記憶の行方
「このまま目を覚まさないことも覚悟していたけれど、目覚めてくれてよかったわ」
目の前にいるエレナが涙を拭いながら感動的に言っている横で、彼女の夫であるカイン=エリストンは同意するように深く頷いていた。
「本当によく目覚めてくれた」
2人が感動しているその後ろに数人の使用人がずらりと並んでいたが、誰もが言葉を発することなく深く頷いている。
数人だが顔を知っている使用人がいるが、ほとんどが知らない顔ぶれになっていて、使用人の入れ替わりにアイシャは驚くしかなかった。
昨日まで知った顔ぶればかりだったのに、起きてみると使用人が変わっている。不思議な感覚に混乱するしかなかった。
「カイン様。私が3年も眠っていたというのは本当ですか?」
「本当だ。君は3年前に眠りについて今日まで一度も目を覚ますことなくベッドで眠っていた」
「・・・実感がなにもないです」
寝て目が覚めたら3年後になっていた。
エレナが部屋を出て行ってカインや使用人を引き連れて戻ってきたのはすぐのことだった。アイシャが目を覚まして動いている姿を見て誰もが驚いていたが、アイシャも大騒ぎになっていることに違和感と驚きがあった。
何が起こっているのかわからないアイシャだったが、カインが事情を説明してくれて納得はできなかったが事実なのだろうと受け止めなければと努力している最中でもあった。
アイシャは3年間エリストン侯爵家で一度も目を覚ますことなく眠り続けていたのだ。
「事実なんですよね」
「そうだ。それに、どれだけ否定したとしても鏡を見ればはっきりするだろう」
そう言われてアイシャは自分の髪に指を絡ませた。
アイシャの記憶では髪の色は母親譲りの茶色だった。そのはずなのに、今触っている髪はピンクだ。ストロベリーブロンドと呼ばれる艶のある美しい髪質になっている。鏡を見て確認すれば緑色の瞳も今は金色になっているだろう。明らかな異質の色をまとっていた。
「その髪と瞳の色の意味はわかっているかい?」
「・・・女神の代理人ですよね」
「そうだ。アイシャは女神オリビアから祝福を受けて女神の声を聞き、その声を人々に伝えるこの国で重要な役目を賜った存在になった」
アイシャが住んでいるレイデント王国ははるか昔に女神オリビアから祝福を受けて人々に与えられた豊かな国とされている。女神オリビアは人間に国を与えたがそれ以外にオリビアの声を聞くことのできる人間を選び代理人という存在を用意していた。
代理人に選ばれた人間はわかりやすく女神と同じピンクの髪に黄金の瞳を持ち、国で最も重要な存在として敬われることになる。
その存在にアイシャが選ばれていたのだ。
「でも、私には選ばれたときの記憶がありません」
カインの話だと、アイシャが選ばれたのは3年前のことだった。女神の代理人となった者はどこの誰であろうと関係なく王城に呼ばれ、王族の保護下に置かれて女神の意思を示さなければいけない。
だが、アイシャは代理人になった記憶がなければ王族にあった記憶さえなかった。
「代理人になったけれど、それと同時期に眠ったのですか?」
王族と会った記憶がないので王城へ行く前に眠ってしまったのではないかと考えた。
「君は代理人になって、ちゃんと王太子殿下が迎えに来てくださったよ。王都に行き、王城で半年生活していた」
カインの説明に記憶はないが事実なのだろう。
「半年もお城で生活していたなんて・・・」
いったいどんな生活をしていたのか想像すらできなかった。
「貴族でもない人間がいきなりお城で生活なんて出来ていたのかしら?」
首を傾げるしかなかった。アイシャは平民生まれだった。両親と一緒にエリストン侯爵領の領主が住んでいる大きな街から少し離れた森の中で住んでいた。どうして街ではなく森の中だったのか幼かったアイシャは疑問に思うことなく両親の愛情を受けて穏やかな生活をしていた。
ところが父親が亡くなったことで母はアイシャを連れて街で働くため移り住んだのだ。
そこで母一人子一人の生活だったのだが、母はなぜかエリストン侯爵夫人であるエレナと知り合いだった。そのため街で働きながら時々アイシャをエリストン家に預けていたのだ。そのためアイシャは侯爵家が幼いころの遊び場になっていた。アイシャと年の近いエリストン侯爵令息がいたので、よく遊んでもらった記憶がある。
それでもアイシャは平民だ。貴族の生活をしてきたわけではないため、王城での生活などいったいどんなことになっていたのかわからない。
「そのことだけど、代理人に選ばれたことでアイシャはエリストン侯爵家の養子になったんだ」
「え?」
「今君はアイシャ=エリストン侯爵令嬢だ」
「でもそれだと、お母さんは?」
街で働いている母はどうなったのか。3年眠っていた間のことが気になった。
すると、エレナが驚いた顔をしてカインを見た。カインは一瞬眉間にしわを寄せてから小さく息を吐きだす。それだけで嫌な予感がした。
「そのことを覚えていないようだね」
「お母さんに何かあったの?」
声が震える。優しかった母の記憶はちゃんと残っている。3年の間に何かが起こったのだとすれば後悔してしまう気がした。
「君の母親のセレーナは、病気を患っていた。アイシャが代理人に選ばれる少し前に病気で亡くなっているよ」
「お母さんが死んでいる・・・」
「体の不調は少し前からあったようだけれど、診療所に行くことなく仕事をしていたせいで発見が遅れたの。アイシャの成人を盛大に祝いたいからと仕事を優先してしまったのよ」
病気が発覚してからそれほど時間が経たずにセレーナは息を引き取っていた。だが、アイシャにはその記憶がなかった。
母親が病気だったことも記憶にない。
「おそらくセレーナの病気が発覚する少し前から記憶がないのだろう。だから、セレーナのことも覚えていない」
カインの推測は当たっているのだろう。そして、同時にアイシャは母親の最期を見届けているはずなのにそれを思い出せないことに強い衝撃を受けていた。
「お母さん・・・」
「セレーナから、自分にもしものことがあった時はアイシャを頼みたいとお願いされていたの。だから、私たちは代理人にならなくてもアイシャを養子に迎える準備をしていたのよ」
病気がわかってからセレーナに頼まれていたらしい。どちらにしてもアイシャは侯爵令嬢になる予定だった。だが、何も覚えていない。
それよりも母親がいないことが何よりも悲しくて辛かった。
「今日はここまでにしようか」
カインの言葉に顔を上げたアイシャは視界がぼやけていることに気が付いた。涙が止まらない。
「一人で考える時間が必要だろう。何かあればすぐに人を呼びなさい。一人が嫌だと思ったら私でもエレナでもいつでもそばにいるから」
そっと肩を叩いてカインが部屋を出ていく。
「私たちはいつでもあなたの味方だということを忘れないでね」
エレナが伸ばした指先がアイシャの手の甲を撫でていく。その温もりがアイシャの涙をさらに溢れさせた。不安そうにしながらもエレナはそれ以上何も言わずに部屋を出ていった。使用人たちも一緒に出て行ったため、部屋にはアイシャだけが残された。
誰もいなくなったことでアイシャはベッドに座る形で膝を抱え、我慢していた気持ちを押し出すように泣いた。母が死んでしまった悲しみもそうだが、母の最期を思い出せないことの方がアイシャには衝撃だった。大切な記憶が消えてしまっていることに、とにかくアイシャは嗚咽とともに涙を流し続けた。




