ある晴れた日に
……まったく、ガキのお守りなんざ面倒くせぇ。
しかも、何度追い返そうとしたって聞きゃあしない。
毎日まいにち飽きもせずに俺の後ろをちょこまかと付き纏っては、あれはなんだ、これはなんだと、俺の尻尾を引っ張りやがる。
子供の力とはいえ、尻尾を引っ張られりゃあ痛えに決まってる。
なのにいくら怒鳴ったところで泣きもしなけりゃ逃げもしない。
ああ、面倒くせぇ。
なんでこんなやつに、出逢っちまったんだ───。
静かな静かな森の朝。
いつも通り池で水浴びをしようと、俺は朝露に濡れた下草を踏みしめながら、機嫌よく歩いていた。
まだだれの姿もない朝の森は、ただ歩いてるだけで自分がここの王サマになったような気分にさせてくれる。
まあ、そんなことしなくても、俺より強いやつなんていないんだろうけどな。
俺は虎。白い虎だ。
生き物の分厚い毛皮をすっぱりと切る爪があるし、どんなに頑丈な骨だって嚙み砕くことのできる牙を持ってる。
しかも、だ。
俺はヒトの言葉を理解し、話すことができる。
どうだ、すげぇだろ?
世界中どの森を探したって、白くて、強くて、ヒトの言葉がわかる虎なんて俺一人、じゃなかった、俺一匹、ってモンだ。
そんな浮かれた気分で、鼻歌なんか歌いながら歩いてたのが運のツキ。
池のほとりに座り込んでた俺以外の存在に、気がつかなかったんだからな。
そいつは俺に背中を向けて座っていた。
見たところ三、四歳くらいの人間らしい。
金色の長い髪がちいさなからだを覆って、地面についてる毛先が時たま生き物みたいにゆらゆら揺れる。
なんで人間の、しかも子供が、こんな森の奥にいるのか。
よく見れば丈の長いワンピースに似た服の裾は泥にまみれている。
まあ、いま思い返せばおかしな光景だったんだろうが、その時の俺は全く別のコトを考えていた。
朝飯の時間だな、と。
無防備に背中を向けて動かねぇ人間の子供なんて、そうそうお目にかかれない絶好の獲物だ。
今日はツイてる。
小っさくて喰えるところがほとんどないウサギだとか、骨ばってる鹿よりもよっぽど上等だ。
しかも人間の子供は大人よりも柔らかくって美味いらしい。
そろりそろりと足音を殺して、頭から喰っちまおうとした、その時。
「うおっ!?」
くるりと、そいつが振り返りやがった。
思わずバカみてぇに口を開けたまま固まってる俺を、目の前のガキはきょとんとした表情で見上げてくる。
気配を殺してる俺に気づいたことも驚いたが、何よりも俺の度肝を抜いたのは、そいつの整いすぎた容姿。
薄紫色のくりくりした目に、ふっくらした頬は薔薇の色。
手も足も何故か擦り傷だらけでまだガキらしくちんまりしてるが、成長したらとんでもない美形に化けるんじゃないかってくらいの子供だった。
オスかメスかなんて、虎の俺にはわからねえけどな。
しかも───そいつは、人間じゃあなかった。
金色の髪の間からのぞくのは尖った耳。
エルフだった。
ずいぶん昔にはこの森だってエルフが多くいたらしいが、今となっちゃ影も形もねぇ。
滅んだんじゃないかって噂もあるぐれぇだ。
そういえば、俺がまだガキだった頃、よくおふくろがこんな話をしてたっけ。
───エルフは、森の神様が自分の姿に似せて創られた生き物だ。だから、彼らに危害を加えてはならないよ。森の神様に祟られてしまうからね───。
森の神サマだと。くだらねぇ。
……ま、まあでも、無理してこっちがエラい目に遭うのは嫌だからな。
今日のところは、見逃してやるとすっか。
朝飯は他にいくらでもいるし。
そう思って、来た道を引き返そうとすると。
「ぎゃああぁぁっ!」
突然走った激痛に、さしもの俺も大声を上げて悶絶した。
こ、こいつ……
俺の大事なヒゲを引っ張りやがった!!
