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第十二話 固定されかけたもの

 旧棟は、夕方になるといっそう静かになる。


 使われなくなった教室の前を、七村はゆっくり歩いていた。

 目的があったわけではない。ただ、ここに来ると、視線が少しだけ軽くなる気がした。


 窓の外で、風が鳴る。

 ガラスに映る自分の姿は、どこにも引っかからない。


 足元に、白いものがいた。


 七村は立ち止まる。

 逃げない。

 けれど、近づきもしない。


 前に見たときと、形は変わらなかった。

 同じ色。

 同じ大きさ。


 ただ、同じ場所ではなかった。


 七村は、少しだけ安心している自分に気づく。

 それが、ここにいていい理由だった。


 白いものは、こちらを見ているようで、見ていない。

 視線が合わないのに、存在だけははっきりしている。


 七村は、ポケットの中の端末に指をかけた。


 撮ろうと思えば、撮れた。

 残そうと思えば、残せた。


 写真にすれば、

 「ここにいた」と言えてしまう。


 それは、楽なことだった。


 迷わなくて済む。

 考えなくて済む。


 記録は、選択を代わりにしてくれる。


 七村は、端末を取り出した。


 画面が点く。

 フレームが、自然と対象を探し始める。


 白いものが、画面の中央に収まる。


 ——固定できる。


 その瞬間、七村は理解しかける。


 見つけたから撮るのではない。

 撮ることで、見つけたことにしてしまう。


 七村は、指を止めた。


 画面の中で、白いものがわずかに位置をずらす。

 次の瞬間、そこにはもういなかった。


 残ったのは、旧棟の床と、光の影だけだ。


 七村は、端末の電源を落とす。


 胸の奥で、何かが静かにほどける。


 記録しなかったことは、

 失ったことじゃない。


 固定しなかったから、

 逃げたわけでもない。


 七村は、もう一度、窓の外を見る。


 そこには、何もいない。


 でも、

 同じ場所にいないことだけは、確かだった。


 七村は踵を返し、旧棟を離れる。


 白いものは、もう見えない。

 それでも、ここに縛られなかったことだけが、残っていた。

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