第三話 鳳翼宮
天翼衛の騎獣――蒼鷲は、辺境の村から都へ向けて風を裂く。
機淵は護衛の若い武官の背後に跨り、革の手綱帯に掴まっていた。
蒼鷲が翼を一打ちするたびに高度が上がり、眼下に棚田と集落が豆粒ほどに縮んでいく。耳の奥で空気が詰まった。
前に座る若い武官が、僅かに顔をしかめる。
「臭くて申し訳ないな。せっかくの新品なのに」
獣脂と薬草と汗と、ついでに獣糞臭い中年男と密着せざるを得ない新米の不幸を、機淵は揶揄ってやった。
「置いていってくれても構わないのだがね」
武官がムキになって姿勢を正した。
「いえ。陛下より、貴殿を鳳翼宮へお連れするようにと仰せつかっております」
「『お連れする』、ね」
連行の間違いだろう。
機淵は苦く笑い、それきり口を閉じた。
蒼鷲の翼の下を、鳳国の山野が流れていく。
連なる峻嶺の白い頂や深い谷筋を越えると、景色は平野に変わる。
高度が落ち着き、風の唸りが凡そ収まった頃、機淵は前に座る若い武官の背に声を掛けた。
「陛下は、ああして頻繁に御巡幸なされるのか」
「左様でございます」
武官は前を向いたまま、声に力を込めて答えた。
「綱紀の緩みをご憂慮なされ、公務の合間を縫って、各地の視察をお続けになっておられます」
「護衛する側も、骨が折れるな」
「臣の務めでございます」
短く言い切って、武官は少し間を置いた。
「——新たな御代の国造りに、微力ながら携われること。この上ない光栄でございます」
「働きがいがあるものだ」
平野はやがて河と街道の網目に縫われ、地平の果てまで続く鳳都の城壁に行き当たった。波濤の如き甍が連なる。
「……空から見下ろすのは、初めてだな……」
乾いた唇から漏れた郷愁は、降下を始めた風圧に飛ばされた。
機淵を乗せた蒼鷲は宮城の北端、飛行騎獣の発着場へと降りた。
広い台地の四隅に風除けの石壁が立てられ、繋留用の鉄環が等間隔に並び、数頭の蒼鷲が翼を畳んで休んでいる。
機淵が土へ降り立つと、控えていた一人の宦官が進み出て深く腰を折った。
「徐機淵殿。外廷の客館へご案内いたします」
護衛の武官に目礼を送り、先に立って歩き出す。
機淵は蒼鷲の首筋を一度だけ軽く叩いてやってから、後を追った。
客館へ続く漆喰壁の回廊は白く、長い。
等間隔に並ぶ青磁の灯架に導かれ、塵も一片の雑草もなく磨かれた石畳を進む。
鳳凰が宿る朱塗りの柱群と、涼音を鳴らす占風鐸の下を潜った。
「変わっていないな……」
機淵は中庭へ視線をやる。
剪定の行き届いた庭木、掃き目が新しい砂利。
水路は透き通り、底の玉砂利が日の光を弾いている。
空位の五年間を経ても、宮廷はきちんと息をしていた。
「一つ、聞いても構わないか」
機淵は、前を行く宦官の背に声を掛けた。
「何でございましょう」
「陛下は、どのようなお方だ」
宦官は歩調を変えず、しかし僅かに背筋を伸ばした。
「大変真面目で、誠実なお方でございます」
「へえ」
「お若くていらっしゃいますが、志が高く、文武の臣いずれもが感服しております」
「鳳国の未来は明るいな」
宮仕えの者に対する愚問だったかと、機淵は小さく口の端を上げた。
やがて宦官は足を止め、客館の一室の前で扉を開いた。
「お召し替えのご用意と、お食事をお持ちいたします。今晩はこちらでお休みください」
通された部屋は、この六年間で寝泊まりしたどの宿よりも清潔で広い。
宦官が去ると、機淵はまず六年間着たきりの旅装を剥ぎ、用意された水で身を清めた。次に衣架に手を伸ばし、用意されていた蒼い絹織の衣に袖を通す。
やがて運ばれてきた膳には、粟飯と温かい汁物、蒸した鶏肉に青菜の和え物が並んでいた。旅暮らしの舌には上品すぎて味がしなかったが、遠慮なく平らげて箸を置く。
「やたらと丁重なもてなしだ。首を刎ねる前の、最後の情けか?」
