第一話 流しの獣畜医
惟奉鳳五年。
その日、鳳国の上空を、巨大な翼が横切った。
赤金の光が天蓋のように広がり、熱を孕んだ風が街道の砂埃を巻き上げ、道沿いの木々の葉がざわめいた。
「鳳凰だ!」
荷を背負った行商人が立ち止まり、牛車を引いていた農夫が手綱を放して空を仰ぐ。
「王だ——誰か、王に選ばれたんだ!」
人々は足を止め、指を差し、声を上げた。
神獣は、王を選ぶ。
あの翼が降りる場所に、新たな王が立つ。
先代王の崩御から、実に五年が過ぎようとしていた。
「どこへ行くんだろう」
「南の方だ。都か?」
「ねえ、新しい王様、見られるかな!」
子供が母親の袖を引き、人々が連れ立って鳳凰の飛び去った方角へと駆け出していく。街道がにわかに一方向へと流れ始めた。
流れに逆らうように、一人の男が歩いていた。
旅慣れた足取り。
日に灼けた肌に、埃を被った粗末な旅装。
背には、使い古して中身が詰め込まれた、革の負嚢が括りつけられている。
男は一度だけ、肩越しに空を振り返った。
紅い尾羽の残光が、遠い稜線の向こうへ沈んでいくところだった。
「——俺にはもう、関係ない」
呟きは、誰の耳にも届かなかった。
男は前を向き、人の波が引いて静まり返った街道を、独り歩き出した。
*
二年後――
流しの獣畜医になって、もう六年が経つ。
閑石と名乗るその男は、納屋の薄暗がりの中で、横たえた牛の腹に掌を這わせていた。
皮膚の下に、硬い異物の感触がある。
腸壁に食い込んだ石か、あるいは乾ききった糞塊か。
指先に意識を集め、牛の呼吸に合わせて圧を探る。
「閑石先生、大丈夫かい、うちの子」
納屋の入口で、持ち主の老婆がそわそわと覗き込んでいた。
「腹に詰まりがある。少し時間をくれ」
低く答え、閑石は腰の薬嚢から乾燥させた薬草の束を取り出した。
掌の中で揉み砕き、牛の口元へ運ぶ。
嫌がって首を振る牛の顎を片手でしっかりと押さえ、もう一方の手で粉を舌の奥へ送り込んだ。
獣畜医、閑石。
年の頃は三十と少し。
がっしりした体躯に、日に灼けた褐色の肌、髪は無造作に束ねて所々乱れている。
身につけているのは膝丈の粗麻の上衣に動きやすい括り袴——全体的に洗い晒しを繰り返してくすんだ青灰色に包まれている。
幅広の帯には薬袋がいくつも差し込まれ、腰の左には革紐で束ねた道具入れがぶら下がっていた。襟元には古い薬液の染みがこびりついている。
手は大きく、指の節々に獣の爪痕や古傷が赤黒く浮いている。
不思議と荒い息を繰り返す牛が、その無骨な手に触れられている間だけ、大人しく脱力していた。
「グゥウ……ッボ」
やがて牛が一つ大きく身を震わせ、腹の底から鈍い音が鳴った。
詰まりが動いた証だ。
「よし。あとは白湯を飲ませて、今日は草を与えるな。明日には立てる」
「あぁ……先生、ありがたいねぇ……!」
老婆が何度も頭を下げるのを背中で受け流し、閑石は納屋を出た。
初夏の風が、薬草と獣脂と獣糞の匂いが染みついた衣を揺らす。
鳳国の南端に近いこの村は、山裾に張り付くように拓かれた小さな集落だった。棚田が幾重にも連なり、畔道に沿って石積みの低い塀が続いている。遠くに霞む稜線の向こうは、もう隣国との境だ。
村の外れを通る街道に目をやると、道沿いの梧桐の幹に、朱と金の布が幾重にも結わえられているのが見えた。地には磨いた白玉の小石を並べた飾りが帯のように連なっている。
この辺りにしては、随分と華やいだ光景だ。
「ああ、あれかい」
井戸端で水を汲んでいた村人の男が、閑石の視線に気づいて顎で街道を示した。
「新しい王様が、街道沿いの街まで視察にお見えになるんだとさ」
「王が、直々に?」
「鳳凰の徴を受けたばかりだが、先代と違って、随分と国内のあちこちをお歩きになるそうだ」
別の村人が荷車の手を止めて口を挟む。
「政に熱心で、天徳王の再来だなんて噂もある。名前にも同じ煌の字が入っているとかで——ご真名を至煌様と仰るんだったかな」
天徳――真名が司天煌王は二代前の王であり、鳳暦・天徳五十五年と治世が長く、名君と名高い。
