第三話 窓際にいた
朝、教室に入った瞬間、七村は立ち止まった。
空気が、昨日と同じではなかった。
誰かが話している。
笑い声もする。
机の配置も、黒板の文字も変わらない。
それなのに。
七村は、前の席を見た。
空いている。
椅子も、机も、昨日と同じ位置にある。
それを確認してから、
七村は少し遅れて気づいた。
見てしまった、という感覚が残っている。
何を、とは言えない。
昨日のどこかで、
確かに「見た」という事実だけが残っていた。
七村は席に着く。
隣の席では、ノートが開かれる音がした。
昨日と、同じ音。
けれど。
七村は、その音が
昨日よりも少し近く聞こえた気がして、
それを否定しなかった。
前の席は、空いたままだ。
それでも、
そこに何かが存在している前提で、
自分が動いていることに気づく。
それは、勘違いかもしれない。
疲れかもしれない。
説明は、いくらでもつく。
けれど七村は、
そのどれも選ばなかった。
違和感は、
理由を与えられた瞬間に、
ただの納得に変わってしまう。
七村は、
まだ納得していなかった。
前の席を見て、
何もないことを確認してから、
もう一度だけ、
「そこにあるはずのもの」を意識する。
——何が、あるのかは分からない。
ただ、
輪郭だけが、先に立ち上がっていた。
チャイムが鳴る。
日常が、始まる。
七村は、
その日常の中に、
一つだけ混ざった異物を、
見失わないように、
何もしないまま、座っていた。
放課後、校門へ向かう途中で、七村はふと歩く速度を落とした。
遠回りになるとわかっていながら、旧棟の方へ曲がる。
理由は考えなかった。
考えた途端、行けなくなる気がした。
旧棟の廊下は、昼間でも薄暗い。
使われていない窓から差し込む光が、床に細長い影を落としている。
窓際に、人がいた。
——いた、と思った。
長い黒髪。
制服の肩口。
窓の外に向けられた横顔。
七村は立ち止まった。
近づくにつれて、胸の奥がざわつく。
視界に入っていた前髪の形が、同じだった。
それだけで、前の席を思い出してしまう。
授業中、視界の端に落ちていた影。
だが、違う。
前の席に座っていた北藪は、俯いていた。
外を見ることはなかった。
窓際の彼女は、外を見ていた。
七村は一歩、足を踏み出す。
床が小さく鳴った。
彼女は振り向かない。
呼び止める言葉が、喉の奥で止まった。
「……北藪」
声は、届かなかった。
小さな咳の音がした。
それだけが、確かだった。
校内放送のチャイムが鳴った。
反射的に目を閉じる。
目を開けたとき、窓際には誰もいなかった。
ガラスに残った手の跡と、
冷えた空気だけがあった。
七村は、その場を離れなかった。
視界の端、階段下の影に、
小さな形があった。
落とし物のようにも見えた。
確かめようと思えば、できた。
七村は、立ち止まらなかった。
それを見て、
これは見なくていいものだと思った。
旧棟を出ると、外は夕方だった。
七村は歩きながら、
前の席のことを思い出す。
長い前髪。
伏せられた目元。
それ以上は、思い出せなかった。




