第五話 学校に来なかった方
北藪のことを、誰も話題にしなくなった。
前の席には、別の生徒が座るようになった。
長い前髪の影は消え、視界は以前よりも明るい。七村は、それに慣れようとしていた。
それでも、完全には戻れなかった。
授業中、ふとした拍子に前を見る。
そこに“何もない”ことを確認してから、ノートに視線を落とす。
その癖だけが、残っていた。
昼休み、七村は図書室に向かった。
理由ははっきりしている。調べ物をしたいわけではない。
ただ、静かな場所に行きたかった。
古い資料の棚の前で、足が止まる。
学校の記録をまとめたファイルが、並んでいる。
卒業アルバム。
過去の名簿。
欠席者の一覧。
七村は、それらに触れなかった。
触れれば、探すことになる。
代わりに、司書に声をかけられた。
「何か探してる?」
七村は首を横に振った。
司書はそれ以上聞かず、別の棚へ戻っていった。
そのとき、背後で別の声がした。
「……北藪さんのこと?」
振り向くと、同じクラスの女子が立っていた。
よく話す相手ではない。ただ、保健委員だったはずだ。
「前の席だったよね」
七村は、肯定も否定もしなかった。
女子は少しだけ言葉を選ぶようにして、続けた。
「実はさ……先生たちの間で、前から話は出てたんだって」
七村は、黙って聞いていた。
「家の事情で、来られない時期があるって。
……ずっと、じゃないけど」
その言い方が、妙に引っかかった。
ずっとではない。
でも、来ていなかった時間がある。
「双子とか、そういうのじゃないよ」
女子は、先回りするように言った。
「ただ……学校に来ていなかった人が、いたらしいって」
七村の胸の奥で、何かが静かに重なった。
窓際。
咳の音。
外を見ていた視線。
——来なかったのではない。
来られなかったのだ。
その違いが、はっきりとわかる。
「……そうなんだ」
七村は、それだけ答えた。
女子は「ごめん、変な話して」と言って、立ち去った。
残されたのは、言葉にならなかった気配だけだ。
放課後、七村は旧棟へ向かわなかった。
代わりに、校舎の外周を歩く。
窓の向こうに、教室が並んでいる。
中に入る人。
入れない人。
ガラスは、境界だった。
学校に来なかった方。
その言葉が、頭の中に残る。
もし、前の席にいた北藪が“来ていた側”だとしたら。
窓際にいた誰かは、“来られなかった側”だったのではないか。
七村は、そこで立ち止まった。
それ以上考えるのは、少しだけ残酷な気がした。
理解することと、踏み込むことは、違う。
わかってしまうほど、遠ざかれなくなる。
七村は歩き出す。
誰にも見られない時間が、誰かを支えていたかもしれない。
そして、誰かに見られ続ける時間が、誰かを縛っていたかもしれない。
どちらも、間違いではない。
ただ——
同じ場所には、立てなかった。
七村は、その考えを胸の奥にしまい、
今日も何も記録せず、家路についた。




