ろす。そして、今の母さんの口調は素面だから面倒な絡み電話も心配ない。そもそも酔ってたら今の時間は寝ている。


「どうしたの母さん。そろそろお酒飲んでる時間だと思ってたんだけど」


「うんにゃ、今日は飲まない。そのまま寝る」


これが僕と母さんの電話口でのテンプレートだ。


「スーちゃんが明日次のバイト先の面接だったのを思い出して何となく電話してみたの。準備とかもう大丈夫なの?」


多分、半分本当で半分嘘の言葉。僕が知る限り母さんは何となくで電話をする人じゃ無い。思い出したのは本当だろうけど、それに加えて多分母親の勘みたいな何かがあったんだろうと考える。


それくらいに母さんは電話不精だ。


1秒にも満たない僕の稚拙な推理は頭の隅に置いて、会話に意識を向け直す。


「面接資料は準備してるし、スーツもネクタイもオッケー。髪はまだ許容範囲だから放置してるけど」


「スーちゃん5回に1回の割でポカするから少し心配なんだけど。まぁしばらくそんな話も聞いてないし大丈夫なんだと思っとくけど」


信用される何かをした記憶は無いけど、僕はそんなに何かやらかしていただろうか。母親の中の僕の評価が微妙すぎてなんだか悲しくなる。


「まぁ取りあえず面接に関しては抜かりない...はず。少し心配になってきたからあとでもっかい確認しとく」


「それがお勧め。で、最近調子どう? 寝れてる? ご飯食べれてる? 膝傷まない?」


口調と喋る速さの変化で、こっちが本命だったんだなと理解する。僕は冷静に情報を振り分けながら、同時にそれぞれの疑問符に応えていく。


「調子はぼちぼち。悪くない程度。で、取りあえず寝れてる。夢は見ちゃうけどね。ご飯はそこそこ。身体動かしてないし。んで膝に関しては、まだ普通に痛む。鎮痛剤とかで何とかモーマンタイって感じ」


「そう。キミがちゃんと寝れてるならまあ良し」


あまり確かな記憶は無いけど、僕は中学3年の頃に1度不眠症になっていた。原因は過度なストレス。あの時は、僕の進路希望と母さんの進路希望がソリが合っていなかったこと、学校での嫌にピリついた過激な緊張の合わせ技で精神的に参っていたのだ。今でもあまり思い出したくない記憶でもある。


「そっちはどんな感じ? 祖父ちゃんとか祖母ちゃんとかも元気にしてるの?」


「パパもママも元気にしてるよ。スーの膝のこととか色々心配してたし、近いうちに顔見せに帰ってくることをお勧め。本当に心配してたし、ママに至ってはまだ思い出し泣きするレベルだから」


「そっか...時間空けられないかやってみる。帰れそうだったらまた連絡するし」


「うん、よろしく」


そこでいったん会話が止まって、沈黙がてこてことやってきた。母さんは本当に話したいことは話し終えてしまった様子で、僕の方はどうにか話すネタは無いものかと頭を巡らせている。多分一生懸命に何か喋ろうと頑張る僕の気配を察したのだろう、スマホの向こう側からクスクスと笑う声が聞こえた。


「スーちゃんって、小っちゃいときから話すのは苦手なのにお喋り好きだったもんね」


思いの外直球で僕の様子を言い当てられて、少し気恥ずかしくなる。


「そうだったっけ?」


「うん、そうだった。まぁ、特に幼稚園の頃とかは友達が欲しくて頑張ってたんだと思うけど。癖というか性というか、治る物でも消える物でも無いんだね」


「まぁ、親子揃って根無し草直前みたいなところあったし僕も仲間外れにならないために必死になってたんだと思う。そんで、多分今も必死になってるのかも知れない。何にかは分からないし、必死こいてる自覚も無いけど」


「頑張ってるよ、スーちゃんは。今でも。キミが分からなくてもお母さんにはそう見えるよ」


怒ってるわけでは無いけど、強さを持った母さんの言葉。僕はその声と言葉に何でか目の奥が熱を帯びたのを感じた。


「そっか、頑張ってるのか、僕は...」


「膝壊されて、大学も辞めさせられて。それでも自分以外の誰かに依存しようと考えないのは、スーちゃんのプライドが高いのとそれを守ろうと頑張っている証拠。だから、今は精一杯悩んで考えて、時々休む。それで良いと、お母さんは思う」


「...うん、ありがと母さん」


「んじゃま、年に1度の母親らしいアドバイスはこれで終わり! 母さんは眠いからもう寝る! お休み!!!」


母さんはまくし立てるような勢いでそう言ってから、静かに電話を切った。


年に1度どころじゃ無いよ、と僕は心の中で言いながら明日の荷物や書類をもう一度確認し始めた。


僕の母親は人の心の機微には病的に疎い。ついでに言うと、人の外見的変化にもかなり疎い。それでも、僕が弱っているときに限って必ず連絡を入れてくれる。僕の母さんは、ちゃんと母親をしてくれている。


「あ、筆記用具入れ忘れてた」


本当に、母親をしてくれてる。




参号車


コンビニの、普通のお客さんは見ることが無いバックヤード。簡単に言えば、関係者以外立ち入り禁止と表示されている扉の向こう側のことだ。店長室と休憩室を兼ね備えたこの部屋は、今だけは更に面接室の名前まで背負っている。


