思い出の相手
ソファに向かい合うように座り、アイシャとまっすぐに向き合うことになったアレスは複雑な気持ちを抱えていた。
アイシャの隣にロイナーが座って彼女のことを気遣うように声をかけている。それに反応するアイシャは穏やかな表情を浮かべていた。だが、アレスに向ける視線は初対面の王族に対する緊張と、どう対応したらいいのかわからない戸惑いが伝わってきていた。
アレスにとっては、女神の代理人となり将来の伴侶となる婚約者だ。アイシャとの記憶はしっかりと今もアレスの中に息づいている。それなのに、大切なアイシャは自分のことを何も覚えていない。
「まずはアイシャが代理人に選ばれたときのことから話したほうがいいだろう」
ロイナーの言葉にハッとすると、アイシャは首を傾げてロイナーを見ていた。
「私が代理人に選ばれたときのこと、ロイ兄さまは知っているの?」
砕けた話し方に2人の距離感がわかる。
「君は覚えていないだろうが、女神に選ばれた瞬間は僕と両親が一緒にいたんだよ」
その話はアレスもロイナーから聞いていた。選ばれた瞬間にアレスは側にいなかった。当然だが、そのころのアイシャはまだ平民の少女だった。
「セレーナさんが病気で亡くなった後、落ち込んでいた君はしばらくエリストン家に滞在していたんだ」
葬儀などもすべてエリストン侯爵家が手配して執り行われていた。エレナの知り合いということだが、平民の女性が亡くなったことに貴族が関与することは普通ない。それなのにエリストン家はアイシャやその母親を丁重に扱っていた。そのことに疑問を持つアレスだが、今はロイナーがアイシャに過去を話しているためアレスが余計なことを言える状況ではなかった。黙って話の続きを聞いていく。
「何も覚えていないわ」
説明を聞いてもアイシャは何も思い出せないようで首を横に振った。寂しそうな表情から母親が亡くなったことを思い出せないことを悔いているようにも見えた。
「気分転換にみんなで庭でお茶をしようということになって、天気がいいから気分も少しは晴れたのか、アイシャもお茶を楽しむ余裕があるように僕には見えていたよ」
当時のことを思い出しながらロイナーが話を続けていく。
「しばらく談笑していた時に、急にアイシャが声が聞こえると言い出したんだ」
「声?」
「ぼくたちには何も聞こえなかったけれど、アイシャにだけ聞こえていたようだった」
何かを思い出そうとするように考え込むアイシャだが、やはり何も思い出せないようだった。
「アイシャの様子を不思議に思っていた時に、急に君の髪の色が変化したんだ」
もともとは茶色の髪だったが、それが見る見るうちにピンク色に変わっていき、皆が驚いていると瞳の色も金色になっていた。
「突然のことにアイシャは動揺していたけれど、僕たちは色を見てすぐに女神の代理人が選ばれたのだとわかった」
平民でさえ女神の代理人の存在を知っている。その特徴も知られているが、選ばれたアイシャは突然のことに動揺して混乱している様子だったという。だが、ロイナーたちは冷静に何が起こったのかを理解していた。
「女神の代理人が現れたことはすぐに王家に報告しなければいけない。アイシャは動揺していたけれど、僕たちの説明をしっかりと聞いて理解してくれていた。そのおかげで、代理人の報告と一緒にアイシャをエリストン侯爵家の養子にすることも許可申請をすることができたんだ」
もともとアイシャが落ち着いたらエリストン家は養子にすることを考えていた。それが早くなっただけだが、養子とは別に代理人に選ばれることは誰も予想していなかった。
母親が自分の死後のことを考えてアイシャをエリストン家に託していた話をしていたのだろう。そうなればアイシャは混乱しながらも素直に侯爵家の養女になることを受け入れたはずだ。今のアイシャでも同じ話をされたらきっと受け入れていた。
「手続きは意外とスムーズだったよ。平民出身の女神の代理人では後ろ盾がないからね。王家も侯爵家ならと認めてくれたようだった」
すぐにエリストン侯爵令嬢となったアイシャだったが、すぐに王都に向かうことはなかった。
「本来はすぐにでも王家の保護下に入るところだが、君は平民出身ということで貴族の習慣やマナーも知らない状態になる。急に連れていかれても困ることになると考えられて、半年の猶予を与えられた」
ロイナーの話を引き継ぐようにアレスが話しかけると、アイシャは途端に緊張した面持ちになった。記憶のないアイシャにとってアレスは一生会うことなどありえないと思っている王族であり、雲の上の存在だと思っているのだろう。体が硬くなっているのがわかると、アレスの中に小さな痛みを覚えた。
アレスにとってアイシャは女神の代理人として会い、何度も会話を重ねてきた。そして、とても大切な女性になっている。それなのに相手は何も覚えていなくて、距離が遠いのがわかった。仕方がないと思いつつも、眠りにつく前のアイシャを思い出してしまい胸の奥が疼くのだ。
「猶予というのは?」
質問していいのか迷うようにアイシャが尋ねてきた。王族に対して口を開いていいのか恐れているようにも見えて、アレスが怒るのではないかと警戒しているようだった。
「貴族としての習慣やマナーを覚える猶予だ。あまり時間がなかったが、エリストン侯爵家で王都に行っても問題ないくらいに淑女教育をしてもらうことになった」
「当時は僕もここにいたから、家族でアイシャの指導をしていたんだよ」
