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少なくとも、今夜は

作者: トミヤマ
掲載日:2026/02/20

 ──りんごと犬は友だちでした。


「ねぇ、『りんご』と『犬』で小説を書くとしたら、どんな話になると思う?」


 私が聞くと、


「……はぁ?なにそれ」


 と、思い通りの返事が返ってきた。


 波瑠はそういうやつだ。変な質問をすると、必ずそう言う。でもそれが好きだった。ちゃんと驚いてくれる。ちゃんと反応してくれる。


「いやさ、」


 と、私は続けた。


「昔、塾でさ、『りんご』と『犬』で小説を書けって宿題があったんだよ」


「なにそれ。変な塾だね」


 波瑠は妙な顔をした。眉をひそめて、口の端をわずかに曲げる、彼女特有の「理解できない」という顔だった。


「──そうかも」


 私はりんごを齧りながら言った。


 秋の午後だった。波瑠の部屋の窓から差し込む光は、もうすっかり斜めになっていて、テーブルの上の皿に盛られたりんごを橙色に染めていた。皮を剥いた薄切りのりんごが、爪楊枝を立てて並んでいる。


 しゃり、という音が口の中で響いた。甘みと酸味が混ざり合って、舌の上に広がる。


 何をどう書けばいいのか分からなかった。机の前に座り、原稿用紙の升目を眺め、ただ途方に暮れた。


 結局、分からないまま捻り出した。自分でもよく分からないまま、嫌々提出した。


 そして案の定、先生は私の原稿を読み、笑いながら言った。


「なんじゃこりゃ」


 先生は私の原稿をひらひらと振った。紙の端が空気を切る音がした。教室の後ろの席から、くす、と誰かの笑いが漏れた。すぐに、もう一人。椅子がきしむ音。視線が集まる気配。


 先生は悪気のない顔で言った。


「これ、小説になってないぞ」


 黒板のチョークの粉が、やけに白く見えた。


 私は自分の机の木目だけを見つめていた。


 頬が熱くなった。

 胃の奥が、きゅっと縮んだ。


 それから私は、小説を書くのが怖くなった。



 「自分にはできない」と決めつけてきた。


 歌うこと、小説を書くこと、演技をすること。


 共通点があるとすれば、どれも、自分の「内側」を他人に晒すものだ、ということだと、大人になってから気がついた。


 歌うとき、喉の奥がむき出しになる気がする。

 文章を書くとき、頭の中を覗かれている気がする。

 舞台に立つとき、胸の裏側を裏返して見せているみたいだった。


 笑われたのは、たぶん声でも文章でもない。

 あのとき晒してしまった、自分そのものだった。



 小学生の頃、歌うことが好きだった。


 音楽の授業が好きだった。合唱の時間が好きだった。誰かと声を重ねる瞬間が、なんとなく好きだった。自分の声がどんな声かなど、考えたこともなかった。ただ、楽しかった。それだけだった。


 でも、クラスの男子に声を揶揄われてから、人前で声が出せなくなった。


 アニメ声、変な声、と言われた。


 笑い声は一人ではなかった。複数だった。


 連鎖するように広がっていった。教室全体が笑っているように思えた。

 実際にはそうではなかったのかもしれない。


 私は、人前で歌えなくなった。



 小学生の頃、演劇部だった。


 空いていたのが、そこだけだった。

 誘われた部活は定員オーバーで、先生に急かされ、消去法で選んだ。


 それでも自分なりに与えられた役は演じようと精一杯やってみた。セリフを覚えた。家で何度も練習した。鏡の前で表情を作ってみたりもした。


 ──できなかった。


 本番、羞恥心に苛まれ、頭の中が真っ白になり声が出なくなった。


 先輩が助けてくれなければ、きっと劇はめちゃくちゃになっていた。


 客席から、小さな笑い声が聞こえた気がした。あれも、実際にはそうではなかったかもしれない。でも私にはそう聞こえた。


 私に演技はできない。

 幼心に私はそう悟った。



 でも今、私は小説を書いている。

 ──完全なる趣味で。


 誰かに頼まれたわけでも、宿題でもない。ただ書きたいから書いている。自らの妄想が文字になって、形になっていく過程はとても楽しい。うまくいかない時はもどかしくて、机を離れてぼんやりと天井を見上げて、でもまた戻ってきて、少しずつ積み上げていく。


 たまにカラオケにも行くようになった。

 未だにマイクを持つ手が震え、じっとりと手汗をかくほど緊張する。声が震える。最初の一音を出すまでの数秒間が、今でも怖い。


 それでも声を出して歌うことの楽しさを、再び思い出そうとしていた。少しずつ、少しずつ。



「──書いてみれば?」


 波瑠が言った。


「え?」


「『りんご』と『犬』ってキーワードで、もう一度、小説、書いてみれば?」


「でも……」


 私は躊躇した。


 あの時の先生の嘲笑が頭から離れない。「なんじゃこりゃ」という声が、耳の奥でまだ生きていた。


 波瑠に話した。


 小説の書き方が分からなくて、それでも精一杯書いたものを提出し、先生に嘲笑された苦々しい記憶を。うまく言葉にできなかったところも、波瑠は黙って聞いてくれた。話しながら、少し恥ずかしかった。こんな昔のことを、まだ引きずっているのかと思われそうで。


