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第一話 流しの獣畜医

 惟奉鳳いほうほう五年。

 その日、鳳国ほうこくの上空を、巨大な翼が横切った。


 赤金の光が天蓋てんがいのように広がり、熱をはらんだ風が街道の砂埃を巻き上げ、道沿いの木々の葉がざわめいた。


鳳凰ほうおうだ!」

 荷を背負った行商人が立ち止まり、牛車を引いていた農夫が手綱を放して空を仰ぐ。


「王だ——誰か、王に選ばれたんだ!」

 人々は足を止め、指を差し、声を上げた。


 神獣は、王を選ぶ。

 あの翼が降りる場所に、新たな王が立つ。


 先代王の崩御から、実に五年が過ぎようとしていた。


「どこへ行くんだろう」

「南の方だ。都か?」

「ねえ、新しい王様、見られるかな!」


 子供が母親の袖を引き、人々が連れ立って鳳凰の飛び去った方角へと駆け出していく。街道がにわかに一方向へと流れ始めた。

 

 流れに逆らうように、一人の男が歩いていた。


 旅慣れた足取り。

 日に灼けた肌に、埃を被った粗末な旅装。

 背には、使い古して中身が詰め込まれた、革の負嚢ふのうが括りつけられている。


 男は一度だけ、肩越しに空を振り返った。

 紅い尾羽の残光が、遠い稜線の向こうへ沈んでいくところだった。


「——俺にはもう、関係ない」

 呟きは、誰の耳にも届かなかった。


 男は前を向き、人の波が引いて静まり返った街道を、独り歩き出した。



 二年後――


 流しの獣畜医になって、もう六年が経つ。


 閑石かんせきと名乗るその男は、納屋の薄暗がりの中で、横たえた牛の腹にてのひらを這わせていた。

 皮膚の下に、硬い異物の感触がある。

 腸壁に食い込んだ石か、あるいは乾ききった糞塊ふんかいか。


 指先に意識を集め、牛の呼吸に合わせて圧を探る。


「閑石先生、大丈夫かい、うちの子」

 納屋の入口で、持ち主の老婆がそわそわと覗き込んでいた。


「腹に詰まりがある。少し時間をくれ」

 低く答え、閑石は腰の薬嚢やくのうから乾燥させた薬草の束を取り出した。

 掌の中で揉み砕き、牛の口元へ運ぶ。

 嫌がって首を振る牛の顎を片手でしっかりと押さえ、もう一方の手で粉を舌の奥へ送り込んだ。


 獣畜医じゅうちくい閑石かんせき

 年の頃は三十と少し。

 がっしりした体躯に、日に灼けた褐色の肌、髪は無造作に束ねて所々乱れている。


 身につけているのは膝丈の粗麻の上衣うわぎに動きやすい括り袴——全体的に洗い晒しを繰り返してくすんだ青灰色に包まれている。


 幅広の帯には薬袋がいくつも差し込まれ、腰の左には革紐で束ねた道具入れがぶら下がっていた。襟元には古い薬液の染みがこびりついている。


 手は大きく、指の節々に獣の爪痕や古傷が赤黒く浮いている。

 不思議と荒い息を繰り返す牛が、その無骨な手に触れられている間だけ、大人しく脱力していた。


「グゥウ……ッボ」

 やがて牛が一つ大きく身を震わせ、腹の底から鈍い音が鳴った。

 詰まりが動いた証だ。


「よし。あとは白湯さゆを飲ませて、今日は草を与えるな。明日には立てる」

「あぁ……先生、ありがたいねぇ……!」


 老婆が何度も頭を下げるのを背中で受け流し、閑石は納屋を出た。

 初夏の風が、薬草と獣脂と獣糞の匂いが染みついた衣を揺らす。


 鳳国ほうこくの南端に近いこの村は、山裾に張り付くように拓かれた小さな集落だった。棚田が幾重にも連なり、畔道に沿って石積みの低い塀が続いている。遠くに霞む稜線の向こうは、もう隣国との境だ。


 村の外れを通る街道に目をやると、道沿いの梧桐あおぎりの幹に、朱と金の布が幾重にも結わえられているのが見えた。地には磨いた白玉の小石を並べた飾りが帯のように連なっている。