思い浮かぶのは、腹立たしいほどに悪意のない丸顔の男、清徳。
「あいつめ……」
奴がいなければ、まだ「閑石」のままでいられたのに――喉まで上がった恨み言は、日暮れの鐘に打ち消された。
*
翌朝。
宦官に導かれ、機淵は控えの間へ通された。
高い天井の広間の中央に、先客が一人。
「先輩! おはようございまぁす!!」
白清徳が、待ちかねたように椅子から立ち上がった。
宮仕えの正装に身を包み、昨日の汗だくの姿とは別人のようだが、丸顔に浮かぶ憎たらしいほどに人懐こい笑みは変わらない。
「やはり先輩は流しより、そういう方がお似合いで——」
「お前が余計なことを言うからだっっ」
機淵は低い声で唸り、丸い両頬を左右に引っ張った。
「ひででででっ」
清徳は丸い目を、さらに丸くした。
「だって神獣医長がずっと空席だっていうんですよ!? そりゃ先輩を推すのは後輩として当然じゃないですか!!?」
「その『先輩』が流しをやってるってんで、事情を慮れないのかお前はっ??」
「でも、でも、煌羽君、弱っているみたいで。早く医療体制を立て直さないと!!」
機淵の手が止まった。
「おい、それを詳しく――」
「お静かに願います」
廊下に控えていた宦官が、淡々とした声で釘を刺した。
清徳が亀のように首を縮め、機淵は額を押さえる。
しばしの沈黙の後、宦官が奥の扉を開いた。
「お二方、正殿へお進みください」
いよいよか。
柄にもなく機淵は唾を呑み、立ち上がる。
回廊を抜け二重扉が開かれた向こう、正殿は控えの間とは比べものにならない広さだった。朱塗りの列柱が左右に並び、天井に描かれた極彩色の鳳凰が、来客を睥睨している。
漂う薄い香の煙の奥、玉座に人影があった。
機淵は足を止め、正殿の入口で深く一礼した。
右手を左手で包み、胸の前に拳を据える。拱手の礼。
一歩踏み出し、定められた位置まで進む。
歩幅も速度も、宮中の作法に則ったものだ。
玉座の前、立ち止まって機淵は両膝をつき、両手を石の床に置いた。
額を手の甲に伏せ、深く叩頭する。
清徳が半歩後ろで同じ姿勢を取った。
玉座の方から、衣擦れの音。
「直答を許す。楽にせよ」
村でも聞いたあの声だった。
「——徐機淵、御前に参じました」
名乗り、機淵は額を上げる。
正面に若き王がいた。
深紅の袍に、金糸で鳳凰を刺繍した黒の外套を重ねている。
冠に垂れる九旒の玉簾の奥から、底の知れない静けさを湛えた眼光が機淵を見つめていた。
玉座の背に、鸚鵡ほどの大きさの鳥が一羽、停まっている。
赤金の羽の艶と、炎の色をした双眸は紛れもなく、鳳凰・煌羽の姿だ。
煌羽は小首を傾げて機淵を一瞥し、それから王の横顔へ視線を戻した。
「其方のことは、麒国の白清徳殿より聞き及んだ」
王、至煌の声が、列柱の間を静かに渡った。
「十年もの間、麒国にて霊獣医術と神獣医術を修めた後、異国の宮中においても実地の経験を積んだ、大変に優れた医師であると」
「……恐縮に存じます」
機淵は視線を伏せた。
「また、先先代の天煌王もその才をお認めになったと——宰相からも聞いておる。そうであろう」
王が視線を右手に向けた。
玉座の下、右前方に控える人物がゆっくりと頷いた。
游恒志。
鳳国の宰相である。
六十を少し過ぎた、目尻が穏やかに下がった柔和な印象の男だ。
「左様でございます、陛下」
宰相は穏やかに応じると、袖の中から帳面を取り出し、玉座の傍へ進んで王に手渡した。
王は受け取った帳面に目を通し始めた。
「鳳国のみならず、麒国の医学府においても極めて優秀な成績を修めている」
王は帳面から目を離して、真っ直ぐに機淵を見た。
「知っての通り、鳳国では空位の時期が五年に及び、神獣医の席も長く空いたままであった。麒国より清徳殿を招き、急場を凌いできたのが現状である」
王の目が、ちらと機淵の後方へ向いた。