現在は新王、黎至煌の治世である至徳は三年を数えたばかりである。
「まあ、せいぜい街までだ。こんな寂れたところにまではいらっしゃらないさ」
男が笑い、閑石も小さく頷いた。
「来ても顔は見られんだろうしな」
王が誰であろうと、流しの獣畜医には関わりのない話だ。
次の患畜がいる納屋へ向かう道すがら、話題は自然と変わった。
「それより先生。北の山向こうからまた妖魔が降りてきたらしくてな」
「こんな里近くへか」
「狼の形をしたやつだ。周りの村でも家畜が食われる被害が続いてるんだよ。うちもいつやられるか」
「惟奉鳳が長かったからかねえ」
老婆が遠い目をした。
惟奉鳳——王が不在だった空位の期間を指す年号だ。
先代の王の真名は陳惟良、その一字をとっている。
「先の王様はお身体が弱くて、惟徳の御代は短かったからのう」
「鳳凰がいない間に、加護が薄れて妖魔が増えちまったのかもしれん」
閑石は老婆の不安に耳を傾けながら、納屋の庇下へ回った。
薄影に、驢馬が耳を伏せて三本脚で立っていた。
「三日前からこうなんじゃ」
後ろからついてきた持ち主の老爺が、心配そうに言った。
「蹄の中だな」
閑石はすでにしゃがみ込んで、驢馬の右前肢を両手で持ち上げていた。
蹄の裏を親指の腹で丁寧に押してゆく。
驢馬がびくりと身をすくめた場所で、指が止まる。
「膿が溜まっている。蹄叉の脇、ここさ」
「膿……それは、切ることになりますかい」
「ああ」
正直に言い切って、閑石は腰の道具入れに手を伸ばした。
老爺が唾を飲み込む気配がした。
「でも処置すれば、十日もあれば歩けるようになる」
閑石は革紐を解くと、中から蹄刀と、太さが異なる数本の鉄匙、晒木綿を巻いた小さな束を出した。
「頭を押さえといてくれ。暴れても離さないようにな」
「へ、へぇ」
老爺が恐る恐る驢馬の首に腕を回す。
閑石は蹄刀の刃先を膿の溜まりに当て、迷いなく切り込んだ。
驢馬が低く唸って身を捩る。
老爺が「おっ、おっ」と声を上げ、必死に驢馬の首を撫でながら体重をかける。
切り口から黒ずんだ液が流れ出た。
閑石は顔色一つ変えず、鉄匙の先で慎重に内部を擦る。
「もうちょっと辛抱だ」
匙を小ぶりなものに持ち替え、傷口に顔を近づけた、その時だった。
「——御一行がこっちへ向かってる!」
畑仕事をしていた若者が、転がるように駆け込んできた。
途端に村中が騒然となった。
女たちが慌てて髪を直し、男たちは泥だらけの手を着物で拭きながら街道の方へ走る。
閑石は、驢馬の患部から目と手を離さなかった。
蹄の音、車輪の軋み、人の声。
街道の方から、整然とした一団が近づいてくる気配がした。
村人たちが次々に道の脇にひざまずき、額を地に伏せていく。
「じいさん、手を離すな」
「し、しかし」
閑石は背を向けたまま、膿を掻き出し続けた。
「——そこの者たち。無礼であろう」
鎧の擦れる音とともに、硬い声が背後に降った。
先行してきた禁軍の兵だろう。
老爺が「ひっ」とか細い悲鳴を漏らした。
「構わない」
後から続いた別の声が、静かに制した。
若い声だった。
「治療の最中であろう。そちらが優先だ」
閑石は背を向けたまま、匙を動かし続ける。
「話の分かるお方がいらして、助かります」
「邪魔をした」
声はそれだけ言い、周囲へ告げた。
「皆も面を上げよ。仕事を続けてくれ」
そして、傍らに立つ誰かに向き直る。
「この周辺の村で、家畜への被害が多発していると聞くが」
「は、はい、陛下。隣の村では北の山筋から妖魔が——」
村長の震える声が応じた。
——陛下
閑石の指先が、一瞬だけ止まった。
膿を掻き出し終えて驢馬の脚から手を離し、晒木綿を手に取る。
その動作の中で、ほんの僅かだけ肩越しに気配を探ろうと首を捻った。
声の主の姿が視界に入るより先に、上空から空気を裂く声が轟く。
頭上から、無数の翼が風を打つ不快な破裂音が降り注いだ。
「妖鳥だ!」
誰かの悲鳴を皮切りに家畜が一斉に暴れ出し、嘶きが村中に連鎖した。