「てめぇ、なんてコトしやがる!」
自慢の毛を逆立てて吼える。
普通のやつらなら尻尾まいて逃げるほどの迫力で。
なのに。
このチビ、ちょっとばかり目を丸くするだけで、逃げる素振りすら見せねえ。
しかも、まだ俺のヒゲを両手で掴んだまんま。
これじゃあ逃げられねえだろうが。
なんなんだ、こいつ……
物珍しいのか何なのか、エルフのガキはまだ俺のヒゲをいじくり回している。
痛くはねぇが、あんまり気分の良いモンでもない。
「………おい」
腹の底から唸ってみせると、ようやっと子供は手を離して俺の方を見上げる。
「……んだよ」
こっちを見てくる目があまりにも真っ直ぐなもんだから、何故か鼻の先がむず痒くなってきた。
けど、長居は無用。
とっととここから離れて、朝飯にしよう。
「ついてくんじゃねえぞ」
俺はガキをひとり水辺に残して、来た道を足早に戻っていった───。
ふー、喰った喰った。
丸々と肥えたウサギ数羽を瞬く間に胃におさめて、俺はごろんと横になった。
イタダキマスの直前、あいつらはどうにかして逃げ出そうと鳴いて暴れる。死ぬって分かってんのに、なんであそこまで騒ぎ立てるのか。この森に棲んでる、俺と同じような喋る獣ほどじゃあねえものの五月蝿えったらねえ。
牙もねぇ、爪もねぇ弱っちいやつらの考えてるコトは理解出来ねえし、しようとも思わないけどな。
「ふわあぁ……」
満ち足りた気分で、デカい欠伸をひとつ。
そんなだらけた状態の俺の鼻先に、ひらひらっと何かが触れた。
「うおっ!なんだ!?」
思いのほか吃驚して、慌てて立ち上がって顔を左右にぶんぶん振り回す。
ちょっとばかり目がくらぁっときちまったが、とりあえずその“何か”は離れたから良しとする。
二、三度まばたきして見やった“何か”は、蝶だった。
薄紫色した、俺の手よりもはるかに小さな蝶。
その時ふと、池のほとりに置いてきたあのガキを思い出した。
確か、あいつもこんな色の目をしてたっけ。
それと同時に、俺はようやっと何かがおかしいことに気付いた。
「……なんであいつ、あんなトコに独りでいたんだ?」
絶滅寸前と謳われるエルフ。しかも子供。
なんだってそんなやつが親の元を離れて独りでいる?
それにあのチビ、かなり薄汚れた格好をしてなかったか?
なんでだ?
考えても考えても、答えは見つからない。
「まあいいか」
どうせもう関わることはねぇんだし。
あーあ、目ぇ覚めちまった。
メシはさっき喰ったばっかだし、せっかくだからその辺の泉まで行って水浴びでもするか。うん、それがいい。
ネコどもの縁者らしくぐっと伸びをして、俺はのしのしと歩き始めた。
のしのし、のしのし。
のしのし、……ぱたぱた。
「……ん?」
俺以外の足音が聞こえた気がして、立ち止まる。
ヒトの何倍も良い耳をそばだてるが、葉のざわめきの他はなんにも聞こえやしない。
「気のせいか?」
左右を見回しても、獣の類が潜んでる気配はまったくない。
それでも何かがじーっと俺を見てるような気がするってぇんだから、どうにも気味が悪い。
居心地の悪さを振り払うように二、三度身を震わせて、歩みを再開する。
のしのし、のしのし、……ぱたぱた。
まただ。
今度は注意深く聞いていた。
妙な足音の在り方は───後ろ。
「誰だ!」
俺はばっと振り返って…口を開けたまんまのマヌケ面をまた晒すことになった。
長い金髪。
尖った耳。
薄紫色のまんまるな目。
さっきのエルフのガキが、俺の後ろに立っていやがった!
「てめぇ、なんでココにいんだよ!?」
ていうか、いつからついて来てた?どうやってついて来てた?
なんでこのチビ、こんなに影薄いんだよ?
まさかこいつ……幽霊だとかいうワケじゃねえよな……?
