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ウィスタリア  作者: 藍間真珠
第四章
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第六話 お茶にしましょう

 ニーミナの春は喜びに溢れた季節だという。長らく地を覆っていた雪が消え、日に日に暖かくなると、草木も花も鳥も人も生き生きと動き出す。まだ吹き荒ぶ風は冷たくとも、眩しい陽光に照らされた世界は一気に華やぐ。それを時が目覚めると表現したのは誰だっただろうか。重たい足取りで歩いていたゼイツは、やおら首を傾げた。

 彼の目の前では、まさにそれが起こっていた。季節が何度も巡り、ようやくの思いで久しぶりに訪れたニーミナは、ちょうど春を迎えたばかりだった。煤けた大地を歩き続けて疲弊した彼を待ち受けていたのは、白い雪から顔を出した下草だ。薄青の空から降り注ぐ日差しは暖かい。花こそ咲いていないものの、光を浴びて輝く景色には晴れ晴れとした気持ちになる。

 風除けにはちょうどよい白いマントを、今すぐ脱ぎ捨てたい衝動に駆られた。もっとも、これがなければ逆に凍えてしまうのだとも彼は理解していた。国の使者を象徴する一つである分厚いマントは、防寒着としては最上級の位置に当たる。簡単には破れそうにない丈夫な代物だ。

「その分、重いけどな」

 彼は足を止めて独りごちた。ニーミナの国内に入ってからというもの、彼の歩調は確実に落ちていた。その理由も、自覚している。長らく離れていた懐かしい者たちに会うことを思うと、どうしても気持ちが重くなった。あれから自分は変わったのか、変わっていないのか。成長したのかしていないのか。旅の途中、幾度となく自問した。そして答えが出ぬままニーミナまで辿り着いてしまった。

 イルーオの研究者が来訪してから、世界の流れは変わった。ニーミナは宇宙への玄関口として確固たる位置を得ると同時に、各国の利権争いという荒波に揉まれることとなった。ジブルとナイダートは、その波の原因の主たるものだ。両国は互いに牽制しながらも、少しでもニーミナの人間を取り込もうと躍起になっている。

 この度ゼイツが派遣されることになったのもその一環だ。彼は大仰にため息を吐くと、マントを留める紋章へと目を落とす。かつてフェマーが付けていた物と同じ、ジブルを代表する人間にだけ許された証だ。それをまさか身につけることになるとはいまだに信じがたいと、ゼイツは微苦笑を浮かべる。実に似合わないし違和感がある。

「俺に何を期待してるんだか」

 一度首を回してから、ゼイツは再びゆっくり歩き出した。何も知らなかった頃に無我夢中で走った殺風景な道を、今度は悠々と進む。ただ雪解け水のため所々ぬかるんでおり、油断すると足を取られそうだった。彼は瞳をすがめる。道の遙か先には、早くも白い建物が見えていた。この国の象徴であり、中枢に位置する、ウィスタリア教ただ一つの教会だ。

 来てしまったと、彼は内心で呟いた。ついに戻ってきてしまった。肩口で跳ねる癖のある金糸を払い除け、彼は唇を引き結ぶ。まだあそこにラディアスはいるのだろうか? ルネテーラはいるだろうか? ウルナとクロミオがいないことはわかっている。

 カーパルは、おそらくいるだろう。会議でも度々その名前が挙がっていると、父――ザイヤは口にしていた。誰にも媚びず、なびかず、揺るがず、彼女は今もニーミナの中心に立っている。その心はおそらく今も女神へとだけ向けられているのだということは、ゼイツには容易く想像できた。彼女はニーミナとウィスタリアのことしか眼中にない。

 俯きがちになっていたことに気づき、彼は顔を上げた。教会は燦々とした日に照らされながらも、それでもひっそりと隠れているように見えた。何があっても枯れることがない木々に囲まれているせいなのか? まるで緑に埋もれているみたいだ。その林の中を貫く『教会道』へと、彼は足を踏み入れる。

