少なくとも、今夜は
──りんごと犬は友だちでした。
「ねぇ、『りんご』と『犬』で小説を書くとしたら、どんな話になると思う?」
私が聞くと、
「……はぁ?なにそれ」
と、思い通りの返事が返ってきた。
波瑠はそういうやつだ。変な質問をすると、必ずそう言う。でもそれが好きだった。ちゃんと驚いてくれる。ちゃんと反応してくれる。
「いやさ、」
と、私は続けた。
「昔、塾でさ、『りんご』と『犬』で小説を書けって宿題があったんだよ」
「なにそれ。変な塾だね」
波瑠は妙な顔をした。眉をひそめて、口の端をわずかに曲げる、彼女特有の「理解できない」という顔だった。
「──そうかも」
私はりんごを齧りながら言った。
秋の午後だった。波瑠の部屋の窓から差し込む光は、もうすっかり斜めになっていて、テーブルの上の皿に盛られたりんごを橙色に染めていた。皮を剥いた薄切りのりんごが、爪楊枝を立てて並んでいる。
しゃり、という音が口の中で響いた。甘みと酸味が混ざり合って、舌の上に広がる。
何をどう書けばいいのか分からなかった。机の前に座り、原稿用紙の升目を眺め、ただ途方に暮れた。
結局、分からないまま捻り出した。自分でもよく分からないまま、嫌々提出した。
そして案の定、先生は私の原稿を読み、笑いながら言った。
「なんじゃこりゃ」
先生は私の原稿をひらひらと振った。紙の端が空気を切る音がした。教室の後ろの席から、くす、と誰かの笑いが漏れた。すぐに、もう一人。椅子がきしむ音。視線が集まる気配。
先生は悪気のない顔で言った。
「これ、小説になってないぞ」
黒板のチョークの粉が、やけに白く見えた。
私は自分の机の木目だけを見つめていた。
頬が熱くなった。
胃の奥が、きゅっと縮んだ。
それから私は、小説を書くのが怖くなった。
*
「自分にはできない」と決めつけてきた。
歌うこと、小説を書くこと、演技をすること。
共通点があるとすれば、どれも、自分の「内側」を他人に晒すものだ、ということだと、大人になってから気がついた。
歌うとき、喉の奥がむき出しになる気がする。
文章を書くとき、頭の中を覗かれている気がする。
舞台に立つとき、胸の裏側を裏返して見せているみたいだった。
笑われたのは、たぶん声でも文章でもない。
あのとき晒してしまった、自分そのものだった。
*
小学生の頃、歌うことが好きだった。
音楽の授業が好きだった。合唱の時間が好きだった。誰かと声を重ねる瞬間が、なんとなく好きだった。自分の声がどんな声かなど、考えたこともなかった。ただ、楽しかった。それだけだった。
でも、クラスの男子に声を揶揄われてから、人前で声が出せなくなった。
アニメ声、変な声、と言われた。
笑い声は一人ではなかった。複数だった。
連鎖するように広がっていった。教室全体が笑っているように思えた。
実際にはそうではなかったのかもしれない。
私は、人前で歌えなくなった。
*
小学生の頃、演劇部だった。
空いていたのが、そこだけだった。
誘われた部活は定員オーバーで、先生に急かされ、消去法で選んだ。
それでも自分なりに与えられた役は演じようと精一杯やってみた。セリフを覚えた。家で何度も練習した。鏡の前で表情を作ってみたりもした。
──できなかった。
本番、羞恥心に苛まれ、頭の中が真っ白になり声が出なくなった。
先輩が助けてくれなければ、きっと劇はめちゃくちゃになっていた。
客席から、小さな笑い声が聞こえた気がした。あれも、実際にはそうではなかったかもしれない。でも私にはそう聞こえた。
私に演技はできない。
幼心に私はそう悟った。
*
でも今、私は小説を書いている。
──完全なる趣味で。
誰かに頼まれたわけでも、宿題でもない。ただ書きたいから書いている。自らの妄想が文字になって、形になっていく過程はとても楽しい。うまくいかない時はもどかしくて、机を離れてぼんやりと天井を見上げて、でもまた戻ってきて、少しずつ積み上げていく。
たまにカラオケにも行くようになった。
未だにマイクを持つ手が震え、じっとりと手汗をかくほど緊張する。声が震える。最初の一音を出すまでの数秒間が、今でも怖い。
それでも声を出して歌うことの楽しさを、再び思い出そうとしていた。少しずつ、少しずつ。
*
「──書いてみれば?」
波瑠が言った。
「え?」
「『りんご』と『犬』ってキーワードで、もう一度、小説、書いてみれば?」
「でも……」
私は躊躇した。
あの時の先生の嘲笑が頭から離れない。「なんじゃこりゃ」という声が、耳の奥でまだ生きていた。
波瑠に話した。
小説の書き方が分からなくて、それでも精一杯書いたものを提出し、先生に嘲笑された苦々しい記憶を。うまく言葉にできなかったところも、波瑠は黙って聞いてくれた。話しながら、少し恥ずかしかった。こんな昔のことを、まだ引きずっているのかと思われそうで。
「──上書きするんだよ」
波瑠もテーブルの上の皿に盛られたりんごを爪楊枝で刺しながら言った。
「上書き?」
「そう。上書き」
しゃり、とりんごを齧る音がした。
「同じことをして、記憶を上書きしちゃうの。そうすればもう、その記憶は過去のものにできるでしょ?」
一理ある、と思った。同じキーワードで、もう一度書く。今度は誰にも笑われない。今度は自分のために書く。
「──うん。やってみようかな……」