「清徳殿には、引き続き世話になる」
機淵の斜め後ろで、清徳が勢いよく頭を垂れた気配がした。
一呼吸置いて、王は続ける。
「徐機淵。其方には宮中に入り、神獣医として仕えてもらいたい」
正殿に、沈黙が落ちた。
清徳がそわそわと、斜め後ろから機淵の横顔を伺っている。
「……恐れながら、申し上げます」
機淵は頭を下げ、額を床に近づけた。
「私のような科人の子が、そのように勿体ないお言葉をいただくわけには参りません」
正殿の空気が、わずかに濁った。
「科人の子?」
王の声に、初めて僅かな硬さが混じった。
眉の間に浅い皺が刻まれ、視線が機淵から外れて宰相へ向けられる。
聞いていない、と、その目が語っていた。
「機淵殿。お父上のことは――」
宰相が半歩前に出た。
穏やかな声音は崩さないが、言葉を選ぶ間が空いた。
「まことに気の毒であった」
宰相は息を整え、続けた。
「父君は、神獣医長にまで上り詰めた御仁。先代王の崩御に疑念を抱いた一部の狼藉者らが起こした騒ぎに、巻き込まれてしまったに過ぎぬ。まして、科人などと」
「お言葉ですが」
返す機淵の声の芯は、硬い。
「その事実だけで大いなる不敬でございます。私が宮廷を汚すわけには」
「心配はいらぬ」
宰相は穏やかに、遮った。
「陛下の御即位に伴い、恩赦の布告がなされた。冤罪の疑いある者については改めて吟味が行われ、名誉はすでに回復されておる。其方の父君、徐翰林殿への疑いは、とうに晴れているのだ」
機淵の指先が、石の床の上で僅かに震えた。
「うわぁ! 先輩、良かったですねえ!!」
背後から、底抜けに呑気な声が弾けた。
「ご事情はよく存じ上げませんが、これで心置きなくご復帰できますね!」
いいからお前は黙っていろ――機淵が首だけで振り返り、清徳を睨んだ。
「ひっ」
清徳は涙目で口を塞いだ。
正殿に、場違いな沈黙が駆け抜ける。
宰相が咳払いを一つ。
列柱の影に控える宦官らは、脂汗を浮かべて天井を見上げている。
若き王だけが、表情を変えなかった。
「徐機淵」
ゆるりと立ち上がる。
九旒の玉の奥で、瞳に底冷えのする光が宿った。
「其方に、否と言う権があるか」
声は低く、抗いの一切を押さえつける圧を孕んでいた。
「……」
機淵は口を噤み、再び頭を低く下げる。
玉座から、衣擦れの代わりに羽音がした。
瞬間、正殿の空気が一気に熱を帯びる。
「!?」
思わず顔を上げた機淵の視界で、鸚鵡大であった煌羽の小さな体が、膨れ上がって光を放った。瞬く間に巨大な翼へと還り、片翼だけで玉座ごと王を覆い尽くす姿が顕現する。
「煌羽?」
王の、微量な戸惑いを含んだ声。
翼を一度、二度、大きく振りながら、神獣は玉座の階段を降りた。
白檀の香が、熱風に散る。
道を空ける宰相や武官、宦官らを通りすぎ、王の神獣は機淵の目前で足を止めた。
「な――っいで!」
ごつっ、と頑固な音が正殿に響く。
機淵の脳天に、黄金の嘴が振り下ろされたのだ。
鳳凰は炎の双眸で、機淵を真上から見下ろす。
「え――」
ごつっ。
二度目。
後頭部の衝撃で前のめりになった機淵の背中に、追い討ちのように三槌目。
「……っ」
頭を押さえて起き上がる。
真上で金槌が四発目を振り下ろそうと、待ち構えていた。
焔色の、丸く深い瞳がぎょろりと機淵を真上から射竦める。
機淵の目から、一瞬だけ惑いが消えた。
「……濁り」
瞳の奥に、ほんの僅か——。
機淵は弾かれたように両膝を揃え、石の床に手をついて額を伏せた。
「っ、謹んでお受けいたします!」
嘴が落ちてくることはなかった。
「徐機淵」
王は玉座の前に立ったまま、表情を崩さなかった。
「鳳国神獣医長の位を授ける。本日をもって、其方に天鳳の診療の一切を、委ねる」
一拍、間を置いて。
いつの間にか再び鸚鵡大に姿を戻した鳳凰が、王の肩で一声鳴いた。