 風が細い枝を揺らし、切なげな旋律を奏でた。先ほどからずっと人気はない。ゼイツはマントの端を押さえて、周囲へと視線を走らせた。どこかで鳥が鳴いたような気がしたが、それらしき気配はない。気のせいだったのかと頭を傾けると、今度ははっきり羽音が聞こえた。彼は空を見上げる。

「……いない、よな」

 それでも、やはり鳥のようなものは見あたらない。眉根を寄せて、彼は首を捻った。迷いが生み出した幻聴にしては妙だし、聞き間違えるような音も他にはない。この道を満たしているのは風の音だけだった。聞こえたのが生き物の足音のようであれば、どこかにあの薄紫の豹がいるのだろうと納得できるのだが。

「まあ、いいか」

 気にしても仕方がないと、ゼイツは頭を振って歩調を速めた。この場に長居してはいけない気分になる。彼は真っ直ぐ西の棟を目指した。ぬかるんだ道をしっかり踏みしめて、異様な焦りを落ち着けようとする。

 もうしばらく進んでいくと、祈り終わった一団が大きな扉から出てくるのが見えた。彼らはゼイツの姿に少しだけ眉をひそめるが、それでも何も口にすることなく脇を擦り抜けていった。ゼイツも無言だ。ニーミナの人々に今の自分がどう映るのか、問わなくても予測はできる。快く受け入れたい存在ではないだろう。政争についてニーミナの民がどれだけ知っているのか定かではないが、それでも国が危機に陥っている話くらいは耳にしているはずだ。

 人々の足音が遠ざかっていくのを聞きつつ、ゼイツは西の棟へと入った。かつて何度か訪れた部屋の中と、特段変わりはなかった。女神像に向かって祈る人々がいるだけの、静謐な場所だ。そのことに安堵している自分に気がつき、彼は胸中で苦笑する。何を考えているのだろう。懐かしんでいる場合ではないのに。

 一人でも多くの人間をジブルの味方に付けろというのが、ゼイツに課された使命だった。もっとも、彼はそれをまともに遂行するつもりはない。いや、全くないわけでもない。ただ欺きながら取り入るような真似をするつもりはなかった。

 正式な使者として入国した場合は、どこへ向かうのが正しいのだろうか? そんなことを考えながら、彼は周囲を見回した。部屋の片隅で両膝を折って祈る者が数人、後は座り込んでいる者たちが数人いるだけだ。ちょうど昼食の時間であると、彼は思い至る。

「ゼイツ殿」

 その時、不意に名前を呼ばれた。声の方を振り向くと、女神像の前に初老の男が立っていた。ゼイツはその名を思い出そうと慌てて記憶を掘り起こす。幾つか候補は出た。だが決定打がない。似たような印象の人間がいたという事実を思い出しただけだった。

「お久しぶりです、ホランティオルです」

「ああホランティオル、殿」

 ゼイツはかろうじて顔に微笑を貼り付ける。使者としての振るまいというものについて何度も学んだはずだが、実際にこうして顔を合わせるとむずがゆさの方が先に立った。それでも失礼のないようにと、ゼイツは軽く一礼する。白いマントが揺れて衣擦れの音がした。

「どうもお久しぶりです」

「お待ちしておりましたよ。あなたが来ると聞いて、ラディアスも喜んでいます」

「そう、ですか」

「どうぞこちらへ」

 にこやかに案内を始めるホランティオルの後を、ゼイツはついていった。この男の背を追うのは何度目だろうかと、ゼイツは考える。巨大な穴を目指した時、そしてセレイラたちを迎えた時。他にもあっただろうか? ニーミナでは想定外なことが連続していたため、記憶が曖昧だ。

 ホランティオルは女神像の土台の裏、そこにある小さな扉を開いた。それが奥の棟へと繋がる隠し通路であることをゼイツは知っている。フェマーが通されたのが奥の棟であったことも思い出した。使者を迎え入れる場所は相変わらずそこなのか。何も説明する気のないホランティオルの後ろ姿を眺めつつ、ゼイツは懐かしい足裏の感触を楽しんだ。

