プロローグ ──天才錬金術師は常識を知らない
白だった。
上下も、前後も、遠近さえも曖昧な、境界のない空間。
そこに立っているという感覚だけが、かろうじて“自分”を繋ぎ止めていた。
「やっと起きた?」
声は、すぐ近くから聞こえた。
驚くほど軽い調子だった。威厳も神秘性も、想像していた“神”という言葉からは程遠い。
振り向くと、そこには一人の男がいた。
年齢は読めない。青年にも見えるし、老人のようにも見える。だが何より奇妙なのは、その存在があまりにも自然にそこにいることだった。
「ここはどこですか」
口にした瞬間、自分の声がやけに乾いていることに気づく。
男は肩をすくめた。
「説明すると長いんだよね。君の世界の言葉で言うなら……“中継地点”かな」
「中継……?」
「うん。転生前の最終確認場所」
軽すぎる。
だが、その言葉だけは妙に現実味があった。
転生前。
その単語に触れた瞬間、記憶が一気に押し寄せる。
研究室。白衣。積み上がった論文。止まらない実験。評価。期待。そして──倒れた瞬間の暗転。
天才。
そう呼ばれていた。少なくとも、周囲はそう扱っていた。
けれど本人にとってそれは称号ではない。ただの結果だ。
知りたかっただけなのだ。世界の仕組みを。物の成り立ちを。まだ誰も見ていない法則を。
それだけだった。
「さて、本題に入ろうか」
男は指を鳴らした。
すると空間に、無数の文字が浮かび上がる。
剣士、魔術師、治癒師、召喚士、騎士──そして、その中にひときわ静かに存在している言葉。
錬金術師。
「なりたい役職を選んで」
男はまるで世間話でもするように言った。
「この先の世界で、君がどんな役割を持つかの選択だよ」
視線が自然と一点に吸い寄せられる。
錬金術師。
その文字だけが、妙に美しかった。
「それ、何ができるんですか」
「物質変換、生成、構造理解。簡単に言えば“世界のルールに少し触れられる人たち”だね」
面白い。
心の奥で、静かに何かが跳ねた。
知らないもの。理解できるかもしれないもの。まだ誰も完全には解き明かしていない領域。
それは、たまらなく魅力的だった。
「それにする」
即答だった。
迷いはない。
男は少しだけ目を丸くして、それから楽しそうに笑った。
「即決なんだ。普通もう少し悩むよ?」
「悩む理由がありません」
「はは、いいね。その感じ」
男は軽く手を振る。
すると空間の文字がほどけるように消えていった。
代わりに、新しい言葉が浮かび上がる。
アルマ
「君はこれから、“アルマ”として生まれる」
アルマ。
その音は、まだ自分のものではないはずなのに、不思議と馴染んだ。
「それともう一つ」
男の声が少しだけ柔らかくなる。
「君が行く世界ではね、錬金術師は“神聖視される存在”だよ」
「神聖……?」
「うん。でも君はたぶん、それを知らないまま行く」
軽い笑い声。
「だから多分、いろいろ壊すと思う」
壊す。
その言葉に悪意はない。ただの予測のように置かれていた。
それでも、不思議と怖くはなかった。
むしろ、少しだけ楽しみですらあった。
「ねえ、アルマ」
男が一歩だけ近づく。
その瞳は観察者のそれでありながら、どこか優しい。
「君の見るものが、この世界の運命を決めることになる」
「……私が?」
「そう。君の好奇心がね」
一瞬だけ、空間が静止する。
そして次の瞬間。
世界が、ほどけた。
白が崩れ、光が流れ込み、感覚が引き伸ばされていく。
最後に聞こえたのは、軽い声だった。
「じゃあ、行ってらっしゃい。天才錬金術師さん」
──そして、アルマは世界へ落ちた。
ここまで読んでくれてありがとうございます。
次回もお楽しみに