「書いたら読ませてね」
波瑠がりんごを咀嚼しながら、笑みを作った。
「私は、来海の書いたものを、笑ったりしないから」
波瑠の優しさが嬉しかった。胸の奥があたたかくなるような、そういう嬉しさだった。
*
私は再び、原稿用紙に向かった。
400字詰め原稿用紙二枚。
キーワードは『りんご』と『犬』。
あの時と同じだ。
……何も思い浮かばない。
窓の外では、夜風が木の葉を揺らしていた。デスクライトの光の中に、白い原稿用紙が浮かんでいる。升目が、まるで無数の空白みたいに見えた。
そもそもなぜ先生はこのキーワードを選んだのだろう。
犬を飼ったことがないから分からないが、犬はりんごを食べるのだろうか。
手に持ったスマートフォンで、『犬 りんご』で検索してみる。
検索結果に、『犬はりんごを食べられます』と書かれていた。
──そうなんだ。
『ただし、必ず細かく切るか、すり下ろして与えてください。窒息の危険があります』
昔、書いた小説のタイトルだけ、覚えている。
『りんごの歌』
どんな話だったのかも、犬にどんな役目を与えたのかも、思い出せない。
主人公は男の子で、主人公の一人称「僕」で書いた記憶はある。それだけだ。あとは何も残っていない。記憶の中から、すっかり消えてしまった。
もう一度、同じことをやってみるか。
それとも、まったく違う方向からのアプローチを試みるか。
私は長く迷っていた。デスクライトの光を見つめながら、ペンを持ったり置いたりを繰り返した。
*
「来海、小説進んでる?」
ある日、波瑠が聞いてきた。学校の廊下で、昼休みのざわめきの中で。
「ううん、全然」
何も思い浮かばなくて、と正直に答えた。
白い原稿用紙の前で途方に暮れる私が、そこにいた。
あの頃と、何が違うのだろう。
そのことを突きつけられて、かえって苦しくなった。
「……ごめん」
波瑠が言った。珍しく、少ししょんぼりした顔をしていた。
「私、安易にあんなこと言っちゃったけど、それで来海を苦しくさせてたら、ごめん」
私は慌てて言った。
「そんなことない。私もあの時の記憶を上書きしてやりたいってずっと思ってた。ずっと『自分は文章が書けない人間だ』って思い込んで生きていくのは苦しかったから」
「来海……」
「でも、あんまり無理しないでね?書ける時でいいんだよ。もう宿題じゃないんだから」
波瑠は言った。
そうだ。
もう、これは『宿題』じゃない。
提出期限もない。採点する先生もいない。もっと自由に、楽しく書けたらいい。
「うん。波瑠、ありがと」
私は心からそう言った。
*
それから、もう一度、原稿用紙に向かった。
『りんご』と『犬』。
頭の中で、そのキーワードがぐるぐると渦巻いていた。
楽しく書きたい。
もう苦しみたくない。
「宿題じゃない」
それだけで、よかった。
私は最初の一文をようやく書き始めた。
『りんごと犬は友だちでした。』
*
書き出してしまえば、不思議と筆が動いた。
りんごと犬が友だちになったのはなぜか。どこで出会ったのか。どこへ行くのか。升目を一つ一つ埋めながら、物語が動き出す感覚があった。うまくできているかどうかは分からない。文章として正しいかどうかも。でも、書いている間、私は怖くなかった。
一枚目が終わった。
二枚目を取り出して、机の上に置いた。白い紙が、今度はそれほど怖くなかった。
物語の中で、犬はりんごを一かじりした。細かく切ったりんごを、犬は「あまい」と言った。本当は犬は喋らないけれど、この物語の中では喋ってもいい。私が書いているから、私が決めていい。
りんごは嬉しそうにした。
それだけの話だった。
二枚目を書き終えた時、窓の外はすっかり暗くなっていた。デスクライトだけが白く光っていた。
私は原稿用紙を手に取って、もう一度読んだ。子どもみたいな話だ、と思った。うまくもない、と思った。でも、なんだか、悪くなかった。
この原稿を嘲笑う声は、自分の頭の中には、もう聞こえなかった。
*
「読んでいい?」
波瑠が言った。
私は少し迷ってから、原稿用紙を差し出した。波瑠はそれをそっと受け取って、真剣な顔で読み始めた。
読んでいる間、私はりんごを齧った。しゃり、という音が、静かな部屋に響いた。
波瑠が顔を上げた。
波瑠は、最後の一行をもう一度読んだ。
少しだけ、息を吐いてから言った。
「──いいじゃん」
五文字だった。それで充分だった。
「ほんと?」
「うん。なんか、ほっとする話だね。りんごと犬が、ただ仲良くしてるだけなのに」
波瑠はもう一度、原稿用紙に目を落とした。
「来海らしいと思う」
「ありがと」
私は言った。
「笑わないでくれて、ありがとう」
波瑠は少し困ったような顔をした。
「笑うわけないじゃん」
それからふっと笑って、
「でも次は、もうちょっと長いの書いてよ。原稿用紙二枚は短すぎる」
と言った。
「欲張りだな」
私は笑った。
窓の外では、秋の風が葉を鳴らしていた。りんごの白い果肉が、斜めに差し込む光の中で、静かに光っていた。
*
上書きできたかどうかは、分からない。
あの先生の声は、今でも思い出せる。
でも。
私は今日、原稿用紙を机に置いた。
白い升目は、もう敵ではなかった。
──少なくとも、今夜は。
ペン先を当てる。
今度は、誰のためでもなく。
──りんごと犬は、旅に出ました。
──完──