 薄暗い階段を下り、曲がりくねった回廊を進み、また階段を上ると、奥の棟へ出る。そこは相変わらずひたすら白い空間だった。人通りはない。ホランティオルとゼイツの靴音が反響するのみで、他には全く気配がなかった。それでも窓の外から降り注ぐ陽光が、廊下全体にほのかな暖かみをもたらしている。あの頃にはなかった輝かしさがある。

「こちらです」

 しばらく真っ直ぐ廊下を進むと、一つの部屋の前でホランティオルは立ち止まった。ひたすら並んでいる扉の一つ、特に代わり映えのしないものを、ホランティオルは開ける。ゼイツは中を覗き込んだ。予想通り、記憶にあるのと変わらぬ殺風景な光景が広がっていた。ベッドとテーブル、椅子、小さな棚が置かれているだけの簡素な部屋だ。それも全てが白に統一されている。

「ここでお待ち下さい。今、お茶の準備をしてまいります」

 ホランティオルに促されて、ゼイツは部屋へと足を踏み入れた。扉が閉まると、ますます静寂が強調される。拒絶感露わな空気が、容赦なく体の内へと侵入してくる。自身の鼓動が強く響いたように思えて、彼は胸元を押さえた。途端、揺れた白いマントが視界に入り、またもやそれを脱ぎ去りたいという思いに囚われる。やけに重い。何故だか息苦しい。それでもどうにか衝動をやり過ごして、彼は紋章へと触れた。

「まったく」

 これからが本番なのに、これしきのことで動揺してどうするのか。ゼイツは自嘲気味な笑みを浮かべた。ジブルの人間は、ニーミナに知り合いがいる唯一の人間である彼を、橋渡し役としたいのだろう。彼にその気がないのを知りつつもこのように使者として派遣するくらいだ。ある意味では追い詰められているのかもしれない。

 どんな話を持ち出しても、カーパルには応じる気がないためだろう。だがゼイツが対等にカーパルとやり合えるとは思えない。では彼はどうすればいいのだろうか? 派遣されることが決まってから、そのことを何度も考えた。結論は出なかった。誰も傷つけたくはないし、困らせたくはない。それでも皆が幸せになる方法などないとわかっているから、どう動けばいいのか判断できなくなる。

「結局俺は変わってないんだな」

 この旅は、彼に残酷な事実を自覚させた。ジブルに戻ってもなお彼の立ち位置は不安定なままで、どこへ向かえばいいのかずっと探し続けてきた。縋る先はない。頼りとなる者はいない。同じ気持ちでいる人間はこの世界にはいないのだと突き付けられ、彼は拠り所を失った。それでもがむしゃらに生きることを選択したのは、ニーミナでの経験があったからだろう。立ち止まり目を瞑ってしまっては、見えるものも見えなくなる。わからないのならば、知ろうと努力するしかなかった。

 彼は嘆息すると、部屋の隅にあるベッドに腰掛けた。旅の間に少しだけ伸びた金の髪へ指を絡ませ、ついで首の後ろを掻く。頭の奥が重い。単に旅の疲れが溜まっているだけではないだろう。あらゆる思惑に流されそうになる自分に、ある意味では憤っている。カーパルのように割り切れたらどれだけ楽かと、何度思ったか。フェマーたちに落胆されることは怖くない。だがいまだにザイヤに迷惑を掛けることに対しては、罪悪感があった。ゼイツが好きに動けば動くだけ、ザイヤの立場は苦しくなる。

 ゼイツの立ち位置は、いつまでも中途半端なままだった。心がジブルに寄り添えない。かといって冷静にもなれない。ふわふわと宙に浮いた彼の存在は、ジブルの中では異端であった。それを鬱陶しく思う者もいるが、逆に利用価値があると見なす者もいる。これがまた面倒であった。幾度争いに巻き込まれただろうか? 数えたくもない。

