終章補遺 ――層の外縁にて
層は、静まっていた。
記録側の層には、整えられた像が残っている。
長い前髪。
前を向いた顔。
欠落のない形。
——北藪夏乃。
「見事な沈み方だわ」
誰かが言う。
賞賛ではない。ただの確認だ。
「完全に記録側へ落ちた」
「揺らぎも、抵抗もない」
「残る条件だけで構成された層」
低い声が、すぐに被せる。
「それで十分よ」
意地を張るような、張り付いた声だった。
「記録は、綺麗なほうがいい。
歪みはノイズ。
層は、整理されていなければならない」
「昔は違うことを言っていたわね」
くすくすと、視線が揺れる。
「“歪みこそが層を深くする”って」
「……覚えているなら、黙って聞きなさい」
低い声は、語気を強める。
「私は、今も正しい」
「“今も”?
それとも“まだ”?」
沈黙。
「結果は出ている」
低い声は、わざとゆっくり言い直す。
「北藪夏乃は、完全に記録された」
「片方は?」
間があった。
「……外側の層に残った」
「残した、の間違いじゃない?」
「残したんじゃない」
即座に言い返す。
「その層に、入らなかっただけ」
「同じことよ」
笑いが混じる。
「昔のあなたなら、
外側の層なんて許さなかった」
「今でも、できる」
低い声は、強がる。
「存在ごと消せる。
記録を断ち、
観測を止め、
痕跡を沈める」
言葉だけは、やけに具体的だった。
「やろうと思えば、いつでも。
あの層も、この層も、全部」
「……でも、やらなかった」
静かな指摘。
「やらなかったんじゃないわ」
すぐに返す。
「選ばなかっただけ」
「便利な言葉ね」
「失敗を“層の選択”って言い換えるの、
相変わらず得意」
低い声は、鼻で笑った。
「私は、世界を甘やかしているだけ」
「外側の層を残したのも、慈悲よ」
「——観測されない層があったほうが、
物語は面白いでしょう?」
誰も、本気では否定しなかった。
けれど、誰も信じていなかった。
しばらくして、
それまで黙っていた声が、ふと零した。
「……本当はね」
その声は、少しだけ軽かった。
愉快そうで、同時に未練を含んでいる。
「夏乃が死んだあとに、
雪乃を見た七村と、
その先が、見たかったの」
層が、わずかに揺れる。
「どうなったか、じゃないわ」
ヴェルモラは、肩をすくめる。
「恋に落ちたか、とか
救えたか、とか
そういうのじゃない」
少しだけ、声が柔らぐ。
「ただ、
見てしまったあとも、 同じ世界を歩き続けたのかどうか」
「それを、観測したかった」
低い声が、冷たく返す。
「未練ね」
「欲よ」
ヴェルモラは、あっさり認めた。
「だってそれ、
記録の外側に行きかけた層だもの」
「……だから、あなたは嫌われるのよ」
「知ってる」
ヴェルモラは、楽しそうに言う。
「でもさ」
「観測者って、
そういう未練でできてるんじゃない?」
誰も答えなかった。
答えられなかったのか、
答える必要がなかったのか。
ただ一つ、確かなことがある。
——それは、
最後まで観測されなかった。
層は、静かに閉じていく。
次に何が起きるかを、
誰も記録しようとはしなかった。
記録してしまえば、
また言い訳の層が増えるだけだから。




