1-6 解けない事件
旧棟の掲示板に、一枚の紙が貼られていた。
それに気づいたのは、七村ではなかった。
「これ、昨日はなかったよね」
隣の席の彼女が言った。
声は小さく、断定するほど強くもない。
七村は掲示板を見る。
白い紙が一枚。
四隅を画鋲で留められている。
何も書かれていない。
それだけだった。
隣の席の彼女は、普段はあまり話さない。
でも、気になるものを見つけると、
そのままにしておけない時がある。
「いたずらかな」
七村はそう言った。
「違うと思う」
即答だった。
彼女は一歩近づいて、紙を見る。
指で触れたりはしない。
「だってさ、
何も書いてないなら、
わざわざ貼らなくてもいいでしょ」
七村は、その理屈を否定しなかった。
肯定もしない。
確かに、
白紙であることは、
掲示しなければ成立しない。
「誰が貼ったと思う?」
彼女は七村を見ずに聞いた。
「誰でも」
「そう?」
「貼った人の名前は、
どこにも書いてない」
彼女は少し黙る。
もう一度、紙を見る。
昨日まで、そこに何もなかった場所を。
「……沈黙、ってこと?」
「沈黙なら、
置かなくてもいい」
七村はそう言って、視線を外した。
風が吹いて、
紙の端がわずかに揺れた。
彼女は、その動きを追う。
「ねえ」
少しだけ、声が低くなる。
「もしこれが、
誰かの“見てほしい”だったら?」
七村は答えなかった。
答えなかった、というより、
答える場所を見つけなかった。
「見てほしいなら、
見てほしいって書く」
「書けなかった可能性は?」
「それは、
書かなかった、とは違う」
彼女は、そこで初めて七村を見る。
七村は、掲示板を見ていない。
紙も見ていない。
ただ、
そこに立っている。
「……この事件」
彼女は言いかけて、止めた。
事件、という言葉が、
ここには合わない気がしたからだ。
しばらくして、彼女は言い直す。
「これ、どうする?」
「どうもしない」
「外す?」
「外したら、
なかったことになる」
「外さなかったら?」
「誰かが見る」
「それで?」
「それだけ」
彼女は迷ったあと、
紙に触れず、そのままにした。
「解けないね」
「終わってると思う」
「……探偵ものだったら、最低だよ」
「小説じゃない」
その日の夕方、
白い紙は風で剥がれて、どこかへ飛んでいった。
誰が貼ったのか。
なぜ白紙だったのか。
それが事件だったのかどうかも、
分からないままだった。
でも、
そこに二人が立っていたことだけは、
確かだった。
彼女は、白い紙が風に揺れるのを見ながら、
これは解けないな、と思っていた。
犯人も、動機も、正解も、
どれも置く場所がない。
七村は、何も言わなかった。
それが、この場で一番変わっていると思った。
問いを置いたまま立っている人を、
彼女は、初めて見た気がした。
だから、
この話は書けるけれど、
解いてはいけない、とだけ思った。
解かないままにするためには、
書いておく必要がある気がした。




