5-6 名前について
メガニコは、ノートの一番後ろのページを開いた。
新しい話を書くつもりはなかった。
プロットも、犯人も、トリックも要らない。
ただ、書いておかないと落ち着かないことがあった。
——名前。
ペン先で、その二文字を書いてみる。
名前。
探偵ものでは、名前は重要だ。
名乗った瞬間、人物になる。
容疑者になり、被害者になり、犯人になる。
名前が出た時点で、
物語は動き始める。
だから、あの紙を見たとき、
胸がざわついた。
はっきりとした文字。
迷いのない線。
七村。
あれは、事件になるはずだった。
誰が書いたのか。
なぜその名前なのか。
本人は関与しているのか。
問いは、勝手に増える。
——増えたのに。
事件にならなかった。
七村は、否定もしなかった。
怒りもしなかった。
説明もしなかった。
ただ、
「僕の字じゃない」
それだけだった。
メガニコは、そこで初めて気づいた。
名前があるのに、
役割が発生していない。
探偵ものなら、
名前は役割の入口だ。
でも、七村は入らなかった。
入らなかったから、
誰も追いかけられなかった。
名前は、
扉の前に置かれた札みたいなものだ。
中に入る人がいなければ、
ただの板切れになる。
メガニコは、ノートに書く。
——名前は、縛るためのものじゃない。
——縛れるのは、
その名前を引き受けたときだけ。
少し考えて、書き足す。
——引き受けない、という選択肢は、
物語ではあまり使われない。
探偵は、必ず名前を拾う。
犯人の名前を暴き、
被害者の名前を弔い、
自分の名前を残す。
それが仕事だから。
でも、仕事じゃなかったら?
メガニコは、ペンを止める。
あのとき、
紙を畳んで戻した自分の手を思い出す。
事件にしない、と決めた瞬間。
少しだけ、
怖かった。
でも同時に、
軽くもなった。
メガニコは、最後にこう書いた。
——名前は、
呼ばれなければ、
ただの音だ。
——音のままにしておくことも、
たぶん、できる。
ノートを閉じる。
窓の外では、風が吹いている。
どこかで、
呼ばれなかった名前が、
そのまま通り過ぎていった気がした。
メガニコは、それを追わなかった。
追わなくても、
何かが壊れた感じはしなかった。
むしろ。
物語が、
少しだけ、
自由になった気がした。




