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フリーワンライ

じゃのめのお迎え

作者: 千葉 某

耳をくすぐるテノールボイス

感情的

森閑とした雨の中で


 はたはた、と雨が降る音を耳の端にとらえながら、雨が「しとしと」降ると形容しはじめたのはいったい誰なのだろう、ときりのないようなことに思いをはせた。

「あめ、あめ、ふれ、ふれ、かあさんが」

 窓の外、雨合羽に長靴を履いた子供が水たまりを跳ねるように歩くのを見ながら、ふとそんな童謡を思い出した。

「じゃのめでおむかえ、……うれしいな」

 傘をさして子供を迎えに行く母親。それを喜ぶ子供。うれしい、のだろうか。状況を理解できても感情を理解できずに、考えは水たまりに落ちる雨粒のように、はたり、またはたりと降り注いではしみていく。

 今日は雨ですね、いやですねえ。そんなテンプレート化した日常会話があるくらいなのだから、きっと多くの人は雨が好きではないのだろう。余分な荷物が増えるし、濡れるし、じっとりと服からしみこんでくる寒さはまるで冷たいナイフのよう。それを、「母親が傘をさして迎えに来てくれるから」なんて簡単な理由で喜ぶ子供は恐ろしく単純で、ばかみたいで、そしてそんな彼らをたまらなくうらやましく思った。

 私には到底できっこない。……雨の日、傘をさした母親に捨てられた私などには。


 おとなしくしていること、しずかにしていること、めいわくをかけないこと。

 これが幼いころ、頭が痛くなるほどに教え込まれたきまりだった。あの日も行きがけに母親から無感情な声で言われ、こくり、うなずいた記憶がある。どんな顔をしていたか、そんなことはとうの昔に忘れた。……あるいは、はじめから彼女の顔など見たことはなかったのかもしれない。それでも言われた言葉は、そして私の体温をじわりと奪う彼女の手の冷たさは今でもはっきりと覚えている。

『じゃあね』

 そう言い残していつものように私を保育所に預けた母親は、二度とその園の門をくぐることはなかった。

『のりちゃん、今日お母さんからお仕事忙しいって言われなかった?』

 外もすっかり真っ暗になって、まわりの友達の最後の一人が片手を振って、もう片方の手をしっかりと母親につながれて園を出て行ったあと、先生は困ったように私にたずねた。私は首を横に振る。

『お手紙とかはもらった?』

 この質問にも首を横に振れば、そっか、と困ったように笑う先生は、ちょっと待っててねと立ち上がる。

『わたし、めいわく?』

 めいわくをかけないこと。そんな冷たい母親の台詞を思い出して、彼女の背中にそう尋ねると、驚いたように先生は振り返ってもう一度私に線の高さを合わせ、そんなことない、大丈夫だからね、と必死に私に言い聞かせた。そんな頃、すみません、と間の抜けた声が響いた。母親のものではない、知らないテノールが。

 今度こそ立ち上がって様子を見に行った彼女を見送って、ぱらり、絵本をめくる。訝しむ先生の声、ほやりと笑うテノールの声、困ったような先生の声、のらりくらり、テノールの声。ぱらり、私はまた絵本をめくった。

 それを何度か繰り返したころ、ふと目の前に影が差した。見上げると、知らない男の人が立っている。

『はじめまして。きみのお母さんに、世話を頼まれたんだ』

 ふわり、優しいテノールが耳をくすぐった。行こうか、と手を差し伸べられて、何のためらいもなくその手を取った理由はもう覚えていない。彼の手にすがるよりほかに何もなかったのか、これ以上先生に迷惑をかけたくなかったのか、あるいはもう母親が戻らないことを心のどこかで感じ取っていたのか。とにかく、私は彼と連れ添って、まだ少し不安そうな顔をした先生に挨拶をして、歩き出したのだ。その手の温かさだけは、今でもしっかりと覚えている。


「キコ?」

 なにやってるの、と濡れた髪を拭きながらやってきた彼は、すとんとソファの隣に腰を下ろした。

「外、雨だなあって思って」

 ぽつりとそう返せば、そうだね、とあのころと変わらないテノールが返ってくる。

「急に降ってくるから困ったよ。傘も持ってきてなかったし」

「コンビニで買えばよかったじゃない」

「そうだね、たしかに。キコはやっぱり頭がいいな」

 キコ、というのは私の名前ではない。紀子という名前を音読みして、気が付けばこの男は私のことをそう呼び始めたのだ。

「……麻生さんは、雨すき?」

 唐突でくだらない私の質問に、彼は真剣に悩んで真剣に答えた。

「……嫌いではないよ」

 風邪を引いたり、大事な書類が濡れてしまうのは困るけれど、と笑って彼は付け足した。

「どうして?キコは雨が嫌い?」

「きらい」

 私のお母さんは、傘をさして迎えに来てはくれないもの。ぽつりとつぶやくと、目を丸くした彼は困ったように笑った。

「そうだね。会ったこともないよくわからない男と暮らすことになっちゃったしね」

「それは……っ」

 感情的に声を荒げたが、なんといっていいのかわからずに、結局開いた口から音は出てこなかった。

「たしかに、キコにとってはつらい記憶かもしれないなあ」

 そこまで考えがいかなくてごめんね。なぜか彼は謝った。違う、違うのだ。小学校や中学校に通えたことも、いま何の不自由もなく高校に通えていることも、ご飯や服の心配をしなくて済むのも、あの日からそばにいてくれたこの麻生という男がいてこそなのだ。感謝こそすれど、恨むことなどあるものか。

 それをなんと伝えたらいいのかわからなくて、ただ口を開いては閉じていると、ぽん、と暖かな手のひらが頭に乗った。

「でもね、僕はキコに会えてよかったと思っているよ」

「……わたしも、麻生さんがそばにいてくれてよかった」

 それならよかった。穏やかなテノールの声が嬉しそうに弾んだ。


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