「ふむ、なるほどね...まぁ、小柳から広野君のことはある程度話聞いてるし聞く限り問題は無さそうなんだけど」


目の前の男性は、僕の履歴書とプロフィール、それからさっき書かされた書類に順繰り目をやりながら呟くようにそう言った。

ちなみに、小柳とは前に働いていたコンビニの店長さんの苗字だ。ここに僕を紹介してくれた人でもある。


「話で聞いてた君の印象と実物の雰囲気が違うってのは、少し気になるかな」


そして、僕を紹介した人が目の前にいる大橋さんだ。


「違う、と言うと?」


「まぁ、個人個人の想像力とかの差になるんだろうけどさ。俺が想像していた広野君は、外見で言えば礼儀正しくも活動的な雰囲気溢れる就労意欲の高い青年ってイメージしてたのね」


大橋さんの言葉通りの青年像を、僕の頭の中で練り上げる。出来上がったのは寺田晃樹だった。僕とはだいぶかけ離れている。


「あぁ、勿論君が不真面目そうで給料未満の仕事しかしそうにないって見えてるわけじゃ無いよ。そもそもそんなだったら小柳が君を雇うはず無いし、俺に紹介もしてこないだろうしね」


ただなぁ、とゆっくりと吐き出すように言ってから大橋さんは続けてこう言った。


「広野君の目、どうにも人間味が薄く感じてさ。仕事の精度がどうこうじゃ無くて、自分を大切にしない働き方をしないかってのが何か心配になるんだよね。まぁ、そこのあたりは俺の人事管理責任であり監督責任だから君に背負わせることもしないけど」


大橋さんの言葉に、僕はそんな目をしていたのか、と別な視点の僕はそう思った。人間味が薄く感じる、と言うのはいったいどう言う意味なんだろうと考える。と言うのは考えるフリで、その実僕はその正体に何となく心当たりがある。


多分、ここで大橋さんに釘を刺されなかったら本当に僕は滅茶苦茶な働き方をしていたと思う。僕は勿論お金を稼ぐためにも働くけれど、それ以上に何も考えないように無理矢理自分を忙しくさせたいから働きたいのだ。


そうじゃないと、ため息ばかりになりそうだから。


「広野君の事情は聞いてるよ。だから同情はする、君が望んでいなくてもね。ただ、だからと言って君の自暴自棄を放っておくつもりも無いからそのつもりでいてくれな」


「?」


「そんな不思議そうな顔をしない。広野君を採用するってことだよ。ほぼ採用確定ってのは小柳から聞いてただろ? 来月からシフトに入ってもらうからそのつもりでいてくれ。シフトが決定したらまた連絡する。今日はお疲れ様」


採用面接は、かなり呆気なく終わりを告げた。


何というか、凄く肩透かしをくらった気分だ。バイトの面接だから、必要以上に肩肘張る必要が無いのは前の面接で既に知っていたけど、今回のはそれに輪をかけて緩いというか何というか。


まぁ、僕の収入源が確保されたのだと考えれば別にそこまで考える必要も無い。


僕は最終的にそう結論づけてから、部屋への帰り道を歩き出した。雪は降っていないけど、いつでも降りそうな空模様。


「早く洗濯物取り込んじゃうか」


ベランダに干したままの洗濯物が僕をちょっと不安にさせて、足を少しだけ早める。バイト先から部屋への道のりを正確に覚えていないこともあって、僕は頭の中に不安げにある帰路を辿ることだけに専念した。


自動販売機の数は、きっと数えようと思えば出来るんだろうけど、そんなこともする気は起きなかった。


幸せ探しをしない帰り道は、何だか灰色の景色に見えた。


何も考えないで歩けば歩くほど、全てが空回りしてしまっているように思えて、だから僕は更に歩く速度を増していく。


何も考えず。


何も見ず。


ただひたすらに前へ前へ。


部屋とバイト先とを繋ぐ道のりには、2つ大きな交差点がある。バイト先側の交差点に差し掛かったときだった。


頭の中で、突然、電車の警笛みたいな音が1回、聞こえた気がした。思ったよりも大きく聞こえたそれは、僕の足を止めるには充分すぎる威力を孕んでいて。


「わっ」


目の前まで来ていた横断歩道を、白い軽トラックが勢いよく走り抜けていった。


危なかった、そう心の中で冷や汗をかく。


ただ、それよりも僕の頭の中にあるのは、さっき聞こえた警笛は僕の幻聴だったのかそれとも別な___例えば虫の知らせみたいな第六感だったのか、そのことだった。


更に歩き続けてやっと部屋に辿り着いた僕は、玄関で乱暴に靴を脱ぎ捨てて雑に服を着替え終えると同時に部屋の真ん中で大の字に寝転んだ。


面接で思いの外たまった気疲れや、交差点での出来事が意外と僕の体力やメンタルを削っていたようだ。横になってしまってから、何もやる気が起きないんだから。


せめて洗濯物だけでも取り込もう、と考えるけど結局は考えるだけだ。身体は動かない。


どうにも、予想以上に疲れてしまったらしい。


だから僕は、30分だけ横になったら洗濯物を取り込もうと決めてスマホの目覚まし機能に全てを託した。


僕が変な夢を見るようになったのは、この日からだった。



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