永代橋異聞
さあ、漫才のお時間。ドリとボタンのお二人です。お題は『永代橋異聞』。なんかカタストロフあり、落語ありと満載です。さあ、皆さん、拍手でお迎え下さい。では――
1.起
ちゃかちゃんちゃんすっちゃんちゃーん。拍子木の音と共に登場する二人。
「ドリでーす」
「ボタンですぅ。おばんです」
「いや、おばはん……と言ってはあかんのです。いえいえ、ごめんなさい」
「後でよーお仕置きしたげるさかい、覚悟しとき。で、本日の御題はなんやねん?」
「えー、永代橋についてです」
「大阪の橋やないんかい!」
「あー、えー、まあ、その、大阪にもたくさんありますよね」
「当たり前や。水都大阪やねん。天下の台所は水運で栄えとったんやねん。浪華八百八橋って知らんか? 大阪は川と水に囲まれた町やねん。それを差し置いて、江戸? 東京の橋? なんで永代橋やねん! 許せんわあ」
「ま、ま、そう興奮しないでください。たまたま、ネタの収集にちょうど、この橋の話があったというだけのことです。特にそんな深い意味が――」
「深い意味がないんなら、余計にやらなかん理由がわからんわあ!」
「えっと、えっと、江戸時代に事故があったとか、関東大震災で燃えたとか、そんな話の本を――」
「事故だの火事だの――縁起悪いわあ。そいう話か。そならええわ」
「なんですか! その態度の急変は! ついていけませんです!」
「縁起でもない話は上方に持ち込まんといて。東京でやればええねん」
「えらく地域エゴがでてきてますけど。まあ、お許しが出たみたいなので話をすすめます。えー、本日は永代橋異聞ということで」
「で、それ、どこの橋のことやねん?」
「そこからですかあ!」
2.承
永代橋。東京は隅田川にかかる鋼鉄製のアーチ橋である。現在の橋は大正15年に完成したもの。施行主体は東京市復興局である。
「東京市? 復興局?」
「東京都になる前、関東大震災の際にかけ直しになったんですよ。震災復興事業なんです。その前にあった永代橋は明治30年に架けられたものなんです。道路橋としては日本で初めての鉄橋だったそうです」
「ほほー、つまりそれ以前は木橋やったわけやねえ。時代を感じるわあ。いったいいつぐらいまでさかのぼるの?」
「隅田川に最初に架けられた橋は千住大橋なんです。それは徳川家康が江戸に入って間もない文禄3年(1594年)のことで、大変な難工事で、熊野権現に祈祷してようやく完成したと言います。橋長120mという橋は当時はもちろん、今でも長い橋ですから大変な工事だったでしょうね。
当時は単に「大橋」と呼ばれたそうです。そりゃ一本しかないような大きな橋ですから、それだけで十分通じたと思いますね」
「そやけど、隅田川にその橋一本だけというわけ? よくそれで間に合ったもんやねえ」
「幕府の方針としては、まずは江戸の防護が最優先。なので橋の建設を認めなかったという理由があるんですよ。
ところが明暦3年(1657年)に大火災が江戸で発生します。明暦の大火といわれるものです。振袖火事って言った方が通じるかも知れませんね」
「おお、確か供養に振袖を火に投じた途端に燃え上がり、江戸中が火災になったという、あれか」
「原因についてはいろいろあるみたいですけど、江戸の町の大半は焼けるわ、江戸城の天守閣さえ燃え落ちてしまうわ、死傷者は数万とも十万とも言われてます」
「うん。で、その火災が?」
「避難する人が隅田川に追い詰められて逃げるに逃げられず、それだけの死傷者が出てしまったのですから、避難路の確保という意味で、千住大橋の下流に両国橋が架けられたんです。
