第十一話 家を出る前に
玄関の前で、彼女は一度立ち止まった。
靴先を、揃え直す。
音を立てない癖は、もう直らなかった。ここでは、ずっとそうしてきた。
居間の奥で、テレビの音がしている。
言葉だけが流れ、画面の光が壁に淡く反射していた。
父は、背中を向けたままだった。
彼女は声をかけなかった。
呼び名を選ぶ必要がなかったからだ。
短くなった髪が、首元に触れる。
切ってから、何度も意識してしまう感触だった。
父は、それに気づいたかもしれない。
あるいは、気づかないふりをしたのかもしれない。
どちらでも、よかった。
棚の上に、写真立てが置かれている。
整えられた髪。前を向いた顔。
同じ制服。同じ背景。
彼女は、その前で立ち止まった。
壊さなかった。
持ち上げもしなかった。
ただ、写真立てを伏せた。
向きを変えるだけで、画面は見えなくなる。
それで、十分だった。
居間の音は、止まらない。
父の背中も、動かない。
彼女は自分の部屋へ向かった。
机の引き出しから、必要なものだけを取り出す。
書類。
診察券。
封筒にまとめられた、名前の印刷された紙。
それらは、どれも軽かった。
軽いまま、確かに重さを持っている。
部屋を出る前、鏡の前で一度だけ立ち止まる。
短い髪は、もう揺れない。
誰かに似ている必要は、なかった。
玄関に戻ると、父が初めてこちらを見た。
視線が、彼女の髪に触れ、すぐに逸れる。
言葉は、なかった。
それで、足りた。
彼女は靴を履き、扉に手をかける。
鍵は、閉めない。
閉めてしまえば、拒絶になる。
開け放てば、未練になる。
どちらも、選ばなかった。
外に出ると、空気が少し冷たかった。
息が、前よりも深く吸えた。
振り返らない。
その必要が、もうなかった。
家は、そこにあった。
壊れてはいない。
ただ、
彼女の居場所ではなくなっただけだ。
それでいいと、思えた。