アレスの説明にロイナーが当時のことを話していく。
「アイシャはマナーに関しては母親から教えられていたから問題なかった。ただ、習慣や貴族の名前を覚えたりはしてこなかったから、そちらの勉強を中心にやったんだ。そのことは覚えていないかな?」
エレナと知り合いであったアイシャの母親セレーナはマナーを習得していた。エリストン侯爵家を出入りするアイシャに貴族のマナーを教えていた。そのため最初からすべてを教える必要はなかったが、貴族の一員になるということで、他家の貴族の名前や人物を覚えなければいけないという試練が待っていた。
アレスやロイナーは幼いころから少しずつ覚えてきたことをアイシャは半年で頭に叩き込まなければいけない。
「何も覚えていないわ。もう一度覚えないといけないことになりそうね」
せっかく覚えた貴族のことをアイシャはすべて忘れていた。
「焦る必要はないよ」
ロイナーが慰めるように言うとアイシャはアレスを窺うように見てきた。
本当に思い出せなくていいのかと視線が訴えているようで、アレスは大丈夫だと伝えるように頷いた。
記憶のないアイシャを責める者は誰もいない。
「半年ここで生活した後は、王都に行ったのよね。女神の代理人は王族の保護下になるから、お城で生活していたと思うけど、私はちゃんと生活できていたのかしら?」
エリストン侯爵家で過ごした日々を思い出せないアイシャは、王都に向かった後のことも忘れている。
アイシャの質問にアレスは一瞬言葉を詰まらせた。ロイナーがじっと見つめてくる。
しっかりと説明しろと言われているようで、アレスは気を取り直して口を開いた。
「君は一生懸命王城での生活になじもうとしていたようだが、結果として辛い王城生活になっていた」
この話をしなければいけないことに心苦しさを感じる。
アイシャが王城で女神の代理人として生活を始めたが、アレスは何も助けてあげることができなかった。
「生活になじめなかったということですか?」
「そうではない。アイシャが女神の代理人だということは覆せない事実だ。なのに、それを認めようとしない人間が王城にいた」
アイシャが首を傾げる。アレスの言っている意味がよく理解できない様子だった。当然だろう。女神の代理人は王族の保護下となり大切に扱われる存在だ。貴族だけでなく平民だって知っている常識なのに、それを無視した行動を取っていた人間がいたなんて信じられないのだろう。
「詳しい内容は折を見て話していった方がいいだろう」
アイシャの辛い生活をどう説明したらいいのかアレスが考えているとロイナーが軽く手を挙げて制した。何も記憶がないアイシャに話すには酷だと思ったのかもしれない。
「急に色々話しても混乱してしまうだろう。話を聞いて思い出せることもあるかもしれないが、最初に辛い記憶を呼び起こす必要もない」
思い出せることがあるとしたら楽しいことや嬉しいことを思い出してほしいというアレスの気持ちもあった。
あまり理解できていない表情でアイシャはとりあえず頷く。
「しばらくここに滞在することになる。慌てず色々と話をしていけばいい」
アレスがそう言うと、アイシャが数回瞬きをしてからじっとアレスを見つめてきた。
「しばらく滞在されるのですか?」
「俺がここに来たのはアイシャに何が起こったのかを説明することと、記憶がないということを確かめること。そして、アイシャがもう一度王都に来てくれるように説得して連れ帰ることだ」
「王都に?」
「女神の代理人であるアイシャ=エリストンは王家の保護下にある。眠っている間は侯爵家にいることになったが、本来は王城で生活しているはずだった。だから、目を覚ましたのならもう一度王都に来てもらえるように説得するために俺がここにいる」
アレスにとってとても重要な役目だった。
「殿下自らそんなことをされるのですね」
意外だと言いたげにアイシャが驚いている。
「女神の代理人はそれだけ重要な存在だということだ。それに、前回も俺が迎えに来ている」
アイシャは何も覚えていないが、彼女が女神の代理人に選ばれことを知ったアレスはすぐに侯爵家へと来ていた。本来ならすぐに王都へ連れて行くところだったが、平民であったアイシャを貴族の淑女にするため半年間待つことになり、その間ずっとアレスも侯爵領に滞在していた。だが、その記憶をアイシャは持っていない。
「あまり長くはいられないだろうが、可能な限りアイシャに合わせようと思っている」
前回のように半年も一緒に居られる時間はなかった。
「最長で3か月が限界だ。女神の感謝祭が3か月後に迫っているから」
女神の感謝祭はレイデント王国が女神オリビアから祝福を授けられた日として定められ、女神への感謝を表す祭りだ。そこで、女神の代理人に選ばれた人間が女神からの啓示を受けるのと同時に、この国に女神が祝福を与え続けるべきかを判断する儀式が執り行われる日でもあった。
「3か月・・・」
女神の代理人になった記憶を失っているアイシャでも代理人の役目は知っている。その重要な存在になっている実感がないままアイシャは決断を迫られてしまうかもしれない。
「とりあえず、まだ3か月ある。ゆっくり考えていけばいい」
3か月をどうとらえるかはわからないが、アレスはできる限りのことをするつもりでいた。
そして、その間にアイシャが思い出せないのなら、もう一度自分のことを知ってもらう努力をしなければいけないと覚悟を決めるのだった。