 この辺りにしては、随分と華やいだ光景だ。


「ああ、あれかい」

 井戸端で水を汲んでいた村人の男が、閑石の視線に気づいて顎で街道を示した。


「新しい王様が、街道沿いの街まで視察にお見えになるんだとさ」

「王が、直々に?」

「鳳凰のしるしを受けたばかりだが、先代と違って、随分と国内のあちこちをお歩きになるそうだ」


 別の村人が荷車の手を止めて口を挟む。

まつりごとに熱心で、天徳てんとく王の再来だなんて噂もある。名前にも同じ煌の字が入っているとかで——ご真名を至煌しこう様と仰るんだったかな」


 天徳――真名が司天煌し・てんこう王は二代前の王であり、鳳暦・天徳ほうれき・てんとく五十五年と治世が長く、名君と名高い。

 現在は新王、黎至煌れい・しこうの治世である至徳しとくは三年を数えたばかりである。


「まあ、せいぜい街までだ。こんな寂れたところにまではいらっしゃらないさ」

 男が笑い、閑石も小さく頷いた。

「来ても顔は見られんだろうしな」

 王が誰であろうと、流しの獣畜医には関わりのない話だ。


 次の患畜がいる納屋へ向かう道すがら、話題は自然と変わった。


「それより先生。北の山向こうからまた妖魔が降りてきたらしくてな」

「こんな里近くへか」

「狼の形をしたやつだ。周りの村でも家畜が食われる被害が続いてるんだよ。うちもいつやられるか」


惟奉鳳いほうほうが長かったからかねえ」

 老婆が遠い目をした。


 惟奉鳳——王が不在だった空位の期間を指す年号だ。

 先代の王の真名は陳惟良ちん・いりょう、その一字をとっている。


「先の王様はお身体が弱くて、惟徳いとく御代みよは短かったからのう」

「鳳凰がいない間に、加護が薄れて妖魔が増えちまったのかもしれん」


 閑石は老婆の不安に耳を傾けながら、納屋の庇下ひさししたへ回った。

 薄影に、驢馬ロバが耳を伏せて三本脚で立っていた。


「三日前からこうなんじゃ」

 後ろからついてきた持ち主の老爺が、心配そうに言った。


ひずめの中だな」

 閑石はすでにしゃがみ込んで、驢馬の右前肢を両手で持ち上げていた。

 蹄の裏を親指の腹で丁寧に押してゆく。

 驢馬がびくりと身をすくめた場所で、指が止まる。


うみが溜まっている。蹄叉ていさの脇、ここさ」

「膿……それは、切ることになりますかい」

「ああ」


 正直に言い切って、閑石は腰の道具入れに手を伸ばした。

 老爺が唾を飲み込む気配がした。


「でも処置すれば、十日もあれば歩けるようになる」

 閑石は革紐を解くと、中から蹄刀ていとうと、太さが異なる数本の鉄匙かなさじ晒木綿さらしもめんを巻いた小さな束を出した。


「頭を押さえといてくれ。暴れても離さないようにな」

「へ、へぇ」

 老爺が恐る恐る驢馬の首に腕を回す。


 閑石は蹄刀の刃先を膿の溜まりに当て、迷いなく切り込んだ。

 驢馬が低く唸って身をよじる。

 老爺が「おっ、おっ」と声を上げ、必死に驢馬の首を撫でながら体重をかける。


 切り口から黒ずんだ液が流れ出た。

 閑石は顔色一つ変えず、鉄匙の先で慎重に内部を擦る。


「もうちょっと辛抱だ」

 匙を小ぶりなものに持ち替え、傷口に顔を近づけた、その時だった。


「——御一行がこっちへ向かってる!」

 畑仕事をしていた若者が、転がるように駆け込んできた。


 途端に村中が騒然となった。

 女たちが慌てて髪を直し、男たちは泥だらけの手を着物で拭きながら街道の方へ走る。


 閑石は、驢馬の患部から目と手を離さなかった。


 蹄の音、車輪の軋み、人の声。

 街道の方から、整然とした一団が近づいてくる気配がした。

 村人たちが次々に道の脇にひざまずき、額を地に伏せていく。


「じいさん、手を離すな」

「し、しかし」

 閑石は背を向けたまま、膿を掻き出し続けた。


「——そこの者たち。無礼であろう」

 鎧の擦れる音とともに、硬い声が背後に降った。

 先行してきた禁軍の兵だろう。

 老爺が「ひっ」とか細い悲鳴を漏らした。


「構わない」

 後から続いた別の声が、静かに制した。

 若い声だった。

「治療の最中であろう。そちらが優先だ」


 閑石は背を向けたまま、匙を動かし続ける。

「話の分かるお方がいらして、助かります」


「邪魔をした」

 声はそれだけ言い、周囲へ告げた。


「皆も面を上げよ。仕事を続けてくれ」

 そして、傍らに立つ誰かに向き直る。


「この周辺の村で、家畜への被害が多発していると聞くが」

「は、はい、陛下。隣の村では北の山筋から妖魔が——」

 村長の震える声が応じた。


 ——陛下


 閑石の指先が、一瞬だけ止まった。

 膿を掻き出し終えて驢馬の脚から手を離し、晒木綿を手に取る。

 その動作の中で、ほんの僅かだけ肩越しに気配を探ろうと首を捻った。


 声の主の姿が視界に入るより先に、上空から空気を裂く声が轟く。

 頭上から、無数の翼が風を打つ不快な破裂音が降り注いだ。


「妖鳥だ!」


 誰かの悲鳴を皮切りに家畜が一斉に暴れ出し、いななきが村中に連鎖した。

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