万治2年(1659年)とも寛文元年(1661年)とも言われていますが、橋長約200m。千住大橋を追い越して、隅田川最下流の最大の橋。ですから、こっちが「大橋」になっちゃたそうで」
「ああ、大きい方が大橋やからねえ」
「そして元禄6年(1694年)にその下流に3番目の橋が架けられます。新大橋。2番目の両国橋が大橋なので、それより新しく、新大橋」
「うーん、安直やけどわかりやすいわあ」
「古い方は、旧大橋ではなく、両国橋となります。武蔵国と下総国の両方に跨った橋だからと」
「そして、四番目に架けられたのが、永代橋ちゅうこっちゃね」
「はい。で以上の四つの橋が明治に至るまで、隅田川に架かる橋梁だったわけです」
3.転
初代の永代橋が架けられたのは元禄の11年(1698年)。当時の将軍徳川綱吉の50歳祝賀として架けられたものだという。現在の橋よりも約100mほど上流で、名前の由来は東側に永代島という名前があったからだという説や、徳川幕府が永遠に続くという願いでこの名がつけられたという説がある。後者の場合は、永代橋があって対岸が永代島と呼ばれるようになったという。
「しかも、当時の隅田川は大川と呼ばれていました。明治43年の洪水をきっかけに、明治の末から昭和の初期にかけて荒川放水路が造られて、現在はそちらへ流れている水が、昔は今の隅田川に流れ込んでいたんですよ。
しかも当時は隅田川の最下流の橋なんです。江戸時代の主要な物資の運搬便、舟運への影響を無くすために永代橋の橋脚は満潮時でも3m以上の高さがあったといいます」
「ほほお、長さといい、高さといい最大級の橋やったちゅうこっちゃねえ」
「赤穂浪士もの吉良上野介の首を掲げて渡ったそうですから、そりゃもう当時のランドマーク的な橋だったでしょうねえ」
ところがその永代橋に危機が訪れる。将軍徳川吉宗の時代。吉宗は幕府の財政再建を狙った年貢の改定や新田の開発など、各種の改革をすすめる。いわゆる享保の改革というものである。その改革の波が永代橋にまで押し寄せてきた。
もともと永代橋は幕府のお金で架けた物。今でいけば国が建設した橋である。維持管理も幕府が面倒を見るのが常識であったろう。しかし、鉄やコンクリートのない時代。洪水のたびに変動したであろう、不安定な河床に痛みやすい木僑とあっては、維持管理だけでも膨大な費用を必要とした。
そして音を上げた幕府は、享保4年(1719年)、上流の新大橋と永代橋の廃僑を決定してしまうのである。
その決定に驚いたのが江戸の町民衆。両橋の存続を幕府に願い出た。その結果、維持管理の経費は町方が負担することで存続することになった。
「んーということは、今で言うとどういうこと?」
「地元が維持管理を負担するので、橋は存続したわけです。橋の通行料を取ったり、橋詰で市場を開いて通行人を確保しようとするなど、費用の確保に努めるわけですが、如何せん、隅田川と言う巨大河川が相手。しかも年々橋は老朽化していくわけです」
「うんうん。施設の老朽化は今でも大問題やもんなあ」
「しかも当時は木の橋。老朽化の速度は鉄やコンクリートとは違いますからね」
「ああ、悲劇が目に見えるようやなあ」
その悲劇は文化4年(1807年)におきた。
旧暦の8月15日に行われるはずの11年ぶりの深川富岡八幡宮の祭礼。それが雨で順延になり19日のこと。待ちに待った大祭と言うことで、庶民が殺到した。
しかもその直前に一橋公が乗った御座船が橋の下を通る予告があり、見下ろしてはならないと庶民の群れは橋の手前で足止めをされてしまう。船の通過は遅れに遅れ、庶民の群集は膨らみに膨らみ、苛立つ。