このときの俺は、らしくもなくそんな突拍子もないコトを考えた。
小っさなエルフは相変わらずぼーっとした表情でこっちを見てやがる。
こんのクソガキ、俺がわざわざ喰わずにいてやったってのに、ウンともスンとも言いやしねぇ。
ナニサマのつもりだコラ。
「……なんだよ。言いてえコトがあんならさっさと言えよ」
「………」
ほら見ろ、まぁただんまりだ。
もしかしたら喋らないんじゃなくて喋れねえのかもしれないが、これ以上こいつに付き合ってたって埒があかない。
こんなやつ無視だ無視。
チビの相手は諦めて、ついてくんじゃねえぞ、ってな具合に一言付け加えてから歩き始める。
こんだけドスのきいた声で脅してやりゃあ、さすがにもうついて来ようとは思わねえだろ。
けど。
俺の認識が甘かった。
このガキ、まだ俺の後をついてきやがる。
短い足を一生懸命に動かして。
ぷくぷくのほっぺたをりんごみてえに染め上げて。
しかも、俺がどんなに早歩きしたって、必死こいてついて来ようとする。
……ったく、なんだってんだ。
俺は軽く舌打ちして、ついに走り出した。
相手は二本の足で歩く子供。
対する俺は獣だ。四本足で走れば力の差なんざ歴然。
チビとの距離はあっと言う間に開いていく。
───ああ、これでクソガキともおさらばできる!
そん時だ。
ヒトの何十倍も良い俺の耳が、ばたんっと何かが倒れる音を聞きつけた。
つられて足を止め振り返ると案の定、あのチビが地面に倒れ伏してるじゃねえか。
張り出した木の根か何かに躓いたんだろう。
まったく、ドンくさいったらありゃしねえ。
はんっと鼻で笑った俺をよそに、チビは強かにぶつけた額を真っ赤にしながらヨタヨタと立ち上がる。
───へぇ、ガキにしては意外と骨があるじゃねえか。
一瞬でもそんなコトを考えた俺をぶん殴ってやりてぇ。
関心してる場合じゃあないってのにな。
だが、この時の俺はどうかしてた。
ホントに、どうかしてたんだ。
大声で泣き喚くでもなくその場に座り込むでもなく立ち上がったあいつを、俺はただ見ていた。
とっとと離れちまえばいいものを、立ち上がって、また歩き出すチビをただひたすら見ている俺の姿は、はたから見ればさぞかし滑稽だったろう。
だんだんと近づいてくるエルフのガキをよそに、俺のよっつの足は、縫い止められたっていう表現がぴったりなぐれぇ動かなくなった。
別に、気が変わったわけじゃあない。
あんなやつに関わる気はさらさらないし、面倒ごとなんざ絶対にごめんだ。
なのに、俺はそいつから目を離せなくなってた。
こんなコト、今までの俺だったら天地がひっくり返ったってありえねぇのに。
くそっ、なんだってんだ。
エルフのガキは、よろめきながらも少しずつ距離を縮めてくる。
足元をふらつかせるたびに長い金髪がぶわりと巻き上がる。
しばらくして。
チビはようやっと目の前まで来た。
けれど何をするでもなく、じいっと俺の顔を見つめている。
なにガン見してんだコラ。
互いに黙りこくったまんま睨み合いが続く。
それから二、三分が経った頃だ。
チビのふっくらした手が、俺の顔に伸びてきた。
危機感だとか、そんなモンは感じなかった。
ただ、こっちをひたすら見てくる薄紫の目が、邪な考えをいっさい寄せつけないほどに純粋だったのを、よく覚えてる。
例えば思いがけず早起きしちまった朝の空の色だとか、ふとした瞬間に視界に入った花の色だとか。
目だけじゃねえ、こいつの存在そのものが〝自然〟だった。
小さな手は顔の横の毛をかいくぐって、首のあたりにたどり着く。
自然と俺の首根っこにチビが抱きつくようなかたちになったが、不思議なまでに不快感はなかった。
すりすりと頬を擦り寄せてくる様は、親に甘える仔猫みてぇだ。
そんな時、俺の耳がぽつりとひとつ、小さな呟きをとらえた。
「……もふもふ」
とうの昔に忘れたはずの他人の温かさに、ほんのちょっとだけ心地良いと思っちまったってコトは、誰にも言えねぇ。
これが、始まりだった。