「俺の立場は、ニーミナに似てるのかもな」

 つい、また苦笑が漏れる。ジブルとナイダートに挟まれて翻弄されるニーミナの姿と、ジブルの政争に巻き込まれるゼイツの姿は似通っていた。無論、ゼイツにはニーミナほどの価値はない。ジブルの人間は、単にゼイツをニーミナへの道としたいだけだった。

「ああ、でもニーミナがイルーオへの道になってるんだから、やっぱり同じなのか」

 独りごちる声が室内に染み入る。このように自分の立場について考えていると、やはり以前とは何も変わらない気がした。使者となっても彼に力はなく、権限もなく、ただ行動の自由だけが与えられている。その自由も、危険と引き替えだ。後ろ盾がないことと同じだった。

「俺は何のために動いてるんだろうな」

 いつでも疑問は彼の中を埋め尽くしている。自分は誰の味方で、何を目的としているのか? ジブルのために全てを投げ出すことはできないし、ザイヤのために自分を押し殺すこともできない。素知らぬ顔でニーミナを利用することもできない。しかしそれでも、ゼイツは自分の立ち位置を確保しようとしていた。無駄な争いを極力避け、意見を擦り合わせるために密かに情報を集めるのだ。

 自分が納得できる選択をし続けた結果、そのような道が次第に見えてきた。何をするにもとにかく耳を澄ませる必要がある。後悔しないために今できうる限りのことをするしか、そのせいで、彼の存在は余計に異端となるのだが。

「まあ、別にいいんだけどな」

 一人の人間にできることなど限られているだろう。そう自らに言い聞かせて呟いた次の瞬間、扉を叩く音がした。それは音を失った部屋の中、やけに大きく響いた。お茶の準備が終わったのだろうか? 慌てて立ち上がったゼイツは「はい」と答えながら戸へ向かう。揺れたマントが足に絡みつき鬱陶しかった。ずいぶん長いことこれを着て歩いていたのに、いまだに慣れない。

「開いています」

 そう口にしながらゼイツは扉を開いた。そして、大きく息を呑んだ。視界に入ったのは想定外の人物だった。目の前にたたずんでいたのはウルナだ。緩く波打つ髪を束ね、左目を黒い布で覆い、肩から大きな布を羽織ったウルナが、静かに微笑んでいた。両腕の中には大きな籠がある。そこからほのかに優しい香りが漂っていた。

「お久しぶり、ゼイツ」

 破顔するウルナから目を逸らすことができず、返事をすることもできず、ゼイツは立ち尽くした。予想だにしなかった事態に思考がついていかなかった。ただ今ここにいるのが本当に彼女なのかと、それを確かめようと視線だけが動く。籠を抱える手も、ゆったりとした生成り色のスカートも、か細い足も、記憶にあるものと変わらない。

「ウルナ」

「驚いた?」

「ああ、驚いた」

 わずかに悪戯っぽく笑ったウルナへと、ゼイツは頷いてみせた。その笑い方が誰かに似ているような気がして、彼は記憶の中の人物を捜す。セレイラだ。イルーオからやってきたあの研究者が、似たような表情をよくしていた。そこまで考えたところで、ようやく彼の口もまともに動くようになる。

「どうして、ここに? イルーオに行っていたんじゃあ」

「行っていたわ。そして、帰ってきたの。つい先日のことよ」

「そうだったのか」

 ゼイツがジブルを出発した時には、宇宙船が地球に降り立ったなどという話は聞いていなかった。それでは旅の最中のことだったのか? だがニーミナに入った時、宇宙船らしき姿が見えた記憶はなかった。もしかすると、また教会の裏へ着陸していたのかもしれない。あの位置ならばわからないだろう。

「ニーミナに着いたらね、あなたがここに向かっているって、ラディアスがすぐに教えてくれたのよ」

 頭を傾けながらウルナはさらに口角を上げた。以前よりもずっと穏やかな表情だ。このように笑うことができるのだと、初めて知ったような気がする。ゼイツは徐々に鼓動が速まるのを自覚した。胸騒ぎのようにうるさい。手のひらにも汗が滲む。