やがて足止めの縄が解かれ群集は一斉に橋を渡り出した。が重みに耐えかねて永代橋は中央部からやや東側数間が崩落。崩落を知らぬ後方の群れは押し合うように渡ってくるので、折れた橋先から色とりどりの花を散らすように群集が大川に落ちていき、死者行方不明者は奉行所の発表で440名。実際には1400人を越したのではないかという大惨事となってしまった。死体は下流の品川沖にまで流れ着いたと言う話である。
4.結
「うわあ、西にもあるわあ。明石花火大会歩道橋事故や。群衆が押し寄せて、にっちもさっちもいかんようになるちゅうのは怖いねん」
「今なら裁判沙汰でしょうけど、当時はお上に逆らうこともできず、こんな歌で憂さ晴らししたそうです」
永代とかけたる橋は落ちにけり きょうは祭礼あすは葬礼
深川の底は八幡地獄にて 落ちて永代浮ぶ瀬もなし
この事故の真っ最中、群衆の流れを止めなければならないと、南町奉行所の同心、渡辺小兵衛が橋上で抜刀して振り回し群衆を制止させたという逸話も残っている。
曲亭馬琴は「兎園小説」に「前に進みしものの、橋おちたりと叫ぶをもきかで、せんかたなかりしに、一個の武士あり、刀を引抜きてさし上げつつうち振りしかば、人みなおそれてやうやく後へ戻りしとぞ」と書いている。
「どうりゃあ!」
「ぼ、ボタンさん、何を」
「えーい、つべこべ抜かすでない。えいや、どりゃあ!」
ボタンが振り回す剣に斬られまくるドリ。
「ぷきゅうー」
「えーい、この者のようにくたばりたくなかったら、寄るな! 離れろ! 立ち去れい!!」
「あー、まあ実際に斬ったかどうかは別にして、こんな感じで人止めをしたわけやな」
「もー、アドリブでやらせないでくださいよ。ほんと、ひっついわあ。この人」
「で、橋はその後どうなったん?」
「幕府によりかけ直されるわけですが、やっぱり老朽化してきます。で鉄の橋としてかけ直されたのが明治30年。ところが関東大震災で被災してしまいます。橋自体は大丈夫だったものの、橋底には木材を使用していたため炎上してしまい、多くの焼死者、溺死者を出します。その後、大正15年に震災復興事業の第一号として現在の橋が再架橋されるんですね」
なお古典落語の「永代橋」という噺も、この落橋事故を元にしている。
そそっかしい太兵衛が深川八幡宮の祭礼の日に札入れをすられてしまう。
おかげで落橋事故には巻き込まれなかったものの、見つかった札入れから死体は太兵衛ではないかとの話があり、武兵衛は酔っぱらった本人を連れて、番所へいく。
死体を見た太兵衛は「これはあたしじゃない」。
……
というような、まあバカバカしい話。
というよりも、この話は落語では珍しい実録物。とはいえ、よくぞ恐怖体験を笑い飛ばしたというべきか。
「今それをやったらどうなりますかねえ」
「不謹慎いわれて、叩かれまくるやろなあ」
死が現代より遙かに身近にあった江戸時代。不幸が多かった分、諦めと共に笑い飛ばすようになっていたのだろうか。
「不幸はないほうがええけど、それを笑い飛ばすたくましさ、やねえ」
「ええ。僕も身につけたいと思います」
「冒頭で暴言いっとったなあ。んじゃ、これから裏で不幸に落ちてもらおか。で、それを笑い飛ばして欲しいねん。さ、いかんかい!」
青ざめたドリがとぼとぼ舞台を去る。
お後がよろしいようで、と退場。
しばき倒される様子はよー描写できません。
ちゃんちゃんすちゃらかちゃん。
中央自動車道のトンネル事故以来、維持管理の必要性が声高に言われるのですけど、実際のところ、それは昔から変わらない問題のようです。今なら行政訴訟とかになるのでしょうけど、「無い袖は振れない」のは昔も今も違わないのですから。二百年前と問題に変化が無いと言うのは、どういうことなんでしょうか。そして今後はどうなっていくんでしょうね。
では。