「──上書きするんだよ」


 波瑠もテーブルの上の皿に盛られたりんごを爪楊枝で刺しながら言った。


「上書き?」


「そう。上書き」


 しゃり、とりんごを齧る音がした。


「同じことをして、記憶を上書きしちゃうの。そうすればもう、その記憶は過去のものにできるでしょ?」


 一理ある、と思った。同じキーワードで、もう一度書く。今度は誰にも笑われない。今度は自分のために書く。


「──うん。やってみようかな……」


「書いたら読ませてね」


 波瑠がりんごを咀嚼しながら、笑みを作った。


「私は、来海の書いたものを、笑ったりしないから」


 波瑠の優しさが嬉しかった。胸の奥があたたかくなるような、そういう嬉しさだった。



 私は再び、原稿用紙に向かった。

 400字詰め原稿用紙二枚。


 キーワードは『りんご』と『犬』。


 あの時と同じだ。

 ……何も思い浮かばない。


 窓の外では、夜風が木の葉を揺らしていた。デスクライトの光の中に、白い原稿用紙が浮かんでいる。升目が、まるで無数の空白みたいに見えた。


 そもそもなぜ先生はこのキーワードを選んだのだろう。


 犬を飼ったことがないから分からないが、犬はりんごを食べるのだろうか。


 手に持ったスマートフォンで、『犬 りんご』で検索してみる。


 検索結果に、『犬はりんごを食べられます』と書かれていた。


 ──そうなんだ。


 『ただし、必ず細かく切るか、すり下ろして与えてください。窒息の危険があります』


 昔、書いた小説のタイトルだけ、覚えている。


 『りんごの歌』


 どんな話だったのかも、犬にどんな役目を与えたのかも、思い出せない。


 主人公は男の子で、主人公の一人称「僕」で書いた記憶はある。それだけだ。あとは何も残っていない。記憶の中から、すっかり消えてしまった。


 もう一度、同じことをやってみるか。


 それとも、まったく違う方向からのアプローチを試みるか。


 私は長く迷っていた。デスクライトの光を見つめながら、ペンを持ったり置いたりを繰り返した。



「来海、小説進んでる?」


 ある日、波瑠が聞いてきた。学校の廊下で、昼休みのざわめきの中で。


「ううん、全然」


 何も思い浮かばなくて、と正直に答えた。


 白い原稿用紙の前で途方に暮れる私が、そこにいた。

 あの頃と、何が違うのだろう。

 そのことを突きつけられて、かえって苦しくなった。


「……ごめん」


 波瑠が言った。珍しく、少ししょんぼりした顔をしていた。


「私、安易にあんなこと言っちゃったけど、それで来海を苦しくさせてたら、ごめん」


 私は慌てて言った。


「そんなことない。私もあの時の記憶を上書きしてやりたいってずっと思ってた。ずっと『自分は文章が書けない人間だ』って思い込んで生きていくのは苦しかったから」


「来海……」


「でも、あんまり無理しないでね?書ける時でいいんだよ。もう宿題じゃないんだから」


 波瑠は言った。


 そうだ。


 もう、これは『宿題』じゃない。

 提出期限もない。採点する先生もいない。もっと自由に、楽しく書けたらいい。


「うん。波瑠、ありがと」


 私は心からそう言った。



 それから、もう一度、原稿用紙に向かった。


 『りんご』と『犬』。


 頭の中で、そのキーワードがぐるぐると渦巻いていた。


 楽しく書きたい。

 もう苦しみたくない。


「宿題じゃない」

 それだけで、よかった。


 私は最初の一文をようやく書き始めた。


『りんごと犬は友だちでした。』



 書き出してしまえば、不思議と筆が動いた。


 りんごと犬が友だちになったのはなぜか。どこで出会ったのか。どこへ行くのか。升目を一つ一つ埋めながら、物語が動き出す感覚があった。うまくできているかどうかは分からない。文章として正しいかどうかも。でも、書いている間、私は怖くなかった。


 一枚目が終わった。

 二枚目を取り出して、机の上に置いた。白い紙が、今度はそれほど怖くなかった。


 物語の中で、犬はりんごを一かじりした。細かく切ったりんごを、犬は「あまい」と言った。本当は犬は喋らないけれど、この物語の中では喋ってもいい。私が書いているから、私が決めていい。


 りんごは嬉しそうにした。

 それだけの話だった。


 二枚目を書き終えた時、窓の外はすっかり暗くなっていた。デスクライトだけが白く光っていた。


 私は原稿用紙を手に取って、もう一度読んだ。子どもみたいな話だ、と思った。うまくもない、と思った。でも、なんだか、悪くなかった。


 この原稿を嘲笑う声は、自分の頭の中には、もう聞こえなかった。



「読んでいい?」


 波瑠が言った。


 私は少し迷ってから、原稿用紙を差し出した。波瑠はそれをそっと受け取って、真剣な顔で読み始めた。


 読んでいる間、私はりんごを齧った。しゃり、という音が、静かな部屋に響いた。


 波瑠が顔を上げた。


 波瑠は、最後の一行をもう一度読んだ。

 少しだけ、息を吐いてから言った。


「──いいじゃん」


 五文字だった。それで充分だった。


「ほんと?」


「うん。なんか、ほっとする話だね。りんごと犬が、ただ仲良くしてるだけなのに」


 波瑠はもう一度、原稿用紙に目を落とした。


「来海らしいと思う」


「ありがと」


 私は言った。


「笑わないでくれて、ありがとう」


 波瑠は少し困ったような顔をした。


「笑うわけないじゃん」


 それからふっと笑って、


「でも次は、もうちょっと長いの書いてよ。原稿用紙二枚は短すぎる」


 と言った。


「欲張りだな」


 私は笑った。


 窓の外では、秋の風が葉を鳴らしていた。りんごの白い果肉が、斜めに差し込む光の中で、静かに光っていた。



 上書きできたかどうかは、分からない。

 あの先生の声は、今でも思い出せる。


 でも。

 私は今日、原稿用紙を机に置いた。


 白い升目は、もう敵ではなかった。

 ──少なくとも、今夜は。


 ペン先を当てる。

 今度は、誰のためでもなく。


 ──りんごと犬は、旅に出ました。



──完──

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