「ジブルの使者だなんてすごいのね」

「いや、俺は……」

「聞きたいことがいっぱいだわ。話したいことも。ちょっと時間をいただいたの。お茶にしましょう?」

 戸惑うゼイツの様子は気にせず、ウルナはそう言って籠を掲げて見せた。そして以前そうしていたように、自然な動作で部屋の中へ入ってくる。彼は黙したままそれを受け入れた。懐かしくて、胸の奥が暖かい。けれども同時に痛い。テーブルの上にそっと籠を乗せる彼女の背中を見ていると、喉の奥が詰まった。彼女は慣れた様子でカップ、ついでポットを取り出す。白いカップに注がれるお茶からはいい香りが漂っていた。揺れる湯気が眩しい。

「いい匂い。この葉、姫様が育てたんだそうよ。クロミオがいつも摘んできてくれていた葉ね。部屋の中でも育てられないかどうか試してみたって」

 嬉しげなウルナの声が部屋の空気を震わせる。ゼイツは一歩、彼女へと近づいた。動悸が増して、口が渇く。自分がどれだけこの再会を待ち望んでいたのか、意識せざるを得なかった。当たり前のようにあるこの空気が、嬉しいのに空恐ろしい。先ほどまで感じていた虚無感など跡形もなかった。

「雪が溶けたら姫様の庭にも行きたいわね。きっと綺麗よ」

 お茶の準備をしながら、何気ない調子でウルナは続ける。そしてカップの一つを手に取ると、おもむろに振り返った。また一歩彼女へと近づいたゼイツは、息を止めて黒い瞳を見据える。全てを見透かす深い色の奥には、確かな光があった。彼は頬を緩める。

「――そうだな」

「みんな、あなたのことを気にしていたそうよ。ラディアスがそう言ってた。姫様も言ってた。もちろん、クロミオも会いたがっていたわ。あなたが来ると知って大はしゃぎしていた」

「そうか」

 流暢に喋るウルナとは対照的に、ゼイツは簡単な返事しかできない。口にすべき言葉はいくらでもあるはずなのに、どれも喉を通って出てこなかった。先ほどまで頭の中を渦巻いていたあらゆる悩みが、どうでもいいことのように思える。こんな肝心な時に機能しない唇の方が忌々しい。どうして思い通りに動いてくれないのか。

「私も、ずっと会いたかった」

 ウルナは真っ直ぐゼイツを見据えた。そしておもむろにカップを差し出してきた。彼は喉を鳴らし、おずおずと手を伸ばす。分厚いマントが揺れた。彼はそっと、白いカップを受け取る。指先からじんわりと染み込んでくる熱は、どことなくニーミナの春を思わせた。

「俺も、会いたかった」

 ようやっとの思いで口にしたのは、たった一言だった。それがゼイツの精一杯だった。しかし花が咲いたように微笑むウルナを見ていると、それだけでも十分だったのだと知る。余計な言葉は必要ない。国の思惑に縛られない心がここにあることを、彼は瞬く間に理解した。

「あなたの話が聞きたい。私の話も聞いて欲しいの」

 ゼイツは相槌を打った。気持ちは同じだった。そこに理屈はない。同じく未知の世界へ挑んだ者同士だからという、単純な話でもない。理由など、どうでもよかった。そんな感情があることを彼は初めて自覚する。根拠もなく確信できるものが、この世界には存在するのだ。

「だから、お茶にしましょう。あなたがまたここに来てくれて、本当によかった」

 饒舌なウルナへと、ゼイツはそっと右手を伸ばす。触れた白い頬がわずかに赤らんだ。それでも彼女は身じろぎもしなかった。彼は大きく頷き、かろうじて口の端を上げる。そして誰にも聞こえぬように「ありがとう」と囁いた。誰に対する言葉か、彼自身にもわからない。しかしそれでいいと思えた。

「ああ」

 湧き上がる決意を胸に、はにかみながらゼイツは瞳を細めた。どこかで女神が微笑んでいるような、そんな気がしていた。

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