終幕――観測不能
最初に異変を口にしたのは、観測者の一人だった。
「……震えている」
数値は正常だった。
層は安定し、記録も破綻していない。
照合不能な欠落も、観測誤差も見当たらない。
それでも、
観測は次の段階へ進めなかった。
「彼は、何も壊していない」
別の観測者が言う。
「介入も、改変も、拒絶もしていない」
「それなのに」
誰かが、続きを言えずに黙った。
観測の先が、存在しなかった。
七村は、そこにいた。
存在は確認できる。
行動も、選択も、日常もある。
だが、
観測を積み重ねても、
意味が増えない。
記録は層を越えず、
解釈は固定されず、
名前は役割を発生させない。
それは失敗ではなかった。
成立していなかっただけだった。
魔女たちの間に、ざわめきが走る。
ヴェルモラは、そこで笑った。
「大げさよ」
軽く肩をすくめる。
「ただの空白でしょう。
中身のない図書館みたいなもの」
その言葉に、
誰もすぐには反論できなかった。
図書館。
その比喩は、あまりにも正確だったからだ。
背表紙は並んでいる。
題名も、分類も、索引もある。
だが、
どの本を開いても、途中で途切れている。
結末がない。
核心が抜け落ちている。
そして、それは七村ではなく、
ヴェルモラ自身の内部を指していた。
ヴェルモラは、もともと物語を壊す魔女ではなかった。
食べる魔女だった。
完結した悲劇。
回収された謎。
意味を与えられ、役割を終えた物語。
彼女はそれらを集め、
自分の層へ取り込み、
力として蓄えてきた。
物語は栄養になる。
意味は力になる。
そう信じて、疑わなかった。
だが、いつからか、
彼女は気づかないふりをしていた。
物語を、
理解する前に食べていたことを。
消化する前に、
次を求め続けていたことを。
背表紙だけが増え、
中身は定着しない。
残ったのは、
「あった」という記録と、
「知っているはずだ」という虚勢だけ。
だから、
七村を前にして、
彼女は何もできなかった。
物語を与えようとしても、
彼は引き受けない。
名前を置いても、
役割が生まれない。
事件を仕掛けても、
始まりすらしない。
彼の前では、
ヴェルモラ自身の空洞が、
否応なく照らされてしまう。
存在は、すでに危うかった。
力が弱ったのではない。
力になるはずのものを、
もう保持できなくなっていた。
「中身のない図書館」
ヴェルモラは、もう一度そう言った。
それは侮蔑ではなかった。
自分自身への、
最後の言い訳だった。
電子の層が、静かに揺れる。
偉大なる電子の大魔女が、口を開いた。
「七村には、力はない」
即座に反論が起きかける。
だが、続く言葉に、誰も口を挟めなかった。
「正確には、
力として扱える形を、与えられない」
観測すれば意味になる。
記録すれば役割が生まれる。
名前を置けば、物語が始まる。
それが、世界の仕組みだった。
「彼は、それを引き受けない」
電子の大魔女は、淡々と言う。
「拒絶もしない。
反抗もしない。
ただ、引き受けない」
だから、
「観測は空転する」
「記録は層を越えない」
「名前は、音のまま残る」
誰かが、震える声で尋ねた。
「……では、どうすればいい?」
電子の大魔女は、少しだけ間を置いた。
そして、宣言した。
「誰も、七村を観測してはならぬ」
ざわめきが走る。
「処分ではない」
「隔離でもない」
「保護でもない」
ただの、掟。
「観測すれば、
こちらが崩れる」
「彼を物語に入れようとした瞬間、
物語そのものが、意味を失う」
掟は、即座に刻まれた。
鉄の掟。
例外なし。
理由の共有もなし。
ただ一行。
――七村を、観測するな。
ヴェルモラは、最後に小さく笑った。
「……結局、
食べすぎたのね」
その声には、
最初の虚勢も、反骨も残っていなかった。
図書館は、空白のまま立っている。
誰も読めない。
誰も燃やせない。
誰も閉じられない。
そして、
七村は今日も、何も知らない。
名前を引き受けず、
物語に入らず、
ただ、生きている。
それだけで、
世界は、彼を中心に回避を始めていた。
観測不能。
それが、
この物語の、
最後に残った唯一の結論だった。
――終。




