良心
夕立に蜘蛛が慌てふためいていた。
雨後の蜘蛛の巣に雫が滴って真珠のように美しい、と云うような描写を何処かで読んだ気もするが、それは余程大きな蜘蛛の巣か、そうでなければ嘘なのだろう。今、天井の際にある蜘蛛の巣は、雨に打たれて全壊したところだ。
家主の蜘蛛は、水溜りで藻掻いている。小さい形に八本の足なので、水が纏わり付いて仕方ないらしい。私もそれが目障りで仕方がなかったので、蜘蛛を指で弾き、暗がりの方へ飛ばしてやった。
山の天気は変わりやすい。足を踏み入れたときは、晴天とは言えずとも曇ってすらいなかったのに。今では、小屋の節々から風雨が入り込む具合だ。
そう云えば子供の頃、遊びで真珠を作ろうと試みたことがある。校庭の隅に、ぽつねんと不気味に備えられていたトイレでのこと。そこに張られた古い蜘蛛の巣を湿らせようと考えたのだ。しかし、指から落とした水滴は巣を穿つばかりで、一つも真珠はできなかった。「真珠など、お前の身には余るのだろう」と、従兄から訳の分からない侮蔑の仕方をされたことも思い出した。
私の手には、大叔母を殺して奪った真珠がある。
初めは、もはや馴染みとなった質屋にでも売っ払おうと企んでいたが、いくら馬鹿な私でも、それがどんなに危険なことかは、直ぐに気付いてしまった。
大叔母は祖母の妹で、富山の高利貸しに嫁いだ人だ。祖母の父は代々からの資産家であったため、金には随分と甘やかされて育ったと見える。大叔母は、こいつをネックレスにでも誂えようと考えていたらしい。首など、何処を探しても見付からないような人なのに。絞めようにも手間取ったため、そこらにあったキッチンナイフで、目を突いてやるより他なかった程だ。
大叔母からは、よく金を借りていた。けれど、本家筋の祖父は「貸した金はやったものと思え」と、口癖のように言っていた人なので、大叔母は私の面倒でも看ているつもりだったのだろう。
しかし、父から生真面目さを継いでいた私は、それがどうにも我慢ならなかった。私が父から受け継いだものは、氏を除けばそれぐらいのものだったからだ。
今の今まで、人殺しとはなんぞやと、疑問にして仕方のなかった私だが、これが殺めると云うことなのかと考えると、すっと気が抜けた。このような始末は、日常に広がる一風景でしかなく、特別で恐ろし気なことではない。
ただ、悪いことなのは確かだろう。背を這い上がる蜘蛛のようで、気分が悪い。何より困るし、参る。最中と事後暫くはよろしいかもしれないが、事前の仕込みは面倒で、それからずっと虚脱感が拭えない。これだけ骨を折るなら、湯女の相手をする方がいい。
何が悲しくて真珠なのか。こんなものは腹の足しにならない。バラ子の方が、ずっと綺麗で美味しい。あれは命に満ち満ちている。翻って、この手に収めた真珠を覗いてみると、なんと味気ないことか知れない。
私が金よりも何よりも、まず真っ先に真珠に手を付けたのは、きっと母のせいだと思う。私は母の味を知らない。
母は真珠のネックレスを持っていた。それは、彼女が結婚指輪以外に唯一所持していた宝飾品で、父がやったものだったらしい。母は父と離婚して、私を置いて出て行ったが、そのネックレスは暫くの間、家に置き去りにされたままだった。
中学に上がったばかりの頃だったか、唐突に母が我が家を訪ねて来た。私は幼い頃と変わりなく、黴臭い家に住み続けていたので、母と僅かばかりの対面を果たしたのだ。丁度その時期は春休みの真っ盛りで、家には私だけだった。
母と何を話したのかは思い出せない。取り留めもない、要旨を掴みかねる会話だったことだけは確かだ。そして、それはあまり面白くもなかった。
ただ、この会話はきっと大切なものなのだと、私の良心は判断していた。だから、つまらなくとも、とても下らなくとも、私は何を置いてでも、母と会話するのが重要なのだと考えた。何故、そう考えたのかは解らない。しかし、それがあるべき母と子の関係なのだと、そう無自覚に思っていた。
どれくらい母とそうしていたかは、今となっては思い出せない。だが、家を去る母の後ろ姿が不自然に明るかったことだけは、鮮明に覚えている。
それから真珠のネックレスがなくなっていることに気付くのは、私が大学へ行こうかと悩んでいるときだった。以来、私は真珠の白光りが恐ろしくて、脳裏を過ぎって、不気味で、震えてどうしようもない。大叔母を殺そうと思い至ったのも、そこに母がいたからだ。
こんなもの全く濁っていて、蜘蛛に纏わり付く水滴の方が、余程。
最近、家に蜘蛛がよく出たんです。暖冬と言えど、流石に寒くなって来たので、ここ最近は見かけなくなったのですが、二月ぐらい前はよく細いのと遭遇しました。
それで、トイレに彼らの置き土産である蜘蛛の巣があるのを発見したので、水滴を垂らしてみようと試みたのですが、これが上手く行かず、床が濡れただけでして。
それが今日の昼間の話です。そこから着想を得ました。
ただそれだけの話です。